*回帰*

「山神さま?」
 蕎麦をズルズルとすすりながら、来島は宿の主である男の言葉を反芻した。それに高杉は咽喉で笑い、万斉は僅かに眉を上げた。
 とある田舎の温泉街を訪れた三人は、宿で昼食を取りながら、主人の世間話に付き合っていたのだが、そこで出てきた聞きなれない単語に思わず来島が声を上げたのだ。
 昔から山に住むという【山神】は温泉の源泉を守っていてくれるという。他にも、野菜や着物を供えると、魚や獣を返してくれるとか、山で遭難したら助けてくれるなど、民間信仰の典型的な物であったが、万斉は興味をそそったのか、あれこれと話を催促した。
「私が子供の頃は夫婦の山神さまだったんですがね。10年ほど前に源泉が地震で埋まってしまい、それを掘り起こしに行った人間が遭難しまして、……その時助けてくれたのは子供の山神さまでした」
「夫婦の子供っスかね?」
「神様も代替わりすることもあんじゃねぇの?」
 不思議そうに言った来島に、高杉は可笑しそうに口元を歪めるとそう返答した。
 遭難した人間が翌朝には一人残らず助けられ、埋まったはずの源泉も元通りとなっていたという奇跡の話。例えば大昔の話であれば眉唾だと笑ったかもしれないが、10年といえば最近だ。覚えている人間も多いのだろう。もしかしたら、この主も助けられたクチなのかもしれない。そう思い、高杉は瞳を細めた。
「……鬼子って言ってる奴もいるんじゃねぇか?」
 高杉の零した言葉に、主人の表情は曇った。
 この辺鄙な温泉街は、それ以外産業らしい産業もなく寂れている。それを憂いた一部の者達が、とある工場を誘致したのだ。無論村の中でも、賛否両論ではあった。工事をすることで温泉が枯れてしまうのではないかという心配や、環境への心配など、争いの種は尽きない。
 温泉を営む者達は、山神さまだと信仰しているが、山を切り開く者たちは【鬼子】だと言っているのだ。高杉は先程村の中でそんな話を小耳に挟んだのだ。
「……工事の邪魔をすると、そう呼ぶ者もいますが……」
 言葉を濁した主人を見て、来島はふぅん、と鼻を鳴らし、残った蕎麦を勢い良く啜った。
「なんだか難しいっスね」
 元々考えることは得意ではないし、そんなのは武市にやらせておけばいいと本気で思っている来島は、そう零すと、蕎麦のおかわりを催促する。水が綺麗なこの土地の蕎麦は、数少ない名物なのだ。
「どちらが正しいとも言えぬでござろうな。工場を誘致した者はこの土地が寂れていくのを憂いたのであろうし、反対をする者は寂れて行ってもこの土地を昔のまま守りたいと思っているのでござろう。どちらもこの土地が好きで、将来を考えて動いているのでござるから」
 それは天人が襲来したこの星にも言えることであった。
 天人の齎す高度な科学力を安易に受け入れていいのか否か。緩やかにでも、己たちの力だけで一歩ずつ歩んでいくべきではないのか。
 もっとも、それは圧倒的な科学力の前にこの星は敗北してしまったので、否応なく前者となったのだが、まだ地方では緩やかな流れが残っていたりもする。そういう意味では、この土地は漸く外からやってきたものを排除するか、共存するかと言う選択を遅ればせながら迫られているのだろう。
「で、主。どこに行けば山神さまに会えるのでござる?」
「……はい?」
 万斉の言葉に主人は驚いた様な顔をする。まさか会いに行きたいと言い出すとは思わなかったのだ。しかしながら、万斉が大真面目にそう言っているのだと理解して、主人は困ったように口を開いた。
「日のあるうちは滅多に会えませんよ。夜に源泉の傍に行けば、山神さまも温泉に入っていますから、会えるかもしれませんが……でも今は夜は出歩かないほうがいいです」
 一旦言葉を切った主人は、小声で万斉達に言葉を零した。
「工事が邪魔されていますので、山狩などを時々しているようなのです。巻き込まれたら危ない」
 成程、と万斉は納得した。恐らく鬼子狩りをしているのだろう。たしかにそれに巻き込まれたら厄介ではあるが、どうしてもその山神とやらを見たくなった万斉は、とりあえず源泉の傍には言ってみようと勝手に決めた。
「山神さまも温泉に入るんッスか?」
「源泉の傍に小さな温泉を作ったのです。供え物も基本的にそこにします」
 川から水を引いて源泉の温度を少し下げた物だと言う。そこが恐らく村人と、山神の数少ない接触点なのであろう。源泉に行くこと自体は、時折村人も整備に行くので道もある程度作られており、そう難しくないらしい。
「ふむ。では少し覗いてくるでござる」
 ごちそうさま、と箸を置いてさっさと出て行ってしまった万斉を見送り、主人は残った二人に困ったように視線を送った。
「大丈夫でしょうか?」
「夜じゃなきゃ大丈夫なんだろ?つーか、昼間に山狩を何でしねぇんだ?」
「昼間は滅多に姿を見せませんので……その、工事に機械を壊した山神さまの後を追って山狩に入っているという状態でして……」
 主人の言葉に来島は思わず食べていた蕎麦を吹き出しそうになった。工事の機械は先程ここに来るまでに見たが、かなりの大型重機ばかりだった。それを壊す山神さまというのは一体何なんだと驚いたのだ。
「寝床が解んねぇから、後をつけるなんざ、何時まで経っても終わりそうにねぇな、鬼子狩りは」
 咽喉で笑った高杉をみて、主人は、困ったような、それでいてどこか同意をしたような複雑な表情を浮かべた。

 

 ブラブラと山に向かって歩き出した万斉は、横目に工事現場を眺め、ふむ、と小さく声を零した。工事といってもまだ始まったばかりの様で、ろくに穴も掘っていない。しかしながら、イビツに歪んだ重機等が目立ち、その移動のためか人が慌ただしく動き回っている。どうやら、工事の邪魔をするというのは、重機等を壊してしまうことだと理解した万斉は、ますます山神とやらに興味を持った。
 どうせ天人の類であろうと思ったのだが、アレだけのモノを壊せるとなると、戦闘タイプなのか、力が強いタイプなのか。ただ、源泉を整備したりと、人の姿は見せないが基本的には温和なのかもしれない。その矛盾した性質に興味を惹かれたのだ。
 そもそも万斉がここへやってきたのは気分転換の為であった。普段は高杉についてぶらぶらすることは殆どないのだが、絵に描いたようなスランプに陥り、曲が作れなくなったのだ。どうせ作れないのなら、どこか気分転換にと久々に高杉について出かけてみれば、こんな鄙びた温泉地にたどり着いた。
 ただ、ここは比較的気に入ってはいた。決して懐古主義や自然賛美の性質ではないのだが、流石にめまぐるしく変化していく江戸の雑多な音楽よりは幾分ましに思えるし、住んでる者の魂の音も、天人の恩恵を受けて皆似たりよったりになりつつある都会よりはまだ個性がある。だからといって、それが素晴らしいとか、好きであるとかとはまた別問題であるのだが。
 案内板の通りに歩いて行くと、源泉への看板が見え、万斉はそれ目印に山を登っていった。
 途中で距離を聞いておけば良かったと、少し後悔したが、歩いていある間は、さほど疲れは感じず、水音に釣られて道を外れた後見つけた川べりに座り込んだ時、どっと体が重たくなった。
 風は肌寒いが、日差しは心地よかったし、何より自分以外誰も居ないという開放感もあった。
 ヘッドホンを外して、風に揺れる木々の音や、水の音を吸収するように取り込む。
「……」
 少しこの場所を壊してしまうのは惜しい気がして、万斉は思わず眉を寄せた。江戸の街にも川は存在するが、ここほど心地よい音は奏でないだろう。雑音も無く、ただ、心地良いだけの場所。
 背負った三味線を抱え、弦を弾いてみる。
 久しぶりにまともな音が出せたような気がして、万斉は上機嫌に口元を歪めると、一曲、即興で曲を弾いた。
 恐らく都会では受けないであろう、ただ、心地良い音を並べただけの曲。
 けれど、今はそれでいいと、万斉は川を眺めながら、ただ、無心に曲を弾き続けた。
 そんな中。
 不意に今まで聞こえていた自然の音、以外の音が耳につき、万斉は驚いたように顔を上げる。ヘッドホンも外しているし、自分以外に誰もいなかったはずだ。獣でもいたのだろうかと、振り返ると、余り山では見ない、鮮やかな色彩が視界の端を横切った。
「……?」
 鮮やかな赤。
 季節は春には届かないこの山で、まだ花など一つも見かけなかった。なのに視界に捉えたのは、鮮血よりなお赤い鮮やかな色彩。
 それを見た瞬間、万斉は思わず身震いした。それは恐怖や畏怖ではない。ただ、その異質さを持っているのに、この場所に馴染んでいる矛盾。それに衝撃を受けたのだ。高揚感に近いその感覚に、万斉は口元を歪めると、また三味線を奏でる。
 ただ、今感じた音を、奏でてみたかった。
 けれど、弾けば弾くほど、あの魂の音をもっと傍で聞きたくなって、万斉は思わず手を止めて立ち上がる。
「!?」
 それと同時に、脱兎のごとく離れていく音。
「待つでござる!」
 そう声をかけたのも虚しく、ガサガサと茂みをかき分けて遠くなってゆく焦がれた音色に、万斉は三味線を抱え山の中へ入っていった。

 どれ位歩きまわったであろうか。結局音の持ち主を探すどころか、本来歩くつもりだった道も見失い、万斉は空を仰いだ。ただ、アレが山神とやらだったのだろうか、とぼんやりと考え、ならば夜にまた源泉の辺りに行ってみようと思い直し、道を探し直すことにした。
 しかし。
 歪んだ視界と、体に走った衝撃。
 むやみに歩きまわって、崖から落ちたと気がついたのは、少し経ってからであった。
「……運のない」
 一応とっさに受け身を取ったが、足を打ったのか鈍い痛みが走っているし、登るには些か骨が折れるであろう崖を、大の字に寝転んだまま眺めて万斉はため息を付いた。何もかもが面倒くさくなって、瞳を閉じると、意識をすぅっと手放した。

 次に目を覚ましたのは、見覚えのない小さなほったて小屋であった。
 ガラスも入っていない窓から入る風が冷たく、思わず身震いをする。
 無理矢理体を起こすと、上半身は裸にされており、そこには布と、恐らく薬草であろう葉がギュウギュウと体を締め付けるように巻かれていた。足の方に視線を送ると、そちらにも同じように薬と布が巻かれている。誰かが助けてくれたのだろうか。そう思い万斉は小屋の中を見回す。
 すると、葉を巻くのに使ったのか、古い着物が裂かれており、それ以外には殆ど物はない。ただ、自分の三味線が片隅に立てかけられていることには安堵した。
 不意に、窓の外に視線を送ると、木の枝にヒラヒラと風に靡く自分のコートを見つけ、万斉は僅かに眉を寄せた。干してあるのだろうか。そう思い、足の痛みを堪えて、ヨタヨタと小屋の外に出てみることにした。
 コートに触れてみると、まだ少し湿った感じはしたが、崖を落ちた時についたはずである汚れなどは綺麗に落とされていた。
 辺りを見回しても人の気配はしないし、まだ山の中であることは確かなようで、万斉は怪訝そうな顔をした。てっきり高杉か来島辺りが探しに来て、自分を拾ったのかとも思ったが、そうでもないらしい。
「……」
 ぼんやりと風に揺れるコートを眺めていると、背後に気配を感じて万斉は振り返る。
 そこには、魚をぶら下げた娘が、ぽかんとしたような顔をして立っていたのだ。
 そして万斉は、そこで自分が見た鮮血の赤の正体を知った。
「……」
 赤い瞳と、真っ白な髪。そして、色素の薄い肌。雨も降っていないのに和傘をさしている。
 何より、心地良い魂の音色。
「ヌシが助けてくれたのか?」
 万斉が言葉を放つと、娘はこくこくと頷いて、瞳を細めて笑った。その柔らかい笑顔は、何の屈託もなく、ただ、純粋に自分が無事だったことを喜んでくれているように感じられ、万斉は些か恥ずかしくなった。
 傍によれば逃げてしまうだろうか。そう思い、恐る恐るといったように万斉が娘に近づくと、彼女はててっと小走り万斉に近づき、ずいっと魚を目の前に差し出した。
「……拙者のくれるのでござるか?」
 そう言うと、娘はちらりと、コートの傍に積んである枯れ木に視線を送る。焼いて食べるということか。そう納得して、万斉はその魚を受け取ると、よろよろと枯れ木の側に行く。すると娘は器用に火打石で火を起こした。
「魚、焼くんよ」
 娘の発した言葉に万斉は驚いたように彼女の顔を凝視する。てっきり喋れないのだと思い込んでいたのだ。少々西の訛りがありるが、万斉の言葉は理解しているようであるし、意思疎通に困ることはなさそうで、万斉はホッとしたような顔をする。
 器用に木の枝に魚を挿すと、娘は恐らく塩であろう粉を魚にふりかけ、焚き火の傍にぺたんと座る。
 魚が焼けるまでの間、娘はじっと火を眺めながら、くるくると和傘を回していた。
「雨は降っていないでござるよ」
「雨の日はささないんよ。お日様よけなんよ」
 そう言われ、万斉は思わず瞳を細めた。色素が薄いが故に、陽の光に弱いという人間も存在する。そう考えれば、彼女には日傘が必要であると言うのも納得できたのだ。
「これ食べて、日が暮れたら麓まで送るんよ」
「……それも残念でござるな」
「なんで?」
「もう少しヌシといたい」
 その言葉に娘は困ったように笑った。
「私はお日様の下で暮らせへんから、お兄さんとずっと一緒は無理なんよ」
「だから山にいるのでござるか?」
「そうなんよ。お父さんもお母さんもそうしとったんよ」
 瞳を細めて笑った娘。人懐っこい笑顔であるが、明確な拒絶を受けて、万斉は落胆した。
 そして、日が暮れてから麓に送るというのは、彼女の活動時間が夜であるからだろう。月の下でしか生きられない。そう言われた気がして、万斉は彼女の頬を撫でた。山で暮らしているという割には栄養がいいのか、ふっくらした頬。彼女は驚いたように万斉を見上げたが、首を傾げて困ったような顔をした。
「怖くないん?」
「何がでござる?」
「私。皆と違うんよ」
 戸惑ったような娘の言葉に、万斉は咽喉で笑うと、寧ろ好ましい、言葉を零した。同じであるのなら値打ちがない。この外見も、魂の音色も。全てが初めてで、万斉はどうしてもこの娘の傍にもう少しいたくなった。
「好ましい?」
「好きって事でござるよ」
 万斉の言葉に、娘は一瞬驚いたような顔をしたが、直ぐに瞳を細めて笑った。
「ありがとうなんよ。お父さんとお母さん以外に言われたのは初めてなんよ」
 嬉しそうな娘の表情に、万斉は思わず表情を緩めた。指先に触れる彼女の肌は心地よく、ずっと撫でていたい。そう思ったが、彼女の視線が魚の方に向いたので、釣られて万斉もそちらを向く。
「そろそろ食べられるんよ」
「そうでござるか」
 特別美味しいという訳ではないが、こうやって魚を焼いて食べるというのも新鮮で悪くないと思いながら万斉は小骨を避けながら魚を口に運んだ。娘の方は、少し目を放したスキに、ぺろりと魚を平らげ、既に二匹目に手を伸ばしていた。小さな体であるのに随分食べる。
「お兄さん」
「何でござる?」
「帰る前にね、お願いあるんやけど」
 すっかり魚を平らげた娘の言葉に、万斉は咽喉で笑うと、拙者に出来る事ならば、と短く返答した。すると、彼女は表情を明るくして、万斉の手を取ると、家の中まで連れていき、三味線を指さす。
「アレ。もう一度聞きたいんよ。毀れてもうた?」
 彼女は自分の弾く三味線に興味を持ったのか、と思うと万斉はゆっくりと三味線の方へ歩いてゆき、くるりと回し確認をする。
「ふむ。糸が切れただけでござるからな」
 そう言うと、コートを彼女に取ってくるように頼み、万斉はその場に座ると三味線の切れた糸を外していった。ほてほてとコートを抱えて戻ってくる娘。礼を言うと、万斉はポケットを探り、予備の糸を取り出すと、新たに三味線にそれを張ってゆく。珍しいのか、娘は黙ってそれを眺めていた。
「……」
 曲のリクエストを聞こうと思ったが、この山の中で彼女がヒット曲など知っているはずもないと思い直し、万斉はこれ幸いにと、自分が好きなように曲を奏でることにした。心地良い魂の音色をなぞるように、万斉は弦を弾く。
 娘はコートを抱えて、部屋の隅でじっと万斉の奏でる音に耳を傾けていた。その様子に万斉は満足そうに笑うと、更に曲を続ける。
 緩やかな音は、心地良く万斉の鼓膜を揺らし、更に新しい音色を奏でようと永久機関のように燃料を投下してゆく。
「……初めて聞いたんよ。ええ音やね」
 娘の言葉に万斉は指を止めると、口元を緩めて笑った。
「ヌシの魂の音色でござるよ」
「?」
 万斉の言葉が理解できなかったのであろう娘は、不思議そうな顔をしたが、直ぐに瞳を細めて笑うと立ち上がった。
「日が暮れたからお兄さんを送るんよ」
「河上万斉」
「?」
「拙者の名前でござる。ヌシの名は?」
 万斉の言葉に娘は笑うと、レン、と短くいい万斉の傍による。
「バンサイでええの?カワカミ?」
「万斉の方で構わないでござるよレン」
 名を呼ばれ、娘は嬉しそうな顔をして笑った。

 

「先輩どうしたんッスか!!!!」
「崖から落ちたでござる」
「はぁ!?」
 宿に着くなり、心配そうな顔をした来島がすっ飛んで来たので、万斉は短くそう返答する。レンの棲家は大分山の上にあったのだが、彼女は万斉を背負って獣道を走りぬけ、あっという間出に村の入口まで運んでくれた。無論万斉とて、女子供に背負われるとは夢にも思わなかったのだが、足を怪我していた万斉を気遣って彼女が頑なに譲らなかったのだ。軽い恐怖体験にも似た貴重な体験をした万斉は、髪やら服についた葉を落とすと、宿の主人を連れて戻ってきた来島に視線を送る。
「崖から落ちたそうで。お怪我は?」
「足をひねっただけでござるよ。風呂に入った後シップでも貰えれば有難い」
「そうですか」
 ほっとしたように主人が言うと、万斉は咽喉で笑って瞳を細めた。
「山神さまに拾われたでござるよ」
「……え?本当にいたんっすか?」
「山神というには少々威厳が足りなかったでござるがな」
 愉快そうに万斉は言うと、風呂に入るために宿の奥へとさっさと入っていった。それをぽかんと見送る来島と、主人。
「随分万斉の野郎ご機嫌じゃねぇか」
「晋助様!」
 声をかけられ来島が高杉の方を見ると、彼は愉快そうに口元を歪めた。
「スランプとやらは脱出したか?」
「さぁ。でも、機嫌は良さそうっすね」
 首を傾げて来島が返答をする。普段はサングラスのせいで余り表情の起伏は見えないが、たしかに高杉が言うように機嫌はよさそうであった。そう考えると、辺鄙な所ではあるが、きっと来てよかったのだろうと思い、来島は、良かったッスね、と言葉を零し笑った。

 

 本来は一泊で宿を出るはずであったが、いざ朝になったら、万斉はもう暫く滞在すると言いはり、思わず来島は仰け反る。
「……そりゃ、温泉は怪我にいいかもしれないっすけど、他にないもないっすよ?」
 怪訝そうな顔をする来島であったが、逆に高杉は愉快そうに瞳を細めると、好きにしろ、と短く言い来島を連れて温泉街を後にした。出港は一週間後であるし、それに間に合えば好きにして構わないとの事だ。幸い万斉は愛用のバイクで乗り付けていたし、足には困らない。
 それを見送った万斉に、宿の主人は、ではごゆっくりと愛想よく笑うと仕事に戻って行った。
 少々体は軋むが動けないほどでもない。足の方も無理をしなければ大丈夫だろう。そう思い、万斉は三味線を背負うと、フラフラとまた山の方へと歩いていった。

 今度はきっちりと源泉を目指して山を登っていく。一応整備された道であるし、レンも昨日は獣道からあの源泉へ出て、それ以降はこの道を走っていた。
 彼女に背負われていた時は一瞬であった、長い上り道をゆっくりと上がっていくと、硫黄の匂いが急激に強くなり、万斉は顔を上げた。
 立ち込める湯気。
 源泉の温度は高く、ここから温泉街に引っ張る過程である程度冷ましていると聞いていた万斉は、その横にある小さな露天風呂に視線を移した。そこには川の水が引いてあり、源泉を薄める形ではあるが冷ます様に作られていた。手をつけると丁度いい温度である。宿の主人が言っていた山神さまの温泉なのだろう。ずっと昔に温泉街の人間が作ったという。祀らねば祟るというたぐいのものではないのだが、彼等なりに感謝の意を示しているのだろう。
 その傍に座ると、万斉は三味線を抱きかかえ弦を弾いた。彼女の寝床からは遠く離れているが、もしかしたら聞こえているかもしれない。そう思い、ゆったりと曲を奏で始めた。
 どれ位の時間そうしていただろうか、レンとは違う人の気配に万斉は手を止める。するとそこには物騒な刀を持った男が立っており、万斉を見て小さく舌打ちをした。
「温泉客か?」
「そうでござる」
「山には入らないことだ」
「何故?」
 聞き返した万斉に面倒くさそうに男は、今晩山狩をする、と短く言うと、日が暮れるまでに山を降りるようにと念を押してその場を離れた。
 それを見送った万斉は、小さくため息を吐くと、三味線を背負って山を降りる。うっかり三味線の音に釣られてレンが降りてきてしまったらつまらないことになると思ったのだ。また会いたい。そんな感情を抱えたまま、万斉は宿に戻ると、ぼんやりと日が暮れるまで空を眺めていた。

 

 大きな破壊音と光。万斉は思わず窓の外に視線を送る。すると山の麓から煙があっており、他の宿泊客もぞろぞろと外に出だした。
 危険なので外にでない下さい!と叫ぶ宿の従業員の声を背中に、万斉は三味線を背負うと、その場所へと駈け出した。
「そっちに行ったぞ!」
 怒鳴り声と喧騒。そして、血とオイルの匂い。ゾクリと肌が粟立つ高揚感を抑えて、万斉は闇夜に目を凝らした。
「……」
 跳躍する白い影。それがレンで有ることは直ぐに分かった。彼女は着地と同時に大型重機を破壊すると、また大きく跳躍する。空中は飛び道具の狙い撃ちになると思ったが、彼女は和傘を広げて弾を弾き、何事もなかったかのように着地した。
 襲いかかる男たちをなぎ倒し、身を低くすると、地面を蹴り相手の飛び道具を使用不能にしていく。
 獣のような身のこなし。そして無駄のない動き。
「足をねらえ!」
 悲鳴のように上がる声。それと同時に放たれた銃声に、彼女の体がぐらりと傾く。
 どこに当たったのかは万斉の目では確認できなかったが、それを合図のように、彼女は身を翻して山へと戻っていく。それを追う男たち。
 万斉は野次馬をかき分けると、一目散に山へ向かって駈け出した。

 高揚感は収まらず、否応なしに自分が人斬り万斉であることを自覚した。アレは昨日見たものと本当に同じなのか。アレは本当に存在したのか。そんな感情が万斉を支配する。
「止まれ!」
 源泉を超えて獣道に入った辺りで、万斉は声をかけられ足を止めた。
「何でござるか?」
「今すぐ山を降りろ」
「断る」
 恐らく親切でそう言ったであろう男は、万斉の返答に顔をしかめた。しかし丸腰である観光客に刀を振るうわけにも行かず、判断に迷っていると、万斉は口端を上げて腰を低くすると、素早く三味線の仕込み刀を抜いて、男の腕を切り落とした。
「!?」
 何が起こったのか分からなかったのであろう。男は悲鳴を上げる事もせず、己の足元に転がった腕を呆然と見つめている。
「アレは拙者が貰い受ける。ヌシらこそ山を降りるがいい」
「何をしている!?」
 人が集まって来たので、万斉は地面を蹴ると記憶を頼りに獣道を駆け上り、レンの姿を探した。

 焦げるような匂いが鼻孔をくすぐり、万斉は舌打ちするとその方向へ進路を変えて走る。少し開けた場所は、昨日訪れた彼女の寝床。火が上がっているのを眺め、万斉は周りを取り囲む男たちに反射的に斬りつける。
 完全に奇襲の形になった万斉の攻撃に、男たちは慌てたように武器を持ち直すが、それよりも早く彼の刀が閃く。
 一撃で。
 相手の動きを封じ、綺麗に殺す。
 けれどそれは彼女には及ばない。
「何者だ!」
「……曲者でござるよ」
 自然と笑みが零れて、愉快だった。小さな娘一人を追い回し、寝床まで奪った男たちが滑稽に逃げる。あの娘が負傷した途端に強気になった彼等であったが、ここでまた心も体もねじ伏せられた。
 静かになったその場所で、万斉はぼんやりと佇み、空を見上げた。月が綺麗で泣きたくなる。この月の下でしか生きられないと言ったあの娘がどうしても欲しかった。
「バンサイ?」
 よろめく足取りでレンが草むらから出てきたので、万斉は安堵したように表情を緩めると、彼女を見下ろした。足と腹に銃撃を受けているのか着物は血で汚れているし、肩の辺りにも切り傷がある。元々色素の薄い肌は、更に血の気を失い青白い。
「レン」
 万斉の声に安心したのか、レンはぽふっと万斉の方に倒れこむと、困ったように笑った。
「迷子なん?麓まで送るのは少し待って欲しいんよ」
 彼女の言葉に万斉は驚いたような顔をしたが、小さく首を振って彼女の髪を撫でた。
「レン。拙者と一緒に行こう」
「……バンサイとお日様の下には行けないんよ」
 困ったように笑う彼女を見て、万斉は口元を緩め、彼女を抱き上げた。
「ここにももう居れまい。だったら拙者と一緒に違う場所へ行こう」
「……違う場所?」
 困惑したようなレンを眺めながら、万斉はゆっくりと歩き出した。
「船に乗れば陽の光は当たらないでござる。それで、どこにでも行ける」
 船という言葉の意味が解らなかったのか、レンは少しだけ笑って、そっか、と言葉を零した。
「ココにおっても村の人に迷惑かかるってわかってたんよ。でも、他に行く場所なかったんよ」
 赤い瞳に滲む涙。生まれた時からずっとここにいた。この世界以外知らない。だから怖い。そんな彼女の気持ちを汲み取って、万斉は彼女を抱く手に力を込めた。
「拙者はヌシが望むならずっとそばにいるでござるよ」
「ほんま?」
「……だから、拙者と一緒に来て欲しい」
 万斉の言葉にレンは淡く笑って頷いた。

 

 昨日とは逆に万斉はレンに三味線を背負わせると、彼女を背負って山をかけ降りた。足の痛みも体の軋みも無視をしてただひたすらに駆け続ける。背中にじんわりと彼女の血が滲むのを感じて、とにかくこの場所を離れて手当をと、焦りだけが万斉を支配した。
 山の中は所々火が上がり、騒がしいし、村の中も騒然としている。
 やっとの思いで宿の裏手に停めてあるバイクまでたどり着くと、万斉はバイクに跨り、レンの着物の帯を解き、自分の体に落ちないように固定した。意識を失っているのか、レンはピクリとも動かない。
「お客様」
 かけられた声に万斉は舌打ちをすると、視線をそちらに向けた。すると、そこには宿の主が立っており、手に持っていた荷物を万斉のバイクに縛り付ける。それが部屋に置きっぱなしであった自分の荷物だと気が付き、万斉は驚いたように主人の顔を凝視する。
「……身勝手なお願いだと解っています。こんな形で山神さまを追い出すしかない我々を許して欲しいとは申しません……ですが……どうか、山神さまをお助け下さい」
 それは懺悔に近い言葉だったのかもしれない。日々の山狩で、覚悟はしていたのであろう。しかしながら、結果は恩を仇で返すようなカタチになった。
「宿賃はお連れの方から頂いております。お気をつけて」
 高杉が前払いしていたのを知らなかった万斉は、ほっとしたような顔をすると、小さく頷いてエンジンをかけた。工事現場でも山でも何人もの犠牲を出した彼等が、レンの首を取るまで諦めない様な気がして、万斉は一刻も早く船に戻りたかったし、彼女の傷の塩梅も気になった。
「感謝する」
 そう短く言った万斉に、宿の主は深々と頭を下げて彼等を見送った。

 

「土産でござる」
 万斉の言葉にレンは手を止めてほてほてと傍に寄って来た。受け取った包みを開くと、中から出てきたのは蕎麦で、瞳を輝かせてわーい!と声を上げた。
「お蕎麦なんよ」
 ニコニコと笑うレン。それを眺め、万斉は彼女の髪を撫でると、早速食べようかと食堂へ向かった。
 丁度来島もおり、彼女に茹でてもらうと、ホカホカの蕎麦をレンは豪快にすすり上げる。来島も、おすそ分けをもらい、ちゅるりと一口食べると、首を傾げる。
「アレ?先輩。この蕎麦って」
「温泉街はまだなくなってなかったでござるよ」
 来島の言葉に万斉は咽喉で笑うと、瞳を細い目てそう言った。表の仕事で、PVを作る為にあの村を再度訪れたのだ。自然豊かな土地と癒し系アイドル。陳腐な煽り文句を掲げて作られたPV。いつもならば作曲だけで現場に行くことなどないのだが、レンと初めて出会ったあの場所であったために一緒についていったのだ。
 結局工場は建てたれたものの、かなり規模は縮小され、決して初めの目論見通りとなった訳ではないらしい。しかし、温泉街の方は精力的に広報活動を行い、今はそこそこの集客をしている。
 宿の主人は万斉の姿を見つけ、驚いたような顔をしたが、何も言わずに深々と頭を下げた。ただ、万斉は、元気にやっている、とだけ言付けて、仕事に直ぐ戻った。それで十分だろうと。
「温泉にもはいったん?ええな」
「では今度の休みにどこか温泉にでも行こうか」
「ほんま?」
 嬉しそうに笑うレンを見て、万斉は満足そうに笑うと、席を立ち先に部屋に戻った。まだ蕎麦は残っているので、延々来島が茹でてくれるだろう。
 部屋に戻ると、いつもレンが遊んでいたパズルが全て片付けられているのに気が付き、万斉は首を傾げた。仕事に出る前に完成間近だと彼女が言っていた真っ白なパズル。
「?」
 卓を見ると、そのパズルが入っていた箱が置いてあり、万斉は何気なくそれを開ける。すると、折角作っていたモノはまたばらばらにされてそこに収められていた。
 その一ピースをつまみ上げると、何やら本来はなかったであろう模様があり、万斉は箱をひっくり返すと、その白いパズルにかかれた模様を頼りに再度組み上げていく。真っ白であったときは随分レンが時間をかけて組み上げていたが、模様があるのなら話は別だ。30分もかからず万斉はそのパズルを組み上げ、思わず笑った。
「……拙者もレンが好きでござるよ」
 それはレンが万斉へ宛てたメッセージ。組み上げた後に彼女が書いてまたバラバラにしたのであろう。つたない字で書かれたこの言葉は、丁度懐かしい思い出の場所に言ったということもあって、万斉はとても嬉しくなった。
 恋焦がれた娘。
 どうしても欲しくて仕方なかった。
 だから無理矢理連れ出した。
 それに後悔はない。
「万斉?」
 蕎麦を食べて満足したレンが戻ってきたので、万斉は彼女をギュッと抱く。
「愛してる」
 その言葉にレンは淡く笑うと、口を開いた。
「私も万斉が大好きなんよ」
 嬉しそうに笑ったレンを見て、万斉は彼女に口づけると、彼女の頬に指を滑らせる。昔も今も変わらない、心地よい彼女の肌の感触。もっと触れたくなって、万斉は困ったように笑った。
「レン」
「何?」
「ずっと一緒にいて欲しい」
 頷く彼女を抱いて、万斉は満足そうに笑い、心地良い魂の音色と体温をその身で感じ続けた。


一旦完結
20120301 ハスマキ
>>御礼と感想
(万斉編・阿伏兎編同じなので両方読む方は後回しをお勧めします)

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