*花晨月夕*
月明かりの中、バイト帰りに屋根を走り抜けていた服部全蔵は、見慣れない光景に思わず足を止めた。
数メートル先の屋根の上に見える人影。屋根に上るのを仕事としている大工ならともかくとして、真っ当な人間はまず登る事はないだろう。そしてすっかり夜も更けた時間帯。無意識に警戒態勢を取った全蔵は、気配を消してそっとその人影へ寄って行く。
「……何してんだ」
「お月見」
シンプルな返答をした人影が、全蔵の知っている人間だと気がつくまでそう時間はかからなかった。鬼兵隊の高杉から逃げ続ける女、タチバナカグヤ。そして自分の忍の仕事のお得意先だ。元々攘夷志士であるらしいが、今は三味線屋をしている人間が、わざわざ屋根に登っている理由が解らなかったが、彼女の返答を聞くと、そうかとしか言いようがなく全蔵は肩を竦める。
「コレいいでしょう。昼間に銀さんにつけて貰ったの」
彼女がトントンと軽く叩いたのは、屋根に固定された板で、それに酒や団子が乗っている。彼女はその横に座蒲団を敷いて座っているのだ。しかも、誰かを待っていたのか、卓を挟んで反対側にも座蒲団が敷いてある。呆れ顔の全蔵ににんまり笑いかけると、カグヤは一緒にどう?と盃を軽く上げた。
すると全蔵は少しだけ考え込むような顔をすると、少しだけ待ってろと言い、すっと屋根から飛び降りる。
それに驚いたような顔をしたカグヤであったが、彼の後姿を見送ると、盃を傾けた。
戻ってきた全蔵の握っているのはススキで、彼はそれを空いた酒瓶に差すと、漸く卓を挟んで屋根に座る。
「……座蒲団が準備してあるって事は、誰か待ってたのか?」
カグヤに渡された盃を受け取って、そこに満たされる酒を眺めながら全蔵が呟くと、カグヤは瞳を細めて笑う。
「誰も来なけりゃ銀さんでも呼ぼうと思ってたんだけどね」
「誰でも良かったって事か」
呆れた様な顔をした全蔵だが、彼女が可笑しそうに笑ったので僅かに眉を寄せる。
「良い男限定でね。こんな月が奇麗な夜に一人で飲むのの勿体ないでしょ」
盃を煽るカグヤは、一気に酒を飲み干すと、ススキ有難うと鮮やかに笑う。中秋の名月にススキは必要だろうと思い引っこ抜いて来たものだが、そんなに喜ぶとは思わなかったので全蔵は口元を緩めると、どーいたしましてと返答した。
「俺は月、あんまり好きじゃないんだが」
「どうして?綺麗でしょ?」
カグヤが不思議そうな顔をしたので、全蔵は苦笑しながら、忍だからなと呟いた。闇夜に紛れて仕事をする忍にとって、月明かりも忌むべきものなのだと。今の江戸は昼夜関係なく煌々と明かりが照らされるが、一昔前ならば、月明かりさえも忍にとっては己の姿を晒す物であったのだ。
「月が出てない夜の方が仕事がしやすい」
「仕事と個人的な好みは別でしょーが」
呆れたようにカグヤが口を開いたので、全蔵は少しだけ考え込むような顔をする。今まで仕事前提でしか月を眺めた事がなかったので、個人的に好きか嫌いかなど考えた事もなかったのだ。もしも自分が忍の仕事をしていないと仮定すれば、月にどんな感想を持つのだろうと。
「……アンタが良いって言うんだったら月もいいかもしれねーな。まぁ、満月はやっぱり好きになれねぇかもしれねーけど」
「理由聞いてもいい?」
満月限定で嫌う理由が見当たらなかったカグヤが酒を足しながら言うと、全蔵は困った様に笑う。
「完璧な物って好きじゃねーんだ。寧ろ、何か欠けてる方が趣があって俺は好きでね。女も月も」
もうそれ以上高みへ行けない完璧な物よりも、欠けてる方が愛でるならば絶対に良いと全蔵は思っている。それを女にも適応してしまうからブス専等と言われるのだが、それに対して本人はもっともな評価だと思っているので気にした事はない。
忍とてそれは同じで、常に高みを目指しているから値打ちがあるのだと思っている。己の腕を磨き続け、さらなる高みへと貪欲に挑んでゆく。それが全蔵の目指すモノなのだ。だから侍の様に忠義もない。己を一番高く買ってくれるモノの元へ行く。
「私は月は全部好きだけどね。欠けて様が、完璧だろうが、月は月だし。本質は何にも変わらないわ。全さんが好きな不完全な物も確かに趣あるけどね」
「ちがいねぇ」
取り方の違いだと思いながら、カグヤが己の自己主張をしながらも、全蔵の意見を否定しなかった事に彼は僅かに口元を緩めた。全力否定する人間は多いが、相手の事を受け入れる度量のある人間は少ない。彼女はその希少種なのだろう。
盃に移り込む満月を見ながら全蔵は瞳を細めた。こうやって月を眺める事等殆どなかったが、確かにこうやって仕事とは切り離して眺めるのも悪くないと思ったのだ。
「アンタは綺麗だな」
「褒めても何にもでないわよ。っていうか、人間の外見って遺伝的な物が大半占めるわけだし、本人の努力どうこうって訳でもないから褒められてもねぇ」
ため息をつくカグヤに全蔵は意外そうな顔をする。そもそも外見を褒めての発言ではなかったのだが、彼女が良い男云々の発言が多いのに人の外見を重視しないのに驚いたのだ。
「外見を褒めた訳じゃねぇけど……良い男大好きなんじゃねーの?」
「私の良い男定義に外見は入ってないの」
入っていれば自分は隣に座っていないわなと思いながら、全蔵は先を話すようにカグヤに促した。
「男の子に必要なのは、志と誇り。ついでに夢なんかもあれば最高かしらね」
「少年誌の定義だな」
「そーゆー事。ジャンプは銀さんに借りてしか読んでないんだけどね。マガジン派だし」
カグヤの言葉に目を丸くした全蔵は、マガジンね……と複雑そうな顔をする。女性が読む雑誌として上げられるのは珍しい部類だと思ったのだ。
「最近は読む所少ないからそろそろ卒業かなぁって思ってるんだけどね。昔の方が面白かったなぁって懐古主義かしらね」
苦笑するカグヤを眺めて全蔵はつられて笑う。良い大人が屋根に登って、酒を飲みながら漫画の話をしているのが滑稽だと思ったのだ。しかも昔は良かった等と懐古主義も甚だしく、普段の自分なら余り考える事もなかったのではないかと全蔵は思わず月を見上げた。月見など、珍しい事をしているから、思考も珍しく普段と違う方向に行くのだろうと。
「俺もジャンプは昔の方が好きだったかなぁ。まぁ、今は今で面白れぇんだけど」
「好みも変わるしね。大人になっちゃったんだなぁって思う瞬間よね」
しみじみと言うカグヤに思わず全蔵は吹き出すと、空になった盃に酒を継ぎ足す。外見は別嬪なのに、中身は男前なカグヤのギャップが可笑しかったのだ。初めて会った時の印象とは随分変わったと思うし、長い間仕事を引き受け続けて、随分仲良くもなってしまったような気もする。本来依頼主との馴れ合い等忍としてはないに越した事はないのだが。今は雇われだが、明日には殺し合いになるかもしれない。
「……アンタとも長いな」
「そうね。助かってる」
鬼兵隊の高杉が彼女を攫いに来る度に全蔵は彼女を連れ出しに行く。ただ逃げるだけ。ただ追うだけ。何故そんな事を延々と繰り返すのか全蔵は聞いた事はなかったが、終わりが来なければずっと自分は彼女を連れ出し続けるのだろうかと時折考える事があった。
「死ぬまで逃げるって言ってたな」
「そうね。晋兄にそう言ったら、例え生まれ変わったとしても攫いに行くって言われたわ。真性のストーカーよね」
「そんじゃ、生まれ変わっても俺にまた仕事依頼してくれよ」
「良いわよ」
軽い口調で言った全蔵に、カグヤは笑いながら了承すると瞳を細めた。
「そしたらまた一緒にこうやって月眺めてお酒飲んでね」
「……ああ」
満月は好きではないが、それも良いと思った全蔵は、口元を緩めて返事をした。
長く座るのは苦痛である全蔵は、暫くカグヤに付き合った後に帰路へつく。やはりいい加減痔を治すべきだとちらりと考えて苦笑した。彼女の酒の相手をする事もそうそうないというのに、いざ相手をすれば別れるのが名残惜しくなる。痔を治してしまったら、ずるずるといついてしまうような気がして全蔵は小さくため息をついた。それは忍としてあるべき姿ではないと。
仕事と個人的な好みは別だと言いきった彼女なら、何も言わないかもしれない。けれど、彼女が忍としての自分の能力を必要としているのなら、最高の仕事をするのが一番であると全蔵はぼんやりと考える。
「来世でも雇ってもらわねぇといけねぇしな」
乱暴に頭をかくと、全蔵は月を煽り瞳を細めた。彼女の望む最高の仕事をし続ける為にもやはりもっと高みを目指すべきであろう。だからやはり満月は嫌いだと。彼女があれだけ、月が好きで、愛でているなら自分が嫌ってもプラスマイナスゼロだろうと思い、口元を緩める。
「結構バランス良いな」
闇夜を好む自分と月夜を好むカグヤ。相容れないかもしれないが、それは裏表なのだと。そんな関係も悪くないと思い、全蔵はゆっくりと瞳を伏せた。
【一夜十起】続きの様なもの。
ヒロイン設定は【迦具夜姫】と同じ。最近全蔵がイイ。
20091015 ハスマキ