*仔兎*

 ベッドから起き上がった阿伏兎は、時計を眺め暫く固まった。
 いつもならばとっくに起きている時間……もとい、レンなり神威なりがたたき起こしに来てもいい時間であるのにも関わらず、音沙汰が無かったのだ。
 神威は確か元老院に呼ばれて船を降りていたはずであるが、レンは一緒に船に乗っている。
 基本的に陽の光を嫌う夜兎は夜のほうが元気である者が多い中、レンは例外的に鬼兵隊で培った早寝早起きの健康的な習慣が継続しており、船の食堂が開く時間になれば阿伏兎を起こしに来るのだ。
 仕事が深夜に及んだ際は、起こさないようにとレンに言っているのだが、昨日は阿伏兎も早々に寝たのでその言付けもしていない。
 彼女も寝坊ぐらいする。そんな当たり前の事に漸く考えが至って、阿伏兎は乱暴に髪をかきまぜると、身支度を始めた。

 身支度をしているうちに彼女がひょっこり部屋に顔を出すのではないかと思っていたが、その様子もなく、隣の部屋は物音さえしない。首を傾げながら、阿伏兎は外にでると、彼女の部屋の扉を叩いた。
「お嬢。起きてるか?まだねんのか?」
 朝グズグズしたい日もある。そう考えた阿伏兎の言葉であったが、返事すら無く、暫くぼんやりと待つ羽目になる。
 念の為に寝るときは施錠するように言ってあるのでロックはかかったままであるが、阿伏兎は中からドスンと鈍い音がしたことに驚いて施錠を外した。
「!?」
 床に転がるレンが、動かない事に驚いて慌てて駆け寄ると阿伏兎は彼女を抱き上げた。
「……はぁ?」
 思わずそう零したのは、彼女の体温が異常に熱く、寝間着も汗でぐっしょりと濡れていたからである。
 一応息はしているが、うっすらと開けられた瞳は熱のせいか酷く潤んでおり、パクパクと口を開けるが声が殆ど出ていない。
「とりあえず船医の所連れてくぞ」
 力なく阿伏兎の言葉に頷いたレンを抱えて、阿伏兎は大急ぎで船医の元を訪れた。

「仔兎熱ですね」
「え?」
 夜型の船医は阿伏兎にたたき起こされ、シパシパとした目をこすりながらそう答えた。
「いや、そんなもん餓鬼の頃にかかんだろ」
「私に言われましても……高熱と耳の後ろから首筋にかけての発疹となれば、それ以外は……。地球生まれの地球育ちときいてますが、罹る機会が無かったんじゃないですかね」
 仔兎熱といえば、文字通り夜兎が子供の頃にかかる病気である。高熱と発疹、食欲低下。一節によればコレで弱い個体を間引きするとも言われている一過性のものである。一度かかれば抗体ができて二度と罹ることはない。
「……つーことは、こっちでできる事はねぇってことか」
 不思議と解熱剤の効かない病である。体力を消耗し続けて死に至る個体も存在する。
「はい。まぁ、大人ですからまず死ぬことは無いでしょう。水分をしっかりとって、そうですねぇ、食べれるなら温かいスープでも飲ませて発汗を促して、熱を下げる……ぐらいですかね」
 そこまで言った後、船医は少し沈黙し、恐る恐ると言ったように阿伏兎に言葉を零した。
「少々彼女の血液を抜いてもいいですかね?」
「はぁ!?」
 怒ったような阿伏兎の返事に船医は萎縮しながらも言葉を続けた。
「免疫抗体がどれくらいあるか確認したほうがいいかと……仔兎熱にかかったことが無いということは、我々より免疫が少ないのかもしれません」
 夜兎という種族は宇宙を飛び回るために、基本的には抗体を作る力が強い。新種のウイルスに対し比較的早く抗体を作り、それを代々伝えている。もっとも、それでも対応しきれないことはある。現に神威の母親などは病で死んでいる訳なのだが、それでも他の天人に比べれば、圧倒的に抗体を多くもっているだろう。
 しかしながら、レンにはそれがない可能性を指摘しているのだ。
 レンはどの程度親から抗体を引き継いでいるのか。
「……とりあえず幾つかはこちらで予防接種も可能ですし、死に至るおそれのあるものだけでも抗体を作ってしまった方がいいかと」
 医師として心配していると言うよりは、第7師団副団長の連れてきた娘であるからというのもあるのだろう。何かあった場合対処しきれなければクビが飛ぶ。
 そんな事を危惧しているのだろう。
「分かった。頼む」
 抱きかかえたレンは、阿伏兎の返事に同意するかのように小さく頷く。
「では失礼します」
 白い腕に刺さる注射針を眺め阿伏兎は顔を僅かに顰めたが、レンの方は寧ろ血を抜かれる痛みより、発熱のほうが辛いのだろう、阿伏兎に身体を寄せてじっとしている。
 ふぅっと小さく息を吐きだしたのは船医の方で、血液を確認すると、阿伏兎とレンに小さく頷いた。
「そんじゃまた何かあったら頼むわ」
「そうですね。動くのも辛いでしょうから、今度は部屋に呼んで下さい」
 そう言われ、阿伏兎は漸く別にレンを抱えて走らなくても、船医の方を部屋に招けば良かったのだと気がついて思わず赤面した。


 ベッドにレンを横たえると、阿伏兎はとりあえず水分をしっかり取るように言い、一旦部屋を出る。それを見送ったレンは、重い体を引きずりながら、とりあえず言われたとおりに着替えだけ済ませて、水分を補給した。不思議と腹は減っておらず、ただただ、身体が重かった。
 ベッドに戻るまで一苦労であったが、一度倒れこむと、今度は起き上がれず掛け布団を何とか引っ張り被った。
 カチカチと音を鳴らす時計が煩いと思いながら、ぼんやりと天井を眺めたレンは、次第に無理をしたせいか、疲れが出てうとうととしだした。

 嘗て一人ぼっちで過ごした山奥。
 親は帰ってこなかった。
 ある日ある時その場所から追い出されそうになった時に万斉と出会った。
 陽の下では生きていけないと伝えたが、彼は船ならばどこへでも行けると言った。
 実際に彼と、鬼兵隊と船でどこまでも行けた。
 広がった世界は本当に何もかもが新鮮で楽しかったし、自分に同族の仲間がいることも知った。

 そして、阿伏兎に出会った。

 レンがうっすらと瞳を開けると、椅子に座って書類をめくっていた阿伏兎が顔を上げた。
「……お仕事は?」
「まぁ、大丈夫だろ。神威にちゃんとおいておくことにした」
 普段なら肩代わりするが、今回に関しては緊急分以外は完全拒否を決め込んで部下にそう伝えたのだ。朝っぱらからレンを抱きかかえて船医の所に駆け込んだ姿を目撃していた部下は、苦笑だけして了解した。
 僅かにレンが申し訳無さそうな顔をしたのを見て、阿伏兎は苦笑すると書類を卓に置いて椅子をレンの傍へ引っ張っていく。
「構わねぇよ。仕事が山積みでも死にやしねぇ」
 レンの額に触れた阿伏兎の手は冷たく、彼女は少しだけ瞳を細めた。
「阿伏兎さん」
「何だ?」
「首が痒い」
 そう言われ、阿伏兎は短く、あぁ、と声を上げた。
 仔兎熱と言うのは、耳の後ろから首へかけて発疹が出る。それが痒いのだろう。別に掻いたからと言って治りが遅くなるわけではないのだが、レンがもそもそと声を出した。
「手袋とってほしいんよ」
「手袋?」
 首を傾げながら阿伏兎はレンが言った収納用の引き出しを開ける。するとそこには薄手の手袋が入っており、彼はそれを彼女に渡した。
「これか?」
 レンはコクコク頷くとそれを手にはめる。
「起きてる時はええねんけどね」
 寝てる時に無意識に掻くのが厭なのか、そんな事を考えた阿伏兎であるが、それを見てレンは少し笑った。
「跡が残ることがあるからって、虫に刺された時万斉がくれたんよ」
 そんな気はしていたが、やっぱりと思いながら阿伏兎は苦笑した。確かにレンの特に白い肌に掻き傷が残るのは宜しくない。寧ろ虫がレンを刺した時点でかなり万斉は腹を立てたのではないかと想像して、思わず吹き出した。
「虫除け必須か」
「蚊取り線香たいたんよ」
 蚊取り線香が何かは分からなかったが、虫除けの類であろう。万斉の過保護さに呆れながらも、少しだけ気持ちは分からないでもない。夜兎は戦闘種族で、生傷どころか、腕や足がなくなったなど大して珍しくもないが、レンに関しては傷を負わせるのが何となく勿体無いと阿伏兎は感じたのだ。
「少し冷やしたらましになる」
 そう言うと阿伏兎は保冷剤をタオルで包みレンの首の後に添えてやる。熱のせいもあって、その冷たさが心地よく、レンはまたうとうととしだした。
 寝息をたてたレンを眺め、阿伏兎は小さくため息をつくと、また卓の側に戻り書類を捲った。
 何も出来ないのはわかっているが、何となく側にいたほうがいいような気がしたのだ。水も自力で飲めるし、死ぬ心配など無い。それでも、と思うのは甘やかしなのだろうか。そんな事を考えながら、また書類に視線を落とした。

「はい、お土産」
 いつもどおりの笑顔で帰ってきた神威は、ダンボールを阿伏兎に押し付けるとグルグルと肩を回す。
「はぁ?」
 ダンボールには大きく桃、と書いてあるが、どうも缶詰のようである。阿伏兎が怪訝そうな顔をすると、彼はボフッとソファーに座ると、鬼兵隊に会ってね、と口を開いた。
「お嬢が仔兎熱でぶっ倒れてるって話したらそれ持たされた。多分万斉からじゃないかな」
「話したのかよ」
「したよ。お嬢が熱出して俺の仕事肩代わり放置して看病してるから今回は早く帰らないとーってね。そしてら、なんか、それが直ぐに届いた」
 話したのは高杉相手だったが、しばらくして直ぐに万斉がそれを置いて行ったようである。今までも鬼兵隊に会えば、やれ来島からの服だとか、武市からの本だとか細々と土産物を持たされることもあった。そして万斉は毎回米を持たせる。なんでまた、と阿伏兎も思ったのだが、どうもレンがこの船の米の味が鬼兵隊の所の味と違う、という話をしたらしい。別に不味いとか、食べられないという話ではなかったらしいのだが、レン可愛さに毎度毎度準備されている米。配達料代わりにいつも神威と阿伏兎はレンの夜食用となっている米をおすそ分けしてもらうのだが、確かに全然味が違った。神威などはおすそ分け目当てに、米のストックを毎度毎度鬼兵隊に報告して催促していたりもする図々しさである。
「まぁ、毎回なんやかんや持たされるけど、今回はお土産というよりお見舞い?」
 首を傾げながら言う神威を眺め、阿伏兎は深くため息をつく。
「万斉のヤローは何て?」
「別に?ちゃんと阿伏兎が看病してるってアピールしておいたら、当然でござる、とは言ってたけど」
「あっそ」
 万斉が同じ立場でも仕事を放り出してつきっきりだろう、と言うのは想像できたが、万斉の場合は最低限の仕事さえ放り出すのではないかと思った阿伏兎は呆れたようにそう短く返事をする。
「で、お嬢どう?まだ三日ぐらい?アレって一週間ぐらい熱出るんだっけ?」
 仔兎熱に罹った事など遥昔である神威がそう言うと、阿伏兎は少しだけ笑った。
「もう具なしスープぐらいは飲める。まぁ、ガキの病気だしな。大人が罹るってのは珍しいけど、体力ある分回復も早いんだと」
 一週間寝たきりかとヒヤヒヤしたが、翌日には起き上がって水を飲んでいたし、今日はシャワーも浴びていた。船医の言うとおり、基礎体力がある分回復も早いのだろう。ただ、食欲自体はまだ戻っていないので、スープをちびちび飲むにとどまってはいる。熱も幾分下がってきているし、これで食欲が戻れば一気に回復して完治となるのだ。
「ふーん。まぁいいや。それもおすそ分け貰えるかな」
「図々しいなおい」
「お嬢が食べてからって程度には遠慮するさ」
 笑いながら神威はゴロンとソファーに横になる。一眠りしてから溜まった仕事を片付けるのだろう、と阿伏兎はダンボールを抱えて部屋を出て行った。

 ダンボールを抱えた阿伏兎が部屋に入ってきたのでレンは思わず目を丸くするが、それが桃缶だと気が付き笑った。
「どうしたん?」
「見舞いだと。鬼兵隊から」
 そう言うと、阿伏兎はベッドの側に桃缶を置き、彼女の額に手を当てた。
「まだ下がらねぇな」
「そんでも大分楽になったんよ」
 水を飲みながらレンはそう返答し、桃缶に視線を落とした。嬉しそうな顔をするので、阿伏兎は何気なく言葉を放つ。
「好物なのか?」
 するとレンは驚いたように顔を上げて、瞳を細めた。
「鬼兵隊の人が病気になったら皆コレ食べてたんよ。お見舞いなんやって。たまに分けてもらったんよ」
 そう言うとダンボールを開けて桃缶を一つ取り出す。
「食べんのか!?」
「あかん?」
「いや、食えるなら構わねぇけど」
 食欲が落ている筈であるし、胃も急には受け付けないだろう。心配した阿伏兎は少しだけ黙った後に、少しだけだからな、と念を押して缶を開けてやった。
 桃は小さく切られているもので、レンはそれを一つ摘むと口に放り込む。
 懐かしい味に彼女は思わず口元を緩めた。来島が風邪を引いた時にお見舞いは何がいいか万斉に聞いた時に持たせてくれたのだ。それ以来何故か鬼兵隊では桃缶の見舞いが流行った。
「阿伏兎さんもどうぞ」
 そう言われ差し出された桃缶から阿伏兎も一つ桃をつまんだ。
 甘い、と思ったが、病気の時はコレでもいいのかもしれないと思ったのは、予想以上につるんと食べられたからだろう。なるほど、果物か、と阿伏兎は何となく不思議な感覚に襲われる。夜兎というのは仔兎熱以外では然程食欲は落ちないので、ひたすら食べて栄養を付けて治す事も多いのだ。その時食べやすさは余り考慮しない。
 嬉しそうに更に桃を食べているレンを眺め、阿伏兎は桃缶を一つダンボールからとりだした。
「神威に輸送賃渡してくるわ」
「あ、ありがとうなんよ!」
 レンの言葉を聞きながら、阿伏兎は部屋を後にした。


「阿伏兎さん。おはようなんよ」
 ベッドから阿伏兎は驚いたように飛び起きて、レンの顔を凝視する。なんやかんやで昨日は桃缶をちびちびとレンは食べ続け、阿伏兎もだいぶ回復したのだと安心してその日は寝たのだが、まさかもういつもどおりに歩き回れるとは思っていなかった為に彼は慌てたように彼女に額に手を当てた。
「まだ少し熱あんだろ」
「でもなんか、お腹すいてきたんよ」
 レンの言葉に阿伏兎は、あぁ、と短く声を上げた。だから起こしに来たのかと。
「ちょっと待ってろ」
 そう言うと阿伏兎は乱暴に髪をかき混ぜながら身支度を始めた。

 病み上がりのレンを気遣ってか、食堂のコックは消化に良さそうな物を彼女のために準備した。急ではあったが、それでもできるかぎりは、と対応してくれたコックにレンは礼を言って阿伏兎の隣に座る。
「久しぶりなんよ」
「よく噛んで食えよ」
「はーい」
 神威は結局声はかけたが起きてくることはなく、時間も早いので食堂の人数もまばらである。
 もきゅもきゅと言われたように咀嚼を繰り返すレンを眺め、阿伏兎は漸くほっとした感覚に襲われた。自分が思っている以上にレンの体調が気になっていたらしい。それにわずかに苦笑したのに彼女は気が付き首を傾げた。
「どうしたん?」
「いや、なんでもねぇ。後で船医の所行くぞ。予防接種の予定も聞かねぇとな」
「うん」
 嫌だとは言わないのか、と思いながら阿伏兎はモリモリと食事を取るレンに視線を落とす。
「桃缶全部くっちまったのか?」
「まだあるんよ。朝ごはんの後のデザートにするんよ」
「そうか」
「阿伏兎さんも一緒に食べる?」
 彼女の言葉に阿伏兎は少しだけ考え、小さく頷いた。
「お嬢からはおすそ分け貰ってばっかだな」
「ええんよ。阿伏兎さんが病気になったら看病するんよ!そしたらおすそ分け貰うんよ!」
 怪我ならともかく病気は余りなさそうだな、その上、見舞い品をくれる殊勝な人間などいない気もしたが、思わず阿伏兎は口元を緩めた。


なんやかんやで甘やかしのおっさん
20150901 ハスマキ

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