*春昼*

 編笠を被り、長袖で完全防備をしたレンは、甲板でモップがけをしていた。普段なら傘をさす所なのだが、それでは掃除がしにくいと、編笠を高杉から借りてきたのだ。広い船の甲板を走り回るように掃除をしていたレンは、はた、っと足を止め、屈みこむと、それを指でつまんで日に翳した。
「おー。お花なんよ」
 甲板の隅にぽろぽろと落ちていた花を、白い指で幾つも拾い上げ、レンは笑顔を浮かべた。
 一応船は港に停泊はしているが、彼女の視界にはこれと同じ花を付けている植物は見当たらない。
「どうかされましたか?レンさん」
 この花はどこから来たのだろうと、首を傾げるレンに声を掛けたのは武市で、レンは振り返るとモップを持ったまま小走りに彼の元へ行く。
「お花、落ちてたんよ」
 彼女の差し出した小さな花に武市は視線を落とした後、彼は甲板に視線を巡らせた。良く見渡すと、隅の方にちらほらと小さな花が見え、僅かに表情を曇らせた。
「もっと丁寧に掃除をさせないといけませんね」
 彼がそう零したのは、本来甲板の掃除は当番制で、船の管理をしている者や、下働きがする仕事なのだ。今日はたまたま暇を持て余したレンが、武市に仕事を貰いに行って甲板の掃除をしていた。
 普段は見落としがちな掃除の不備に、武市は不快そうな表情を作ったが、レンは首を振ると笑った。
「今日は私が頑張るからええんよ。タケチー、これは何のお花なん?」
「桜でしょう」
「桜?前にシンスケと滝の側で見たのとは違うんよ」
 しげしげと手元の花を眺めるレン。それを見て武市は、桜と言っても種類は多いですからね、と笑い、彼女の手からその小さな花を受け取った。
「そうですね。掃除が終わったら私の部屋に来て下さい」
「諒解したんよ」
 理由も聞かず、快く頷いたレンを眺め、武市は内心苦笑する。万斉以外の人間の言う事も素直に聞くし、掃除などの面倒な仕事も嫌がらない。
 彼女が心から鬼兵隊の思想に賛同してくれていたのなら、どれだけ仕事がやりやすいか。そんな事をちらりと考えたが、彼女はきっと自分達に寄り添う努力はしてくれるだろうが、良くも悪くも彼女の感情は自由であるし、鬼兵隊の理想に縛られる事は万斉も望まないだろう。そんな事を考えながら武市は大事そうにレンから受け取った小さな花を持って甲板を後にした。
 一方レンは、早めに掃除を終わらせてしまおうと、パタパタとまたモップがけを再開する。天気がいい日に掃除をするのはそう悪い気分ではない。体質的に陽の光は受け付けないが、それでも、雨よりは良いと彼女は思っていた。
 船に乗ればどこにでも行ける。そう言って己を連れ出した万斉。そして彼はその言葉の通り、レンを色々なところへ連れて行ってくれた。広がった世界はとてもおもしろく、彼女は満足していたし、万斉の側にいれるだけでも十分楽しかった。まだ見たことがない物がたくさんある。レンは武市が何を見せてくれるのか楽しみにしながら、掃除を続けた。

 ピカピカの甲板に満足したレンは、モップを片付けるといそいそと武市の部屋へ向かった。高杉の部屋にはよく出入りするが、武市の部屋にはそう言えば殆ど入ったことがないのを思い出し、レンは、遠慮がちに戸を叩く。
「お掃除終わったんよ」
「そうですか。鍵は開いていますよ」
 中からの返事にレンはそっと扉を開けると、武市は何やら本を開いており、レンに側に来るように促した。
 ほてほてと武市のいる卓にレンが歩いてゆくと、彼は持っていた本を卓に置き、トン、と本の写真を一つ指さした。
「この桜でしょう」
 覗きこむようにレンは本を眺める。そこにあるのは先程レンの拾った花と同じ写真があり、彼女は瞳を大きく見開いた。
「ほんまや」
「八重桜の一種ですね。レンさんが前に見たのはどれですか?」
 そう言われ、同じページにある写真を眺めたレンは、一つ写真を指さした。
「これなんよ。お花が重くて枝が下がってるんよ」
「枝垂れ桜ですか」
「全部桜なん?」
「そうですね。品種改良されて種類は多いです。まぁ、一番ポピュラーなのは、染吉野でしょうが」
 薄いピンク色の桜を指さし武市が言ったので、レンはコクコクと頷く。その桜は枝垂れ桜を見に行く道中に沢山咲いていた気がする。
「なにしてんだ?」
 後ろから声がかかり、レンが振り向くと、そこには高杉が立っていた。
「タケチーに桜の本見せて貰ってるんよ」
「桜?」
 そう言うと、高杉はレンの頭の上から本を覗き込む。そして、本の横に置いてある花を眺め、あぁ、と短く声を上げた。
「呉の辺りで咲いてたな、八重桜。拾ってきたのか?」
「甲板に落ちてたんよ」
 高杉の言葉にレンは返答すると、少し残念そうな顔をする。
「咲いてたのには気が付かなかったんよ。ちょっと見たかったんよ」
「あんときゃまだ二部咲きがいいところだろ。今なら満開じゃねーの?」
「クレで?」
「別に江戸にもあんだろ」
 呆れたように高杉が言うと、レンは驚いたように顔を上げた。
「見れるん?」
 そわそわとした様子でレンが言葉を放ったので、高杉は苦笑すると、財布から金を出し、レンに渡す。
「???」
「お茶っ葉が切れた。買ってこい。いつも行ってる店だ。分かるな?」
「迦具夜ちゃんのおうちの商店街?」
「そーだ。夕方までに買ってくればいい。まぁ、天気もいいし、散歩日和だな」
 ぱぁっと表情を明るくしたレンを見て高杉は瞳を細めた。コクコクと頷いたレンは、金を己の財布に入れると、首を傾げて高杉を見上げる。
「江戸城の周り。あとは、その近くの公園か?」
「そうですね。八重桜は堀の周りにも植わっていた筈です」
 高杉の言葉に武市が言葉を添えると、レンは頷いて、行ってきます、と部屋を飛び出していった。
 それを見送った高杉と武市であったが、暫くの沈黙の後、武市がボソリと口を開く。
「万斉さんに怒られませんかね。レンさんを一人で外に出して」
「お使いぐれぇ普段もいかしてんだろ」
「その後に怒られていませんか?」
「あいつうっせーよな」
 咽喉で笑った高杉を眺め、武市は呆れたようにため息をついた。


 デモテープを聞きながら隣であれこれ話をする歌手の声をスルーし、万斉は窓を眺めていた。新たに曲の提供を頼まれた売り出し中のアイドルなのだが、お通ちゃんほどのインパクトは望めず、どうしたものかと考えこむ。いっその事断ってしまおうか。そんな事を考えたのは、余りにも彼女が余計な事を話すぎて不快だったからだ。とりあえず顔合わせをと頼まれて来たものの、早く帰りたいと言う気持ちが先行する程度の歌手であった。いっその事曲を先に作って、そのイメージに合うアイドルをピックアップして貰ったほうが良かった。そんな事をぼんやり考えていたが、窓の向こう側に見覚えのある人影を見つけ、万斉は思わず立ち上がった。
 それに驚いた歌手とそのマネージャーは、首を傾げて、どうしました?と声を掛けてきたが、万斉は、では続きは次の機会に、と短くいい部屋を出て行く。
 唖然とする二人に、万斉に彼女を紹介した男は、いつものことですから、と笑いながら言う。
 タイアップすればヒットまちがいなしであるが、お目に叶うアイドルはなかなかいない。音楽業界に置いて、万斉は非常に気難しいタイプに分類される。元々本人が売れることには興味が無いのだから仕方ない。ただ、やりたいことをやっている。それだけなのだ。
 早足にビルを出た万斉は、先程見かけた人影を追って走りだした。
 どうしてこんな所にとも思ったが、自分が彼女を見間違えるはずがない、という自信もあった。
「レン!」
 思わず声をあげると、彼女は立ち止まり振り返ると、驚いた様に瞳を見開いた。
「万斉?お仕事は?」
「……終わった」
 正確には終わらせた、なのだが、この際細かいことはいいだろうと万斉は判断して、彼女を見下ろす。傘をさすのが面倒だったのか、高杉の編笠を被って万斉を見上げる彼女。仕事が終わったという言う万斉の言葉を聞いて、レンは嬉しそうに笑った。
「私もおつかい終わったんよ」
 得意気に差し出された袋を万斉が覗きこむと、そこに入っていたのは高杉がいつも飲んでいるお茶で、彼は呆れたように言葉を零した。
「晋助でござるか」
「そうなんよ。そんで、桜もちょこっと見ようと思ってるんよ」
「桜?」
 そう言われ、万斉は辺りを見回す。走っているうちに城の側まで来ていたのだろう、堀の周りとぐるりと囲む桜の花は満開であった。ここはまだマシであろうが、近場の大きめの公園などは、花見客で賑わっているだろう。
「公園は人がいっぱいやったからやめたんよ。ここはお散歩してる人が多いけど、公園ほどやないし」
 一応目立つことは控えるようにいつも周りから言われているのを気にしているのだろう。控えめにそう言ったレンを眺め、万斉は口元を緩める。そしてレンの頬を撫でると、少し一緒に歩こうか、と笑った。
 それにレンは嬉しそうに笑うと、万斉の手をぎゅっと握る。暖かい気候と、温かい彼女の体温に、万斉は満足そうに笑うとゆっくりと歩き出した。
 本来江戸城の周りを指名手配の鬼兵隊が歩きまわるなど、真選組が聞いたら噴飯物であろう。けれど万斉は気にした様子もなく堂々と堀の周りを歩き出した。
 しかしながら、いつもは真選組も巡回をしているというのに姿が見えず、万斉は僅かに瞳を細めた。元々江戸城は江戸城で、専門の護衛隊が存在しているわけなのだが、
攘夷浪士を取り締まる役割の真選組も、比較的重点的に巡回は組んでいるのだ。
 先日見廻組と真選組がぶつかったという噂も聞いたが、その加減でそれぞれの役割分担が変わったのだろうか、そんな事を考えていると、レンは万斉を見上げて笑った。
「公園には一杯屋台があったんよ」
「花見の季節には多いでござるな」
 ならば公園にしようかと万斉は一寸考える。自分がいれば問題が起こっても対処することができる。けれど、レンは残念そうに言葉を続けた。
「けど、シンセングミのお兄さんたちがお花見してたんよ」
 それで彼女は公園を避けたのだ、そのニュアンスが伝わり、万斉は彼女の手を握り返す。きっと屋台も見て回りたかっただろうが、真選組と鬼兵隊が相容れないのは彼女も理解している。彼女の気遣いは嬉しかったが、彼女が我慢せねばならないのは理不尽に思えて万斉は口を開いた。
「公園に行こうか、レン」
 すると、彼女は驚いたように首を振った。
「タケチーに迷惑かかるんよ」
 全く小五月蝿い。心の中でいつもレンにあれこれと注意をしている武市に舌打ちをしながら万斉は、では、とまたゆっくり歩き出す。無論武市なりに鬼兵隊やレンの事を考えて小言を言うのだろう。それは理解できる。その上レンは比較的人の助言を素直に聞くので、武市の注意も基本的にはきちんと守るし、それにレンは不満を言ったこともなかった。
「お花綺麗やね」
 ふわふわと笑うレンを眺め、万斉は先程までささくれ立っていた気持ちが収まるのを感じて、自然と口元が緩む。
 そして、彼女が突然万斉の手を離して走りだしたので、驚いて万斉は彼女に視線を送る。その先には、濃いピンクの花。八重桜の一種だろうか。その木の根元に立ち、彼女は満足そうに見上げていた。
「レン?」
「クレに咲いていたお花なんよ」
「呉?」
 彼女の言葉に万斉が首を傾げると、今日甲板で拾った花の話をレンはしだした。暇だからと甲板掃除をしていた事にも驚いたが、武市に図鑑を見せてもらい、実際に見たいと外に出てきた事を理解した。恐らく高杉のお使いは外に出すための口実なのだろう。
「一杯あると綺麗やね」
 満足そうな表情を見せて、レンはその光景を心に焼き付けるようにじっと動かない。
 いい曲が浮かんだ。万斉は心に浮かんだ旋律を忘れないようにと、彼女をじっと眺める。風が花びらを散らす様。暖かな空気。そして彼女の満足そうな顔。そこで、漸く万斉は、今の季節が春である事を自覚し、苦笑する。
 めぐる季節、彼女はいつでも、元気いっぱいだった。そして、何に触れても嬉しそうだった。
 そんな彼女を見ているのが心地よくて、ただただ、彼女の望みを叶え続けていた。
「レン」
「……そろそろ帰る?」
 万斉の声に彼女が言うと、彼は笑って、もう少しだけ、と言葉を放ち彼女の手をまた握った。
「ありがと」
 礼を言うのは自分のほうだ。そう考えながら、万斉は、穏やかな春の空気を満喫した。


万斉も相変わらずだった
20130407 ハスマキ

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