*水練*

 江戸の町は日差しが強く、阿伏兎は思わず流れる汗を拭った。日光を避けるためのマントもこんな時は暑くてかなわないし、だからといって体質的に脱ぐことも無理だ。せいぜい傘が日除けの役割を気休め程度に担ってくれている程度である。
 ブラブラと江戸の町を歩いていると、正面から見覚えのある二人が歩いてきたので、思わず阿伏兎は足を止めた。
「阿伏兎さん!」
 わーい!と駆け寄ってきたのは、鬼兵隊の飼う夜兎であるレンで、日除けの傘を持ったまま駆けてきた。その後ろからのんびり歩いてくる高杉に少しだけ阿伏兎は呆れたような顔を作る。鬼兵隊の大量検挙があった後だというのに、堂々と街中を歩く姿は思わず関係のない阿伏兎のほうが心配になる。派手な着物も、目立つ容姿も気にした様子はなく、高杉は口端を上げて、よぅ、と短く挨拶をして瞳を細めた。
「街中歩いて大丈夫なのかよ」
「こそこそしてるほうが目立つ」
 それもそうだが、余りにも堂々としすぎているのもいかがなものかと思ったが、あえて阿伏兎は口に出さなかった。万斉の姿が見えない所を見ると、恐らくレンに付き合って外に出てきたのであろう。少し前に、三味線屋の幼馴染には逃げられたと言うような事を言っていたのを思い出し、きっと暇を持て余しているんだろうと勝手に判断した阿伏兎は、ニコニコと自分を見上げるレンの頭を撫でると、どこに行くんだ?と何気なく聞いた。
「プールに行くんよ!泳ぐ練習するんよ」
 その言葉に阿伏兎は驚いたような顔をした。
「泳げねぇの?お嬢」
「川で魚を捕るってのはやってたみてぇなんだが、泳げねぇんだと。船に乗ってるのにそれも難儀だと思ってな。水練」
 恐らく浅い川での事であろう。確かに鬼兵隊の船は宇宙も駆けるが、海の上も走る。そう考えた場合、泳げないというのは余り良いことではないだろう。そう思い阿伏兎は小さく頷いた。
「阿伏兎さんは泳げるん?」
「あぁ。そりゃ水の上で戦う事もあるし、一応な」
 元々夜兎は身体能力が高いので、コツさえ掴めば泳げるようになるのは早い。阿伏兎などは水に叩き落されて泳ぎを覚えたものだ。すると、高杉は少しだけ首を傾げて、そうか、と笑うと、一緒に来い、と短くいう。
「何で?」
「雪兎に泳ぎ教えろって言ってんだ」
「……アンタ泳ぎ教えるつもりでお嬢連れてきたんじゃねぇの?」
 すると高杉は瞳を細めて笑った。
「実はな、教えられるほど得意じゃねぇんだ。他の奴が泳いでるの見て覚えさせるつもりだった」
 その言葉に阿伏兎は呆れたような顔をしてレンを見下ろす。するとレンは、阿伏兎が泳げると言ったことに期待をしたのか、阿伏兎の返答を期待のまなざしで待っていた。
「いや、水着ねぇし。陽の下は駄目だしおっさん」
「水着は買えばいいだろ。陽の下は大丈夫だ」
 確かにレンに泳ぎを教えるつもりなら、陽の下でも大丈夫な対策をしているのだろう。それは納得できたが、子守をまた押し付けるつもりだと阿伏兎は渋い顔をした。
「万斉の野郎に教えさせればいいじゃねぇか」
「万斉に内緒で泳ぎ覚えて、驚かせるんよ!」
 胸を張ってそういうレンに、阿伏兎は小さく肩を落とした。万斉の楽しみを奪うために高杉が連れ出したとしか考えられないが、レンは喜んでついてきてしまったのだろう。
「……少しだけだからな」
 それでもレンの期待の眼差しには逆らえず、阿伏兎は渋々と言う形で諒解をした。

 付いたのは、大江戸プールと書かれた施設で、阿伏兎とレンは珍しそうにその建物を見上げる。すると高杉は、その二人の様子に、咽喉で笑うと口を開く。
「室内プールだから陽の光は大丈夫だ。雪兎、オメェは向こうで着替えてこい。ロッカーの使い方は覚えたな。分からねぇ事があったらその辺のやつに聞け」
 そう言われると、高杉の渡したチケットを握りしめて、レンは大きく頷いた。すると高杉はひらひらと手を振りレンを見送り、阿伏兎に、そんじゃ行くか、と声をかける。どうやらここでさようならと言うわけではないらしい。少しだけ安心した阿伏兎は、高杉についてロッカー室に行く。
 江戸の町は吉原か飲食店、せいぜい三味線屋の家程度しか出入りしたことのなかった阿伏兎は、施設を見回し感心したような声を上げた。
「随分凝った作りじゃねぇか」
「遊ぶことには一生懸命なんだよ。多分な」
 渡された水着に着替え、高杉の方を見ると、彼は一応水着は着ているものの、パーカーを羽織って泳ぐ気はゼロであった。
「……あんまそーゆー服似合わねぇな」
「知ってる」
 思わず阿伏兎が零した言葉に、高杉は気を悪くした様子もなく咽喉で笑うと、ぺたぺたとロッカールームから施設の奥へと歩いて行く。それについていく阿伏兎は若干居心地が悪そうにしている。その表情を見て高杉は瞳を細めて笑った。
「夜兎はこーゆー所に遊びにはこねーのか?」
「うちの連中は食っちゃ寝すんのが休みの日では多いからな」
 見回すと、家族連れとカップルが多い。自分と高杉の組み合わせは目立つのではないかと危惧していたが、高杉はそれに気がついて、意地悪そうに笑った。
「どっからどう見ても親子だって」
「……いくらおっさんでも、お嬢ならともかく、アンタみてぇにでかい息子持った覚えはねぇよ」
「あんま変わんねぇだろ」
「偉い差だと思うけどねぇ」
 レンの正確な年齢は万斉も本人も知らないらしい。幼い外見と、訛りのある喋り方のせいで随分若く見えるが、20位までは本人が年齢を数えていたと言う。高杉の正確な年齢も阿伏兎は知らないが、自分と比べれば一回り位下だろう。ならば、親子と言うよりは、年の離れた兄弟だ。親子扱いされて不服そうな阿伏兎の顔を見て、高杉少しだけ愉快そうに笑った。
「阿伏兎さん!シンスケ!」
 ほてほてと歩いてきたレンを見て、阿伏兎は少しだけ驚いたような顔をする。
「水着には着替えられたみてぇだな」
「ちゃんとキジマちゃんと練習したんよ!大丈夫」
 胸を張って言うレンを見て、高杉は肩紐を直してやると、阿伏兎を見上げて意地悪く口を開く。
「おっさん。感想は?」
「いいんじゃね?」
 なるだけ平静を装って阿伏兎が言うと、レンは嬉しそうに笑った。ワンピースの水着は一体誰が選んだのだろう。普段は陽の光を遮るために、長袖長ズボンのうえ、体のラインがフラットに見えるゆったりした服を着る事の多いレンであるが、こうやって見ると、そこそこの体型をしている。神威の希望ほどではないのだろうが、身長など小さいレンとしては、胸も全体のバランスを考えれば悪くはない。
「……触んのと見るのではまた違うだろ?」
「まぁ、それは認めるけどな。つーか、俺はお嬢の乳なんざぁ、触ったことねぇよ」
 高杉の言葉に、阿伏兎は呆れたような顔で答えると、自分の手をわしっと掴むレンに視線を落とした。視線が合うと、レンはにっこり笑い、阿伏兎を見上げる。高杉とは兄弟だと主張できても、レン相手だとやっぱり親子だ。そう思い、阿伏兎は心の中でため息を思わずつく。
「そんじゃまぁ、しっかり練習しろよ」
「えー、シンスケ来ないの?」
「しっかり応援してやる」
 咽喉で笑った高杉は、一応傍では眺めるつもりなのだろう、水際までついてきたが、そのまま座り込み水に足をつけるだけに留まる。
「……150って所か?もっと浅いほうがいいんじゃね?」
 水に浸かった阿伏兎がそう言うと、高杉は困ったように笑い口を開く。
「それ以下になると子供用か、波が来る奴しかねぇんだ」
 子供用は大人遊泳禁止と書いてあるので使用できないだろうし、泳げない中波がやって来るのもレンは難儀するだろう。仕方なく阿伏兎はレンに無理しないようにと言い、水に入るように促した。
 流石に初めてのプールは緊張するのか、プールサイドにしがみついてへっぴり腰で水に入ってくるレンを見て阿伏兎は思わず笑う。
「足がつかないんよ」
「まぁ、仕方ねぇな。お嬢ちいせェし」
 付いたところで頭まで水に浸かってしまうだろう。水に慣れさせるために、阿伏兎は背を向けると、ほら、捕まれ、と言う。その言葉に頷いて、レンは阿伏兎の首に手を回してがっちりと抱きつく。
「体がふわふわするんよ」
「浮力あるからな。おっさんもテメェ背負っても重くねぇだろ。つーか、肌ピチピチだなオイ。水弾きまくりじゃねーか」
 高杉はレンの肌を見て思わずそう零す。手を伸ばし、肌に触れて水を拭うと、水滴が丸く肌に弾かれた。
「若いってのは羨ましいな。つーか、お嬢の場合は栄養状態がいいからじゃねぇの?」
 夜兎特有の白い肌ではあるが、血色は良く健康的に見える。すると高杉は笑いながら口を開いた。
「万斉がちゃんと面倒見てるからな。肌の手入れまでしてんだから、マメ過ぎだ」
 呆れたような、それでいて、予想通りだと言わんばかりの阿伏兎の顔に、高杉は瞳を細めて笑った。レンはレンで、初めての水の中の感覚に戸惑いながらも、嬉しそうに笑った。
「大分慣れてきたんよ」
「そうか、そんじゃ、ぐるっと一周するか」
 そういうと、阿伏兎は水の中をゆっくり歩き出す。するとレンは驚いたような顔をしたが、直ぐにしっかり阿伏兎に抱きつき、足をふわふわと浮き上がらせる。
 うん。失敗した。そう思った阿伏兎は、顰めっ面のまま、ただ、高杉の所まで戻ることに集中する。顔が近い。その上、しっかり抱きつきすぎて密着度が高すぎる。こんな姿を万斉に見られたら、間違いなく斬りかかって来る様な気もするが、レンが喜んでいるので黙って睨まれるだけかもしれない。もしくは、代われと涼しい顔で言ってくるか。万斉の事ばかり考えている事に気が付き、思わず阿伏兎は苦笑する。夜兎は飼えないから寄越せと散々言っておいて、万斉に気を使う様な己の考えが妙に可笑しかったのだ。
「割と表情豊かだなおっさん」
「うるせェよ」
 高杉は戻ってきた阿伏兎にそう言い放つと、水に手を突っ込んでレンの顔に水をかける。レンはそれに驚いたような顔はしたが、嫌そうではなく、えい!と高杉に反撃するように水を小さく跳ね上げた。
「そんじゃ、バタ足からやってみるか。水に顔をつけんのはお嬢、平気か?」
「大丈夫なんよ!」
 そんな二人のやり取りを見ながら、高杉は体を屈めてまた水に手をつけた。ある程度調節しているが、空気は少し暑く感じる。それでも外よりはましであるし、直射日光もない分日焼けの心配もない。泳ぎを覚えさせたほうが良いと言い出したのは、来島だったか、武市であったか。多分何かの話の延長でレンが泳げないことを知ったのだろう。運動神経の塊であるレンが泳げないというのは、意外な盲点で、万斉もそれを知らなかったらしい。次の休みにプールに連れて行くという話を聞いた高杉は、彼への嫌がらせの為に先に連れ出したのだ。
 阿伏兎に会えたのは偶然であるが、阿伏兎が根気よく教える姿を見ると、万斉への嫌がらせだけでレンを連れ出したのではないような気もしてくる。
 檻に飼われた夜兎。
 自分の檻は空になり、そこにいた女は別の誰かと一緒に歩いていくことを決めた。
 少し前なら考えられなかった事だが、今はその選択も有りだと思うようになっていた。己と彼女が一緒で幸せになれるのならば、それが一番良かったが、外の世界は広い。もっと別の道もある。レンに万斉が必要なのではなく、万斉にレンが必要だったのだ。それは自分と同じで、同族嫌悪に似た感覚を高杉はずっと万斉に抱いていた。
 阿伏兎ならどうだろうか。そう考えた時、高杉はそう悪い結末に行かないのではないかと思いだしたのだ。依存するのが悪いとは言わない。けれど、阿伏兎ならば、万斉とは違う方向でレンと上手くやっていけるのではないか。そう思うと、それが少し見たくなって、いつでも阿伏兎を高杉は贔屓にした。
「シンスケ!」
 ぺたっと己の足にへばりついたレンを見下ろして、高杉は口元を少し緩める。
「もう飽きたのか?」
「泳げるようになったんよ!」
 その言葉に高杉は驚いたような顔を作ると、飲み込みがはエェな、と彼女の頭を撫でた。阿伏兎の顔を見ると、彼は、まぁ、問題ねぇだろ、と短く言い乱暴に己の髪をかき混ぜると水から上がる。
「そんじゃ後は適当に遊べ」
「ええの?」
「構わねぇよ」
 高杉の言葉にレンは嬉しそうに笑うと、アレがええんよ!とスライダーを指さす。すると、高杉は、おっさんに頼め、と短く言うと立ち上がり、飲み物を買ってくるとさっさとその場を離れた。
「阿伏兎さん!」
「……はいはい」
 水からレンを上げると、阿伏兎はレンに手を引かれてスライダーの所まで行く。
「それじゃぁ、お父さん、娘さんしっかり抱いてて下さいね」
 係員にそう言われ、阿伏兎は苦笑すると、言われるままにレンを抱えて座る。結構な角度があるし、先に滑っていくのを見るとスピードもあるようだ。大丈夫かオイ、と思いながら、阿伏兎は一気に滑り降りる。
 大きな水しぶきを上げて水の中に放り出されたレンを引き上げると、阿伏兎はスライダーを見上げて顔を顰めた。何が楽しいのかいまいち分からない。けれどレンは楽しかったのか笑顔を阿伏兎に向けて、もう一回!と強請る。確かにスピードもあり、スリルはあるのだろう。けれど、阿伏兎が欲するスリルとはベクトルが違う。しかしながら、阿伏兎は困ったように笑うと、またレンを連れてスライダーの方へ向かった。

 

 泳ぎも覚えて、十分過ぎるほど遊んだレンは、阿伏兎に背負われて船まで戻る。有難い事に万斉は不在で、阿伏兎はほっとしたような顔をした。
「こそに転がしておけ」
 高杉の適当な指示に阿伏兎は肩を竦めると、ベッドにレンを寝かせて、布団をかけてやる。恐らく万斉の部屋であろう、雑多な部屋には何に使うのか分からない機材や、楽器がところ狭しと並んでいる。そんな中、小さなイルカのガラス人形を見つけて、阿伏兎は珍しそうに視線を落とす。プラスチックのケースに入れられたイルカ。
「箱庭みてぇだろ?」
「箱庭ね……」
 決して窮屈そうには見えない。けれど傍から見ると、隔離され、そこだけ異彩を放っているのは解る。雑多な部屋と、隔離され、綺麗に整えられた箱庭。
「……外がいいとも限らねぇけど、外も見せねぇで閉じ込めるのはフェアじゃねぇよな」
 それが万斉とレンの事を言っているのだろうと思い、阿伏兎は瞳を細めた。
「そんでも夜兎は、外に出りゃぁ、死ぬまで戦うしかねぇんだよ」
 ポツリとそういった阿伏兎を見て、高杉は瞳を細めた。
「俺は戦場にも地獄にも連れていったぜ。付いて行ってもイイってアイツが言ったからな」
 その言葉を聞きながら、阿伏兎はぼんやりとレンの顔を眺めた。
「最終的には手放したが……連れて行ったことを間違いだと思ったことはねぇよ。まぁ、決めるのは本人だけどな」
 咽喉で笑った高杉を見下ろし、阿伏兎は困ったように笑った。
「お嬢は来ねぇよ。万斉がいいだろ」
「今度聞いてみりゃいい。いつまでも赤信号だと思ってたら、いつの間にか青だったって事もあんだろ」
 その言葉に阿伏兎は驚いたような顔をしたが、レンの髪を撫でて、瞳を細めた。
「……まぁ、機会があったらな」
 機会なんざぁ自分で作るもんだ。そう思ったが、高杉は何も言わず、ただ、瞳を細めて笑った。


水練の巻!
200110801 ハスマキ

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