*寝てる時だけは可愛い*

「暇だなぁ。暇だと思わない?阿伏兎」
「俺はアンタの所為で始末書を書かされてるんだが」
 春雨の本船に帰還した第七師団の神威と阿伏兎は、先日の仕事の始末書作成を命ぜられていた。大した仕事ではなかったのだが、神威の気まぐれで商談がややこしくなってしまったのが原因である。無論、始末書を書くつもりなど更々ない神威に代わって、いつも通り阿伏兎が処理を丸投げされているのだ。
「団長が必要以上に暴れるから」
「だって、痛い目にあわせた方が言う事聞くよ。絶対」
 不服そうに口を尖らせた神威を見て阿伏兎は溜息をつく。護衛任務だったが必要以上に相手をボコボコにしてしまい不興を買ったのだ。しかし神威に言わせれば、夜兎を護衛任務などに使う方が間違っている。夜兎というのは全てを壊す種族だ。総じて守るのは不得手だと考えているのだ。
「ったく。折角の休暇が台無しじゃねぇかよ」
 文句を言いながら阿伏兎は漸く始末書を完成させ、それを持つと立ち上がる。
「コレ提出するから団長も来てくれよ」
「えー」
「アンタが書いて出す書類なんですけどねぇ」
 本来ならば神威が一人で処理せねばならないのを全て請け負った阿伏兎は、眉間に皺を寄せるとあからさまに厭そうな顔をする神威を引きずって部屋を出る。せめて神威が顔でも出さなければ上は納得しないと思ったのだろう。

 暫く歩くと、向こうから人がやってくるのを見つけて神威は目を光らせる。
 春雨の幹部と、それに案内されるようについて歩く面子は鬼兵隊であった。恐らく商談でもあったのであろう。
「鬼兵隊…だっけ?」
「そーだよ」
 神威が興味を示したようなので、阿伏兎は面倒臭そうに頭を掻くと投げやりに返答する。しかし直ぐにその鬼兵隊の面子を確認して眉間に皺を寄せた。
「あの真っ白いのが鬼兵隊の夜兎?」
「…ああ」
 透けるような白い肌・白髪、そして赤い瞳。雪兎の様なその容姿を持つ夜兎に、阿伏兎は何度も会った事があるのだがそこに違和感を感じる。いつも隣にいる筈の男が居ないのだ。
「河上万斉がいねぇな…」
 彼女を拾って鬼兵隊に引き入れた河上万斉。阿伏兎に言わせれば、ありえないぐらい過保護に彼女を飼っている男である。万斉の代わりに今日彼女の側には、鬼兵隊のトップである高杉が居る。
 そしてもう一つの違和感は彼女自身であった。以前に会った時の様な人懐っこさはなく、緊張した面持ちで高杉の側に控えており、その表情に笑顔はない。察するに高杉の護衛と言う事で春雨に来たのであろう。
「名前は?」
「レン」
 神威の質問に答えながら阿伏兎はレンに視線を送った。
「挨拶しとこうか?」
「勘弁してくれよ。お嬢は仕事中だろうが、どう見ても」
 心底厭そうな顔をして阿伏兎が返答すると神威は、いやいや、お仕事拝見と呟き、自分の襟首を掴む阿伏兎の手を払いのけた。

 止める間もなく駆け出した神威に阿伏兎は舌打ちすると直ぐに後を追う。また始末書を書かされるのも面倒であるし、現在春雨と鬼兵隊は同盟状態にあるので揉め事を起こす訳にはいかなかったのだ。
「団長!」
 声を上げた阿伏兎に視線をちらりと送った神威は、笑顔のまま春雨幹部と鬼兵隊の中に突っ込んでいった。
 振り上げた拳で高杉の頭を捕らえようとするが、それは目の前に現れた白い夜兎の手によって防がれる。神威は尻上がりに口笛を吹くと、半歩下がり更に足を振り上げた。
「やめないか神威!」
 春雨の幹部の声を無視して攻撃を繰り出す神威を眺め、狙われた高杉は呆れたような顔をすると、春雨の夜兎かと呟く。
「晋助様!」
 漸く我に返った来島が慌てて高杉を少し離れた所に引っ張っていくと、銃を抜こうとしたので高杉はそれを制した。
「やめとけ。夜兎相手にきかねぇよ。しかし参ったな…万斉がいねー時に」
「レン!やめるっス!晋助様は無事っスよ!」
 高杉の言葉に来島は頷くと銃から手を放しレンに声をかけるが、彼女はそれが聞こえないのか神威の攻撃に応戦し、持っていた傘を神威に振り下ろす。それを片手で受け止めた神威はそのままその傘ごとレンを投げ飛ばした。
 派手な音を立ててレンは壁に叩きつけられたが、直ぐに体勢を立て直すとその赤い瞳に神威の姿を捉え床を蹴る。それに反応した神威は嬉しそうに口元を歪めると、彼女に向かって駆け出した。
「…万斉に小言言われるなこりゃ」
「アンタ何を暢気に…。団長!お嬢!いい加減にしろ!」
 思わず声を上げた阿伏兎を見上げると、高杉は不機嫌そうに口元を歪めポツリと呟いた。
「止まらねぇんだよアイツはスイッチ入っちまったら。全部ぶっ壊すまで。夜兎ってのはそんなもんだろう?」
 それは確かにそうだが…、と阿伏兎は思わず返答するが、以前一緒に仕事をした時、レンがこのような暴走状態になった事がないのを思い出し、怪訝そうな顔をする。
「前の仕事ではこんな事なかったんだがなお嬢…」
「万斉の野郎が居たからな」
 瞳を細めると高杉は不機嫌そうに神威に投げ飛ばされるレンを眺める。今度は叩きつけられることなく壁を蹴り、その反動でレンは神威の腹に拳を埋めた。
「いいねこの子。頑丈だし。元気だし」
「団長いい加減に…」
 笑顔を崩さないまま神威が嬉しそうに言うので、阿伏兎は眉間に皺を寄せ怒鳴りつけようとするが、突然飛んで来た瓦礫を払いのける羽目になり尻すぼみになる。
「ほら、だって。俺が止まったらこっちがやられるよ」
 スピードではレンが勝っているが、パワーでは圧倒的に神威が上でレンの体に傷が増えていく。今は神威は遊びであるが、テンションが上がってくれば止まらなくなる可能性もあると阿伏兎は考え舌打ちした。せめて神威が拳を引く余裕があるうちにレンの方を止めなければならない。
 万斉はどうやって彼女を止めていたのだろう。それを思い出すまで阿伏兎は数秒要した。以前一緒に仕事をしていた時はレンがどんなに遠くにいても、戦いに熱中していても万斉がレンの名を呼べば彼女はちゃんと戻ってきていた。高杉の言う通り万斉がいなければ止まらないのかもしれないと判断した阿伏兎は強硬手段に出ることにする。このままでは始末書だけではすまない。最悪共食いだと。
 床を蹴った阿伏兎はレンの振りかざした傘を腕で止めると、空いている手でレンの体を引き寄せた。今までの彼女のスピードであるならば彼の手をかわしそうなものだが、レンの反応が一瞬遅れた所を巧く捕まえる事ができたので阿伏兎は安堵する。
「やめろお嬢。これ以上はお前さんがぶっ壊れる」
 レンが体を離そうとするが阿伏兎はそれを許さず再度口を開いた。
「レン」
 一度大きく見開かれた彼女の瞳はストンと閉じられた。倒れこんできた体を阿伏兎は抱きかかえると驚いた様な顔をする。止めるつもりではあったがまさかこの様に糸が切れたかのように止まるとは思っていなかったのだろう。
 その様子を眺めていた高杉は呆れた様に肩を竦める。
「…昔は万斉もそーやって止めてたな」
「マジかよ」
 虚弱な地球人が暴れまくる夜兎を力ずくで止めるなど正気の沙汰ではないと思った阿伏兎は、思わずそう言葉を零した。阿伏兎でさえ、腕は見事に腫れ上がり無傷では止める事はできなかったのだから、万斉はもっと酷い怪我を負ったかもしれない。ただ万斉はその過程を経て声だけで彼女を止めるまでに至ったのだからその根性は認めざるをえない。
「おわり?つまんないなぁ」
「勘弁してくれよ団長…お陰で折角書いた始末書が吹っ飛んじまった」
「いいんじゃない?どーせまた書くんだから」
 そう言いながら神威は満足そうに笑い顔面蒼白の春雨幹部に視線を送る。それを見て阿伏兎は渋い顔をし、レンをそのまま荷物の様に肩に担いだ。すると少し離れていた所にいた高杉は、床に転がった彼女の傘を拾い上げ、それを阿伏兎に差し出し口元を歪める。
「…丁度いい。そのまま暫くそいつ預かれ」
「はぁ?」
「万斉の野郎が来るまでで構わねぇよ」
 高杉の言っている意味が解らない阿伏兎はポカンと口を開け彼を眺める。すると高杉は瞳を細めて面倒くさそうに口を開いた。
「スイッチ入った後は万斉いねぇとそいつ駄目なんだよ。人の側に寄り付きもしねぇ癖に気が高ぶって終始落ち着かねぇんだ。アンタの声は聞こえたみてぇだから、俺の側に置いとくよりマシだろ」
 そんな莫迦な、と阿伏兎は思わず小声で呟く。
「…べったり依存してんだよ万斉に。破壊衝動を抑えるだけじゃなくて、発散も全部万斉が調整してる」
 高杉にはそれができないと言う事なのだろうと判断した阿伏兎は、己達の非もあるので今回は素直に高杉の言葉に従う事にした。第七師団へのレンの勧誘を拒んでいるというのに、こちらに預けると言う事はそれだけ深刻なのだろうと思い、阿伏兎は渋い顔をしながら彼女の傘を受け取る。
「預かるのは構わねぇが万斉の野郎はいつ来るんだ?」
「連絡つき次第すっ飛んで来るだろうよ。それまで精々勧誘しとくんだな」
 咽喉で笑った高杉は瞳を細めると側に控えていた来島に声をかけ部屋に戻ってゆく。残った阿伏兎は小さく溜息をつき、機嫌が良さそうに側によってくる神威に取りあえず文句を零した。
「自重してくれよ」
「そんな言葉は知らないなぁ。本当元気だねこの子。阿伏兎の話とはちょっと違う感じだけど」
 レンの白い髪を引っ張りながら神威は瞳を細めた。阿伏兎の話では気質は温和で人懐っこい、そして精神的には幼いと聞いていたのだ。
「…スイッチはいっちまうとこんな感じらしーな。まぁ、俺もここまで暴走特急だとは思わなかったが」
 万斉が彼女を甘やかす理由が少し理解できた。夜兎の破壊衝動を削ぐ為に万斉は恐らく彼女を必要以上に甘やかしているのであろう。無論、彼が元々好き好んでやっている可能性もゼロではないだろうが、破壊衝動が出る間もない位甘やかし続けて日常生活を送らせ、そしてガス抜きの為に仕事に連れ出し発散させる。その為に万斉は心を砕き体を張り、レンはそれに全力で応えて、繰り返して、巧く彼女と一緒にいるのだろう。夜兎の血と共存する為に彼等が選んだ方法。神掛かったチューニングだと阿伏兎は心底感心した。
「まぁ、阿伏兎が気に入ってるなら勧誘してもいいよ。たまに遊ぶ分には良いけど俺の子を生むにはちょっと足りない」
「足りないって…何が?」
 無論、足りてしまったら神威は力ずくで彼女を攫うのだろうが、何が足りないと感じているのか一応聞いてみる事にする。
「鬼兵隊の男と一緒じゃないと使えないのはとりあえず減点一。センスは良いんだけどね。恐ろしいぐらい急所を的確に狙ってくるし、スピードだけなら俺より上。もう少し戦場で揉んだら伸びると思うけど」
 瞳を細めて笑った神威を見て阿伏兎は口元をへの字に曲げる。それは阿伏兎も戦いを見て知っていた。レンは殺す為に的確に急所を狙ってくる。普通の相手ならそれで終わりだが、綺麗に狙いすぎる為に神威にはどこに攻撃が来るのか逆に読めるのだろう。スピードで上回っていても神威を彼女が捉え切れなかったのはその辺りにある。これは経験を積めばなんとでもなる技術的な問題であるが、万斉とセットでなければ使えないというのはどうにもならない致命的な弱点である。
「…取りあえずってのは他にも減点があるのかよ」
「うん。ほら、胸の大きさがね…俺は片手にすっぽりの小振りより溢れんばかりの実りが好みなんだよ。彼女もう年齢的に胸育たないだろ?そこがなー。俺はさ、若いからこれから探せばもう少し好みの女に会えるかもしれないし。でも阿伏兎は年だからこの辺で妥協しても良いんじゃない?」
 右手をワキワキさせながら言う神威を見て阿伏兎は顔を顰め、エロ餓鬼が…と思わず呟く。身体的な好みが出てくるとは思わなかったので呆れるしか出来なかった。
「妥協なんつったらお嬢に失礼だろーが」
「じゃぁ、本気で取りに行ったら失礼じゃないって事だ」
「あのなぁ…」
 名案だと言わんばかりに神威が言葉を放つので、阿伏兎は情けない顔をするしかなかった。確かにそれはそうだが、一回りも年が違うであろう彼女に本気を出す言うのはどうよと言いたげである。
「最後に」
「まだあんのか減点」
 自分で話を振っておきながら、もうどうでもよくなってしまった阿伏兎に神威は笑いかけると、うんと頷く。
「…阿伏兎に気がついて手加減した所。あそこで阿伏兎をフルパワーでぶちのめしてくれたら惚れたかもなぁ」
 神威の言葉に阿伏兎は瞳を細めた。要するにぬるさが気に入らなかったのだろう。敵であろうが同族であろうが目の前に割ってくればぶちのめしてしまえば良いと神威は考えているのだ。
 呆れたような顔をした阿伏兎に神威は笑いかけると、そんじゃ俺昼寝するからと言いくるりと方向転換した。
「おい!」
「起したら殺すよ。あと『また遊ぼう』ってその子に言っといて。楽しかった」
 手を振りながら部屋に戻る神威を見送りながら阿伏兎は小さく溜息をつく。彼女の自爆スイッチを連打した当の本人は満足したが、彼女自身は高杉の言うように暫くは不安定なのだろうか。それを考えると気が重くなってきたが取りあえず阿伏兎は彼女を自分の部屋へ運ぶ事にした。

「アブトさん」
「気がついたかお嬢」
 部屋まであと少しと言う所でレンが声をかけてきたので阿伏兎は足を止めた。荷物担ぎなのでレンの頭が後方にあり彼女の尻と会話するという奇妙な光景であるが、阿伏兎はとりあえずそのまま声をかける事にした。
「気分はどーだ?」
「…」
 その言葉にレンは赤い瞳を細めると困った様な顔をする。気分がいい訳はない。いきなり神威に攻撃されて散々殴り合って倒れたのだ。
「お仕事に今日は来たんよ」
「らしいな。邪魔して悪かった」
「…ちゃんとお仕事できんかったからシンスケ怒ってた?要らんってゆーとった?」
 その言葉に阿伏兎は驚いた様な顔をする。
「今日は万斉の野郎はどうしたんだ」
「万斉は後からくるんよ。…その間は一人でちゃんとお仕事せなあかんかったのに」
 しょんぼりした彼女に心底土下座したい気分になる。真面目に仕事をしようとしている彼女が割を食ってへこんでいるのだから、全力で己の上司である神威の軽率さを謝罪したい。
「…万斉来るまで休んどけってよ」
 阿伏兎の言葉にレンは、そっかとポツリと言うと俯いた。
 万斉の横でいつも楽しそうに笑っていた彼女を見ていた阿伏兎としてはどうも萎れた彼女は扱い難かった。どうしたら良いのか解らないのだ。気のきいた言葉を放つことも出来ず阿伏兎は取りあえず彼女を当初の目的通り自分の部屋へ連れて行く事にした。

 部屋につき彼女を降ろすと奇妙な沈黙が訪れる。普通の状態のレンであれば、あれこれと好き勝手にするのだろう。しかし、今はそんな状態ではない。
「…傷の手当するから先に風呂入れ。多少痛むかもしれねーけど埃だらけだからな」
 阿伏兎の言葉にレンは黙って頷く。
 引っ張り出した服とタオルを持たせると阿伏兎はそのままレンをシャワー室に放り込む。服は神威の所為でボロボロであったし、折角シャワーを浴びて綺麗になった所に、また埃だらけの服を着せるのも気の毒だと思ったのだろう。彼女の着替えが手元にない以上、サイズが合わないであろうが、阿伏兎の服をレンに着せるほかない。
 その後、阿伏兎はソファーに座り思わず天井を仰いだ。彼女は自分が夜兎だと言うことを万斉に会うまで知らなかったから己の破壊衝動を持て余しがちなのだろう。それを万斉が巧く凌いできていたのだ。
──夜兎だからレンを手元においておきたいのではない。たまたまレンが夜兎だっただけの話でござる。
 そういった男は彼女が夜兎であるのを承知で共存の道を選び、彼女もまた同じ道を選んだ。それは神威が歩む道とは違う。ただそれも選択であると阿伏兎は思った。ただ単に夜兎の血を否定し押さえつけるだけであるならば無様だと鼻で笑ったかもしれないが、彼女は夜兎の血を受け入れそれでもなお別の道を探し続けた。
「やれやれ。若いってのは羨ましいねぇ」
 とてもではないが真似は出来そうにない。神威の様に一直線に走ることも、彼女の様に迷いながら模索しながらそれでも前に進む事も。夜兎という種族が好きで眺めているのが精々である事を自覚しているからこそ、阿伏兎は彼等を邪魔する事はできればしたくなかった。

 頭から湯を浴びながらレンはじっと己の爪先を眺めていた。目の奥がちりちりと痛む感覚が抜けない。そして手の震えも止まらない。高揚しているのを自覚して、レンはお湯から水に一気に温度を下げる。
 戦うのは嫌いではなかったが、止まらなくなる自分自身を持て余す事が多かった。敵は倒せば良いと今でも思っているし、一人の頃は止まらなくても良かった。しかし、万斉に拾われてからは、彼等に迷惑をかける事が苦痛でならなかったのだ。
 少しずつ慣れれば良いと万斉が言う度に、レンは自分の不甲斐無さを呪った。だから万斉の声を聞き逃さないように努力をし続けた。
 だが、今日は万斉がいなかった。
 代わりにとめてくれたのは阿伏兎であったが、彼にも怪我をさせてしまった。
 レンは途方に暮れたように顔を上げると蛇口の栓を捻り水を止めた。
 床を濡らしながらレンは脱衣所に移動すると、阿伏兎の準備してくれたタオルで体を拭き、彼の服を手に取った。サイズが全く合わないので、ズボンは落ちてしまい無理だったので上着だけ羽織る事にする。袖も余っているし丈も長すぎる。首周りもちゃんとボタンを止めたとしても随分緩いであろう。レンはボタンを順番にとめようとしたが、手が震えて思うように進まなかった。五感が必要以上に研ぎ澄まされ、外の音や気配が気になって集中できないのだ。漸くボタンをとめ終えたレンは髪を拭こうと頭からタオルを被るが、ちらりと視界に入った鏡に映る自分の姿を見て、レンはその場に思わず蹲った。

 がたりと大きな音がしたので阿伏兎は驚いた様にソファーから立ち上がる。音がしたのはシャワー室からだったので暫く悩んだ後、中に声をかける事にした。
「お嬢?」
 返答がなく困惑した阿伏兎は扉を開けると中を覗き込んだ。
 隅に蹲ったレンを見て阿伏兎は驚いた様な顔をすると、彼女の側にしゃがみ込み顔を覗き込んだ。真っ青な顔をしたレンは阿伏兎を見るとその手を伸ばし彼の首に手を回す。
 突然の事に阿伏兎は言葉を失うが、彼女の体が小さく震えているのに気がつき、ゆっくりと彼女を抱き上げた。
 レンを抱えて部屋に戻ると、阿伏兎は神威が昼寝用にと持ち込んだクッションに彼女を降ろし小さく溜息をついた。
「大丈夫かお嬢」
 言葉による返事はなかったが、彼女は膝を抱えると小さく頷いた。しかし阿伏兎は顔を顰めると、彼女の被っているタオルを取った。顔色が良くないし、カタカタと膝を抱える手が震えている。
「とりあえず髪は拭いておいた方がいいな。風邪ひく」
 そう言うと阿伏兎は、手に持ったタオルで丁寧に水滴を拭ってやる。正直阿伏兎自身このような作業が得意な方ではない。しかし、彼女の戦闘後の緊張状態がまだ抜け切っていない事は見て解ったし、早く緩和してやらないと多分神経が焼ききれると思ったのだ。だったら少しでもいつもの様に扱ってやった方がいいと判断し、阿伏兎は慣れない作業に苦戦しながら何とかある程度綺麗にしてやる。万斉なら恐らくもっとスムーズに作業を行うのだろう。
 漸く作業を終えると阿伏兎は彼女の怪我の手当てをする事にした。幸い骨に異常がある程の怪我はなく殆どが打撲と擦り傷であった。夜兎の回復力なら直ぐによくなるであろうと思い安堵する。
「大した事なくてよかったなお嬢」
「…ごめんなさい」
 俯いてそう呟いたレンに阿伏兎は驚き手を止める。謝るのはこちらの方だと言うのにと困惑して阿伏兎は彼女の顔を覗き込む。
「どーしたお嬢」
「怪我させてごめんなさい」
 ボロボロと泣き出したレンを見て阿伏兎は口元を情けなく歪めると彼女の頭を撫でた。
「団長といりゃアレぐらい日常茶飯事だから気にすんな。大したことねぇよ。アレぐらいでお嬢が止まったら御の字だ」
 腕は痛むが大した事ないと思っているのは事実である。夜兎同士の戦いをとめようとすれば最悪命を落とす事だってある。それに神威の指摘するようにレンは阿伏兎に気がついてスピードを緩めた。
「俺に気がついて止まろうとしてくれただろうに。お嬢は頑張ったんだから構わねぇよ」
「…でも怪我させるんは厭なんよ。万斉も昔は一杯怪我させて私は厭やったんよ」
 だから万斉の声は聞き逃さないように彼女は努力を続けたのだろう。そして万斉は彼女の努力に誠心誠意応え続けた。いつか殺し合いになるからレンを手放せと阿伏兎は万斉に言い続けていたが、彼等はずっと前からそれを乗り越える為に戦い続けていたのだ。
 いつか機会があれば二人がどうやって出会ったのか聞いてみたかった。どうすればそこまで信頼できるのか。どうすればそこまで正面から向かい合えるのか。年を取ってかわす事ばかり巧くなった自分には真似は出来ないが興味があった。
「…お嬢。今日は大サービスだ」
 そう言うと阿伏兎はレンを立たせ自分が代わりにクッションに胡坐をかくと彼女を膝に乗せた。万斉とレンがこうやっているのをよく見るが、自分がやるには気恥ずかしさから抵抗があり、レンが時折阿伏兎の膝に座りたがっても今まで出来るだけ丁寧にお断りしていたのだ。
「ええの?」
「お嬢が頑張ったからな。万斉の野郎の膝の方が落ち着くだろうが我慢してくれ」
 ただ、座らせたら座らせたでどうしたらいいのかは解らなかった阿伏兎はとりあえずレンの長い服の袖をまくってやる。するとレンはほんの少し嬉しそうに笑った。今日、彼女が阿伏兎に初めて見せる笑顔であった。
「ありがと。アブトさん」
「どーいたしまして」
 作業を終えてしまうと何処に手を置いていいか解らない阿伏兎は散々迷った挙句に、レンの腹の上で手を組む事にした。抱きかかえる形になるので気恥ずかしいが他に思いつかなかったのだ。柔らかくて小さい彼女の体は抱き心地は良かったが落ち着かない。傍から見れば犯罪であるし、贔屓目に見ても親子だ。そもそも親子がこんなにべったりとくっつくなどと言うのは聞いた事もないが。
「シンスケ怒ってた?」
「いや。全然。お嬢の事心配して俺に預けたんじゃねぇの。自分の側に置いとくよりマシだって言ってたぜ」
 表面的には心配しているようには見えなかったが、心配しなければ彼女の不安定さを態々こっちに晒して預ける事はしなかっただろうと思った阿伏兎はそう返答した。するとレンは少し俯く。
「私は一杯ご飯食べるのに全然役に立たないんよ。お仕事も今日はちゃんとしようと思ってたんやけど全然あかんかったね」
「ありゃ団長が悪ぃ」
「ダンチョーが本気じゃないのはちゃんと解ってたんよ。でもダンチョー強いから私は本気出さないとシンスケもキジマちゃんも自分も守れんかった。万斉おらんとブレーキ巧くきかんのにあかんね。アブトさんおらんかったらきっとシンスケ達にも迷惑かけたんよ」
 彼女の言葉を聞きながら阿伏兎は背中を丸め彼女の肩に顎を置いた。高さが丁度良かったのだ。
「うちの団長に見習わせたいねぇ。団長は大飯ぐらいの癖に直ぐに仕事さぼりやがるからな」
 その言葉にレンは驚いた様な顔をした。阿伏兎とは時折仕事をする事があったが、団長は存在だけ知っていて会ったのは今日が初めてだったのだ。最悪な邂逅であったが。
「お嬢の事は割かし気に入ったみてぇだけどな。『また遊ぼう』なんざ迷惑な事いってやがったぜ」
「私はダンチョーと巧く遊べないんよ」
 困った様な顔をしたレンを横目で見て阿伏兎はこの謙虚さが一欠片でも神威にあればと心底思ったが、あればあったであの己の道を行く神威は存在しなかっただろうと考えると、それはそれで勿体無いと阿伏兎は思わず苦笑した。極端な道を選んだ二人はそのままでいいような気がしたのだ。何処までも己の選んだ選択肢を進んで行って欲しいと思った。
「お嬢」
「なに?」
「団長とやりあってる時、俺の声は聞こえたんだな」
「うん」
「そんじゃ俺もお嬢のブレーキになってやれる。だからお嬢は今まで通りでいい」
 その言葉にレンは驚いた様な顔をしたが直ぐに困ったように笑った。
「アブトさんに迷惑かけるの厭なんよ」
「団長に比べたら可愛いもんだろう。そんでいつか俺の所来いよお嬢」
「…万斉の側がええんよ」
「そりゃ残念だ」
 レンは瞳を細めると擦り寄るように阿伏兎の頬に自分の頬をくっつけ子供の様に笑った。
「アブトさんの事も大好きなんよ」
 その言葉に阿伏兎は驚いた様な顔をすると頬を離し視線を彷徨わせた。いい年してまさかこんな年下に大好きだ等といわれるとは思わなかったので恥ずかしくなったのだ。全力で万斉が一番だとフラれている訳だがそれでも反応に困るのであろう。
 多分高杉にも来島にも万斉にも彼女はそう言うのだろうと解っていても阿伏兎はどう反応して良いものかと困り果て、結局彼女の柔らかい髪に顔を埋めて返答する事から全力で逃げた。
 すると彼女は少しだけくすぐったそうにしたが、自分の腹に乗せられた阿伏兎の手に自分の手を重ねると少しだけ彼にもたれかかり体重を預ける。阿伏兎と話をして少し落ち着いたのを自覚するとレンは瞳を閉じた。手の震えも高揚感も落ち着き今はただ少し眠かったのだ。
「お嬢?」
 ほんの少し彼女の体が傾いたのに気がつき阿伏兎は小声で彼女を呼んだ。しかし返事はなく小さな寝息だけが耳に届く。眠れたと言う事は緊張状態から解放されたのだろうと思った阿伏兎は安心したような顔をすると、彼女の体がひっくり返らないように後ろからしっかりと抱いた。
 柔らかいレンの体は心地よい体温を阿伏兎に供給し、彼も次第に睡魔の糸に絡み取られる。
 ぼんやりとした思考の中、阿伏兎は彼女の顔を眺め瞳を細めた。今なら安心して彼女を眺めていられると。起きている時は心配させられ、翻弄され、気が気ではなかったのだ。彼女が選んだのは、多分今まで誰も選ばなかったであろう選択。手探りで傷つきながらも彼女は前に進んでいく。
 彼女が夜兎だから仲間にしたいのも本当。彼女が選んだ道を眺めていたいのも本当。そしてこうして彼女を抱いているのが心地よいのも本当。
──じゃぁ、本気で取りに行ったら失礼じゃないって事だ。
 神威の言葉が脳裏をよぎって、阿伏兎は軽く頭を振ると思わず天井を仰いだ。
「…オイオイ勘弁してくれよ。おっさんには荷が重いわ」
 割り込むなら彼等がそうしているように全てを賭けなければならない。まだ対等ですらない。そうぼんやりと考えながら阿伏兎は彼女を抱く手に僅かに力を込めると、心地よい彼女の体温に誘われるままゆっくりと意識を手放した。


企画サイト投稿作品
阿伏兎困れ!
200903 ハスマキ

【MAINTOP】