*冬来たりなば春遠からじ*
張りぼての城だと苦笑した将軍を見てリンドウは僅かに瞳を細める。早咲きの桜を愛でる将軍は、隣に控える彼女が緩やかに微笑んだのをみて満足そうにした。以前に真選組で見かけた監察の女性隊士。容姿は平凡であるがどこか柔らかく穏やかな雰囲気を持った彼女に興味を持ったのは、松平に誘われお忍びで出かけたスナックでである。寒い中、外で護衛をする真選組の仲間に差し入れを持ってきた彼女とほんの短い会話を交わした。ただそれだけであった。
「リンドウ」
「はい」
「無理を言って済まなかった」
城のイベントである花見は早咲き桜が咲く頃に行われる。大概3月の中旬位で、4月頃に城下で桜が咲き乱れるのより少し早めに行われる。そこに彼女を呼べないかと将軍は松平に頼んだのだ。いつも花見の護衛は真選組であったが、城の敷地内で行われる事もあり真選組は外の護衛の時より数を控えて呼ばれる。城の護衛を専門に行ってる部署もあるからだ。
監察というのは専門は情報収集である為に彼女は来ないかも知れないと思った将軍は一言、松平に言付けた。
「あー花見の護衛か。もうそんな時期なんだなぁ」
真選組の屯所を訪れた松平の言葉に近藤は感慨深そうに言葉を零した。春の一番最初の行事だと何となく近藤の中で刷り込まれているのが、この城での花見なのだ。
「そんじゃ1番隊から5番隊まで出すか」
「その話なんだけどよぉ」
近藤の隣に座る土方が早速仕事の指示を出そうとするが、それを松平が遮ったので怪訝そうな顔をする。また面倒な事を言い出すのではないかと言いたげな顔である。
「監察組も貸してくれや」
「はぁ?何で監察。情報収集には向いてるけど護衛にはむかねぇよあいつ等」
土方の言う事はもっともである。基本的に手が足りない時以外は監察組を護衛に出す事はない。山崎等はいざという時に監察とのパイプ用に一緒に行く事もあるが、監察というのは情報収集専門で剣術より変装や話術に長けている者を採用しているのだ。つまり武力的な戦力としては全く真選組内では頭数に勘定されていない。
「実はよぉ。上様がどーしてもって言うんだよ」
松平の言葉にますます解らないと言ったような表情をした二人を見て、松平は更に言葉を続けた。
「玄関掃除のお嬢ちゃんいたろ」
「ハルちゃん?」
「そう」
松平から意外な名前が出てきて近藤は驚き、土方は不機嫌そうに顔を顰めた。そして更にその続きの話を聞いて二人は血の気の引くような思いをする羽目になる。
事の発端はバレンタインだと言う。
真選組組織図上トップである松平にも日ごろの感謝を込めてプレゼントを渡そうと彼女が連絡を入れてきたらしい。屯所に来る事の少ない松平宛てのプレゼントを何処に送れば良いのかという問い合わせだったのだが、松平はその時ふと将軍が以前スナックで護衛をした際に少し話をしたという彼女の事を随分気に入っていたのを思い出し、将軍の分も送れと言ったのだ。
そして彼女は言われたとおりに松平と将軍の分のプレゼントを送ってきた。
思いのほか将軍は喜び、松平も満足しめでたしめでたしで終わる筈だったのだが、バレンタインとセットであるホワイトデーのイベントを失念していたのだ。当然の如く将軍は礼がしたいと言いだし、松平は彼女を将軍に会わせる為に手を打たねばならなくなった。城に連れて行くには彼女は平隊士であるので憚られる。将軍がお忍びで行こうにも生真面目な彼女は恐縮するし困るであろう。
「…で、護衛にかこつけて前みたいに少し話ができりゃーと思ったんだがよぉ。どうだ?」
「…」
言葉も出ない近藤と土方はその場に凍りつくしか出来なかった。無論二人とも将軍とリンドウが顔見知りなのは、例の護衛の時交わされた会話を聞いているので知っている。それに将軍が彼女ともう少し話がしたいと言っていた事も。
「綺麗なお姉ちゃんがいる店以外で、局長と副長の許可があればまた話をしてくれると上様は思ってるみたいでだなぁ」
そういわれ彼女がまた話をしたいという将軍にそう返答したのを思い出し、土方はとりあえず落ち着く為に煙草に手を伸ばした。火をつけ、煙を肺に入れた土方は不機嫌そうに眉間に皺を寄せると漸く口を開く。
「本人に聞いてみねぇとなんともいえねぇよ」
そう言葉に出してみたが、彼女は恐らく性格的に近藤と土方が許可を出せば、本人が内心厭でも仕事と割り切って城に行くだろう。寧ろ人のいい彼女は恐縮はするかもしれないが、厭だとは思いもしないかもしれない。
「本人にもう聞いた。お前等の許可がないと行けないって言ってたからなぁ。態々おじさんでむいて来た」
「もう本人に連絡入れてるのかよ!」
土方が思わず突っ込むと、松平は心外だと言う様に顔を顰める。いい加減な松平なりに将軍の為に色々と手を打っているのだ。
「どーだ近藤。まぁ、アレだ。上様に気に入られるのはゆくゆく真選組には悪くないとおもうがなぁ」
その言葉に近藤は初めて顔を顰める。可愛い隊士と引き換えにするのが厭なのだろうと思った土方は、溜息を吐くと近藤の代わりに返答する事にした。
「…アイツが良いって言うなら反対はしねぇよ。けど正直あんま露骨に真選組が上様に媚を売ってるように見えるのは勘弁して欲しい。確かに上様の覚えがめでてぇのは悪くないかもしれねぇが、仲間売ってまでってのは士道に反する」
今や天人に権力を握られてお飾りの将軍ではあるが、それに擦り寄る輩もまだいる。その連中に睨まれるも不本意であるし、真選組が隊士を使って篭絡したなどといわれるのも不快であると土方は念を押したのだ。
「土方、オメェの心配は解る。上様も気にしてたしな。でもよぉ、ささやかな願いぐらい叶えてやりたいじゃねーか」
時代が時代ならば全ての侍の頂点に立つ将軍は全てを手に入れ、望むままに生きられたであろう。しかし今はお飾りの将軍として窮屈なだけの生活を強いられている。自分で彼の親代わりだと思っている松平はそんな将軍に対し同情し、そして願いを叶えてやろうと思ったのだろう。
「オメェはどうだ近藤」
念を押すように松平が確認したので近藤は視線を彷徨わせた。その反応に土方は少し驚いた様な顔をする。自分がそれ相応に松平に釘を刺したので、近藤はあっさりと頷くと思ったのだ。
「近藤、心配すんな。ちょっとお礼がしてぇって言ってるだけだよ上様は」
「…解りました。とっつあんに任せます」
近藤の言葉に松平は安心したような顔をすると別の話題を振ってきた。彼女へのお返しの件である。
「で、お嬢ちゃん欲しがってるものとかねぇか?おじさんと上様がなーんでも買ってやるんだがよ」
その言葉に近藤と土方は顔を見合わせると口をそろえて言った。
「通販でやってた飛行船から犬まで洗える環境に優しい洗剤」
「はぁ?」
二人して大真面目にそう返答したので松平は思わず間抜けな声を上げる。恐らくキャバ嬢へのプレゼントの様にブランド物等の返答を期待していたのだろう。
「アイツこの前その通販に釘付けだったからなぁ」
ぷかりと煙を吐き出した土方に松平は心底呆れたような顔をする。
「洗剤ってのはぱっとしねぇな。つーか、あの子外見も地味だが中身も地味なんだなぁ」
「ほっといてやれよ。高価なもんは逆に喜ばねぇよ多分。桜の柄とか好きみてーだからそんなんにしとけば良いんじゃねーの」
「桜なぁ。まぁ適当に見繕うわ」
そういった松平に近藤が少し困った様な顔をしながら言葉を添えた。
「簪は…多分受け取らないと思うんだが」
「簪?」
「桜の簪」
近藤の言葉に松平は怪訝そうな顔をしたが、土方は驚いた様子で近藤の顔を凝視した。この前彼女の部屋にトッシーの所為で行く羽目になった時に見た簪も桜をあしらったものだったのだ。煙草の煙を吐き出した土方は思わず、何で…と言葉を零す。
すると近藤は更に困った様な顔をして土方の方を見た。
「…何となく。桜の簪は駄目だと思う」
理由にはなっていない。土方は更に言葉を続けようとしたが松平によってそれは遮られる。恐らく用事が終わったので帰ろうとしたのだろう。
「まぁ、桜の簪は外すように言っとくわ。そんじゃ、また細かい打ち合わせは警護の面子決まってからと言う事でかまわねぇな」
そういわれ近藤と土方は頷くと手を振り部屋を出て行く松平を見送った。
ちらりと土方が近藤の表情を伺う。リンドウを貸し出すのを渋ったことといい、簪といい少し様子がおかしいと思ったのだ。無論、近藤の性格上仲間を餌に真選組の名を上げることに対して抵抗感を持っているのも理解できるが、松平が彼女を将軍に売ろうなど微塵も考えていない事ぐらい解るであろう。それなのにすっきりしない顔のまま、近藤は松平を見送ったのだ。
「…近藤さん」
「なんだ?」
「アイツの家に言った事ある?」
土方の言葉に近藤は驚いた様な顔をしたが直ぐに首を振る。質問の意図が解らなかったのだろう。どうして?と言いたげな顔をしていたが土方は少しだけ困った様な顔をして笑った。
「いや、大した事じゃねーんだよ」
では何故桜の簪の事を知っているのだろうと思ったが、もしかしたら何か近藤は個人的に彼女から簪の話を聞いているのかもしれないと思った土方は、結局そこで話を終えることにした。彼女は自分には詳しい事は何も話さなかった。だったらそれでいいと。
その様子をみて近藤は更に不思議そうな顔をしたが、土方が口を噤んだので突っ込むことはせずに立ち上がり背伸びをする。
「まぁ、あれだ。上様の花見が終わったら俺達の花見の段取りも考えなきゃなぁ」
「そーだな。また山崎辺りに場所取りさせるか。今年は万事屋とバッティングしねーと良いんだが」
煙を不機嫌そうに吐き出した土方に近藤少しだけ笑った。
「例え天人の齎した偽りの平和だといわれても、その世界に住む人々がいるのなら我々真選組はそれを守るのが誇りであり仕事なのです。この城も、上様も、真選組がお守りします」
将軍はリンドウの言葉に少しだけ嬉しそうに笑った。張りぼての城だと言うことも、お飾りの将軍だと言うことも自覚していた。それでも彼女は…真選組は守るといってくれたのだ。
「…そちは何故真選組に入ったのだ」
「人から見ればつまらない理由です」
瞳を細めた彼女は緩やかに青空を見上げると淡く微笑んだ。
「厭でなければ理由を聞かせて欲しい」
「…はい」
厭な顔一つせずそう返答した彼女に少し安心すると、将軍は彼女の隣に並んで話を聞くことにした。興味があったのだ。武装警察という所に彼女が進んで身を置いている理由に。そして彼女が何故真選組をそんなに大切に思っているのかに。
それはリンドウがまだずっと子供だった頃の話。
攘夷戦争の煽りを食って両親はこの世を去り、兄は親戚に引き取られたが彼女は親の縁故を頼って奉公に出ていた。
資産家だった両親の遺産は全て兄と一緒に親戚に引き上げられ、彼女には何も残らなかったのだ。食べて行く為に頭を下げ仕事を探した。十歳やそこらの子供を雇う事に奉公先は初めは渋い顔をしたが、彼女の両親に恩があった上、兄に全てを持って行かれてしまった彼女への同情もあっただろう、とりあえず下働きとして働く事となった。
生来の真面目な性格が幸いして仕事をしっかりこなす彼女は、仕事場では随分可愛がられたし馴染むのも比較的早かった。
そんな中リンドウの仕える家の分家筋にあたる当主が彼女に自分の娘の世話役を暫く頼めないかと持ち掛けて来た。無論リンドウにその決定権は無く、主人同士の話し合いになる訳だが、分家当主が言うには気難しい娘で世話人を探すのに苦労している事、現在の世話人が怪我の為数か月療養しなければならない事等を説明され、今のリンドウの主人は渋々期間限定で彼女を手伝いに出す事を承知した。彼女の両親に恩があった主人は余り彼女に苦労をかけたく無かったのだろうが、頭を下げ続ける分家当主に対し結局折れた形になる。
数か月の出向奉公を頼まれたリンドウは表情一つ変えずに諒解をし、分家当主に連れられ今の職場を後にした。己の意思でどうにもならないのを理解しての事だろう彼女は半ば諦めた様な溜め息を一つだけ零した。
初めての土地に戸惑う事もあったが、職場では快く迎えられ可愛がられた。しかし気難しいお嬢様の世話には随分と苦労させられ、世話係が怪我をして休養を取っているのもお嬢様の所為だと聞いて、更にリンドウは溜息をつくしかなかったのも事実である。
しかし行く所がない。
彼女はお嬢様の我侭に付き合い、何とかなだめすかして仕事をこなしていたが、それはある時突然破綻をきたした。
「…煩いわね!」
お嬢様が癇癪を起したように声を上げ、それに驚いたリンドウが身を竦ませた時にはもう手遅れであった。お嬢様の手に握られたリンドウの簪は、あっという間に橋の下の川に放り投げられてしまったのだ。
「…」
呆然とそれを眺めたリンドウは唇をかみ締めてお嬢様の方に向き直る。あの簪は両親が残してくれた数少ない形見であったのだ。今まで反抗らしい反抗をしなかったリンドウに睨まれたのに驚いたお嬢様は一瞬怯むが更に言葉を放つ。
「…そんなに大切なモノなら拾いに行けばいいじゃない」
まだ3月に入ったばかりで水は冷たい。それを知っていて彼女はリンドウにそんな言葉を投げかけたのだ。するとリンドウは身を翻すとその場から駆け出し、驚いた事にざぶざぶと着物のまま川に入ったのだ。
「…莫迦じゃないの。あんな簪ぐらいで」
橋の上からそんな声が聞こえたが、リンドウは無視して黙々と川に落ちた簪を探し始めた。
どれ位水に浸かっていただろう。手も足も感覚がなくなってくるのを感じながら、リンドウはそこで漸く理不尽さに怒りを覚えた。一方的に奪われてばかりで、どうして自分がこんな目に遭わねばならないのだろうと突然思い至ったのだ。
攘夷戦争に巻き込まれ両親は死に、兄と親戚に全てをもっていかれ、我侭なお嬢様に大切な形見まで捨てられる。
──こんな世界なくなってしまえばいい。
──こんな自分はいなくなればいい。
──全てなくなってしまえ。
彼女は思わず水面を睨んで唇をかみ締めた。
「何を探してるの?」
突然声をかけられリンドウは暗い思考から急激に引き戻され我に返る。見上げると、橋の上に大柄な男が提灯を持って立っていた。いつの間にか辺りは薄暗くなっており、男の持つ提灯がリンドウの周りを明るく照らしてくれている。
「…簪…」
「川に落としたの?」
小さく頷いたリンドウを見て男が走り出し、提灯を持ったまま川に入ってきたので、リンドウは驚いた様に男を見上げた。顔つきは厳つい感じの男であったが、どこか愛嬌のある…犬で言えばハスキーに良く似ているとぼんやりと思った。
「どんな簪?」
「桜の…」
「そっか、そんじゃこの提灯持って水照らして」
「あの!いいです!一人で探しますから!」
慌ててリンドウが言うと男は笑い彼女の小さな手を取った。冷たい小さな手をその大きな手で包むと、手伝うよと言い彼女に提灯を握らせる。
「困ったときはお互い様っていうだろ?子供が一人でいるのも危ないしね」
そう言うと男はリンドウの頭を大きな手で撫でる。その拍子にリンドウは泣き出した。
「ええ!?何で!?」
突然の事に男は驚き、慌てて身を屈めると彼女の顔を覗き込む。するとリンドウはポロポロ泣きながら、有難うございますと何度も繰り返した。何もかも厭になってい時に現れたこの男の優しさが嬉しかったのだ。寒い時期に川に浸かる子供など放っておけば良いのに、この男は自分も一緒に探すと言ってくれた。
「泣かないで。うーん、困ったなぁ。とりあえず簪探そうか。大事なものなんだろ?」
「両親の…形見なんです。お嬢様に捨てられてしまって…」
「そっか。頑張って探すから」
子供の様に笑った男を見てリンドウは漸く微笑んだ。
随分探したが簪は見つからず、リンドウもいい加減この優しい人を付き合わせるのが申し訳なくなり、何度ももう良いと言ったのだが男は笑うだけであった。
「…どうして…見ず知らずの私を助けてくれるんですか?」
「侍は女子供や弱い人間を助けるんだよ。まぁ、俺は正式な侍じゃないけどね」
「私にとっては…侍です」
「そう言って貰えると嬉しいよ」
本当に嬉しそうに男が笑ったのでリンドウは瞳を細めた。とても優しい人。立派な侍だと思ったのだ。
「しっかし見つからんなぁ。君寒いだろ?岸で待っててもいいよ」
「いえ、一緒に探します」
「何してんだよアンタ。帰ってこないと思ったら」
そんな会話をしていると岸から声がかかったので、リンドウは驚いてそちらに視線を向けた。提灯を持った髪の長い少年がそこには立っており、呆れた様にこちらに視線を送っていた。
「おー。この子の簪探してるんだが見つからなくて」
「簪?橋から落としたのか?」
その言葉にリンドウと近藤が頷くと、少年は肩を竦め水の中に入ってくる。
「もう少し下流探せよ。本当莫迦だなアンタ。幾ら浅い川でも流れがあんだから多少流されてるんじゃねーの?」
そう言うと二人から少し離れた下流に立つ。二人がざぶざぶとそちらに向かうと、少年は提灯をリンドウに渡し川に手を突っ込んだ。彼も一緒に探してくれるという事に気がついたリンドウは、慌てて断ろうとしたが彼は瞳を細めて、早く見つけて帰ると短く言っただけであった。
「ごめんなさい」
「何で謝るんだよ」
不機嫌そうに少年が言うとリンドウはしょんぼりと俯いた。優しい人たちに迷惑をかけるのが厭だったのだ。しかしそれを巧く伝える事が出来ず途方に暮れた。
「あ!」
微妙な沈黙に終止符を打ったのは大柄な男の方で、突然声を上げるとざぶざぶと少年より更に少し下流に移動し川に手を突っ込んだ。
あげられた手に握られていたのは彼女が探し続けていた簪。
しかしそれを見た男は僅かに眉間に皺を寄せた。その簪が不恰好にぐにゃりと曲がっていたのだ。お嬢様が抜いた時に歪んだのか、落ちた拍子に歪んだのか。
それを見たリンドウは暫し呆然としていたが、声を絞り出すと頭を下げた。
「有難うございました」
「…使えねーなこりゃ」
「良いんです。使えなくても…手元に戻ってきただけで」
すると、突然男はその簪の端を持って力任せにその歪みを直した。
「!!莫迦だろアンタ!折れちまったらどーすんだよ!」
「いや、でも歪んだだけだし直るかなーって」
「ふつーは修理屋持ってくとか考えねーか!?」
仰天した少年は、男に莫迦だ莫迦だと連発し呆れた様に簪を眺める。一応真っ直ぐにはなったが若干歪んでいる。使えない事はないだろうが修理屋に持っていた方がよっぽど綺麗に直してくれるだろう。
「後で修理屋とか持ってけば綺麗になるかも知れないけど、一応その…」
散々少年に責められたので、自分がした事にまずい事があったのだろうかと思った男は、申し訳なさそうな顔をしてリンドウに簪を握らせた。するとリンドウはそれを握り締めて泣き出した。
「ほら、どーすんだよ。泣いちまった」
「ごめんね。えっと余計な事して。あーどうしよう」
「いえ。違うんです…いっぱい助けてくれて有難うございました。嬉しいです」
初めて心底笑えたような気がした。一生懸命な二人に申し訳ないと思ったが、それ以上に嬉しかった。柔らかく笑った彼女の頭を撫でると、少年に提灯を二つとも持たせ男はリンドウを軽々と抱き上げた。
「あのね。辛い事や悲しい事があったら泣いて良いんだよ。でも俺は君の笑い顔が可愛いと思うから、泣いてすっきりしたら笑ってもらえると嬉しい」
男がそう言うとリンドウは男にしがみ付きポロポロと泣き出す。川で一人ぼっちで簪を探していた彼女は泣いていなかった。何かを我慢するように水面を睨み付けた彼女の姿が痛々しくて声をかけたのだ。そして漸く笑ってくれた事が男は嬉しかったが、彼女はこれからもきっと悲しい事や辛い事をじっと我慢するのだろうと思うと、そう声をかけずにはいられなかった。
「とりあえず川からあがろーぜ。寒ぃ」
「すまなんだ。つき合わせて」
「別に構わねぇよ。アンタのお人よしにつき合わされんのはいつものことだし」
少年は憮然とそう言うと先に川に上がり、急いで土手を走り回って焚き木になりそうな小枝を拾い集める。幸い火種はあるし、余り丁寧に手入れをされていない土手には燃えそうなものが転がっている。
男がリンドウを抱えて川から上がる頃にはある程度の小枝が組まれており少年は提灯から火を移す。
火が上がると少年は冷たくなった手をその火に翳し、ちらりとリンドウに視線を送る。泣き止んでいる様だが男から離れようとはしなかった。
「…しっかし簪を川に落とすなんてドン臭せーな」
「お嬢様に捨てられたんだって」
「そりゃ災難だ」
そう言われ少年は呆れた様に瞳を細めた。我侭なお嬢さんがいることは噂には聞いていたが、こんなに小さい子供に対して無茶をすると思ったのだ。きっと今後も彼女は苦労するだろうとも。
「大丈夫?少し火に当たった方が良いよ」
抱き上げたリンドウに男が言うと、彼女が小さく頷いたので降ろしてやろうとしたが、突然後ろから声をかけられたれたので彼女を抱いたままそちらを向く。
「ハルちゃん!」
それは彼女が勤める家の女中であった。いつまでたっても帰ってこないリンドウを心配して探しに来たのだ。お嬢様に彼女の居場所を聞いたが、川においてきたの一点張りで話にならなかったのであちこち探し回ったようだ。
「勤め先の人?」
男の言葉にリンドウは頷くと地面に降ろしてもらう。
「あの…」
不振そうな視線を男達に向けた女中に、リンドウは慌てて事情を話す。すると女中は表情を柔らかくし、丁寧にお辞儀をして礼を述べた。
「お礼は改めてさせて頂いて宜しいですか?」
「いやいやお礼なんて。こっちが勝手に手伝ったんですから。その…見つかって良かったです簪」
リンドウがぎゅっと握り締めている簪を見て、男は屈託なく笑うとまた彼女の頭を撫でた。
「ありがとうございました、お侍さん」
「うん。風邪引かないようにあったかくするんだよ。またね」
小さく頷いたリンドウは女中に手を引かれその場を後にする。簪のことは悲しかったが、彼等に会えたことはとても嬉しかった。そして彼等に会えたからまた頑張ろうとも思ったのだ。
「私は…侍が好きなんです。あの人達に会わなければ、今の私はなかったかもしれません」
優しくありたいと思ったのだ。全てを諦めて、絶望しそうだった自分にとってあの人達は新しい道標になった。リンドウはそう思いながら瞳を細めて将軍に笑いかける。
「その後、私は直ぐに元の仕事場に戻ってしまったんです。川での一件が本家の当主に知れて…。だからお礼も言えずに…それだけが心残りでした」
元々、長く縁故で世話になるのも申し訳ないと思っていたリンドウは、ある程度の年齢になると職場をやめて、暫くは地方をまわり職を転々としていたが、最終的に江戸へ至った。彼等を改めて訪ねた時に江戸に出てしまったと聞いたからだ。江戸でまた会えるかもしれない。そんな淡い期待があった。
「もう…小さな子供の事など、忘れてしまっているかもしれませんけれど…」
「覚えていたぞ、近藤は」
将軍の言葉にリンドウは驚いた様に顔を上げた。すると将軍は懐から小さな箱を取り出しそれをあける。そこに入っていたのは小さなトンボ玉の付いた簪であった。
「桜の簪は駄目だと近藤が言っていたので違うモノにした。菓子の礼だ、受け取って欲しい」
「…ありがとうございます」
その箱を受け取るとリンドウは微笑む。
「近藤の為に真選組に入ったのだな」
将軍の質問にリンドウは淡く微笑んだだけだったが、答えはそれで十分であった。
「本当は怖かったんです。随分偉くなっていらっしゃって…その…いい思い出のまましまっておいた方が良いんじゃないかと考えた事もありました」
江戸でまさか不良警察と呼ばれる真選組になっているとは夢にも思わなかった。評判が非常に悪い事も気になったし、何より偉くなった人間が別人の様になってしまう事を今まで何度も見てきたリンドウは不安であった。
「けれど…何も変ってらっしゃらなくて…嬉しかったです。優しいままで。大らかなままで。今更お礼というのも格好悪いので、少しでも恩返しできればと…思ったんです」
真選組の隊士募集の張り紙を見たリンドウは散々悩んで結局申し込みをした。隊士になれば話が出来ると思ったのだ。そして無事に受かって、あの時と変らない近藤を見て、少しでも恩返しが出来ればと真選組を続ける事を決めた。公務員なら食べるに困らないと思って真選組に志願したと言うのも本当。しかし、一番の理由は近藤への恩返し。これは今まで誰にも言っていない理由であった。
「誇りだ仕事だと偉そうな建前並べましたが、単なる自己満足なんです。近藤局長が好きなものを守りたい…それだけなんです」
将軍はリンドウの表情を見て瞳を細めた。彼女がどれだけ近藤が好きで、真選組を大切に思っているかよく解った。理不尽だと嘆くより、仕方がないと諦めるより、近藤の様に優しくありたいと彼女は思っているのだろう。
「今日は楽しかった。また機会があれば話をさせて貰っても構わぬか?」
「綺麗なお姉さんのいる店以外で、局長と副長の許可が下りれば」
同じ返答を返した彼女をみて将軍は満足そうに笑うと、側に控えていた城内護衛に声をかけ花見会場に戻る事にした。
会場に戻った将軍は暫くゆっくりと桜を愛でていたが、近藤と土方の姿を見つけて側に呼ぶ。
「何か御用ですか上様」
「…いや、彼女へのプレゼントのアドバイスを貰った礼を言おうと思っただけだ」
その言葉に近藤は恐縮したように頭を下げる。すると将軍は瞳を細めて近藤を眺めた。無骨で、田舎侍だと莫迦にされて、それでも真選組を守ってきた男。彼女が最も尊敬し、心を砕いている男。
「あの…」
じっと眺められ居心地が悪いのか、近藤が恐る恐る声をかけると将軍は口元を緩める。
「…余がまた彼女と話がしたいといえば貸してくれるか?」
その言葉に近藤は一瞬視線を彷徨わせたが、意を決した様に言葉を放った。
「彼女が気に入りましたか?」
「ああ」
「…正直に申し上げると、勘弁して頂きたいです」
「!」
近藤の言葉に土方は驚いた様に彼の顔を凝視した。しかし近藤はそれに気がつかないのか更に言葉を続ける。
「彼女は真選組の隊士です。上様をお慰めする為に雇っている訳ではありません」
その言葉に将軍は瞳を細めると盃の酒を飲み干す。近藤はぎゅっと握った拳に汗をかいているのを自覚しながら、将軍の言葉を黙って待つことにした。将軍に意見するなどと言う事は許されないが、一度線引きをしておかねばずるずるといってしまうと思ったのだ。
「…心配するな。彼女を手折ろうと思っている訳ではない。彼女は…真選組を取り上げれば直ぐに枯れてしまう花だからな」
将軍の言葉に近藤も土方も驚いた様な顔をする。
「たまに気晴らしに話が出来るだけでいい。他には何も望まない。彼女が困るのも本位ではないから無理は言わぬようにする。だから都合をつけてもらえると嬉しい」
「上様…」
近藤が何かを言いかけたので将軍は少し困った様な顔をして更に続けた。
「近藤。そちは幸せ者だな。部下にも友にも恵まれている」
「はい」
「…今のまま優しく不器用でいろ」
「え?」
将軍の言葉に近藤が驚いた様に顔をあげたので、将軍は笑って下がってよいと短く言った。
気を使う長い護衛任務を終えた土方は、風呂から上がると自室に戻る為に廊下を歩く。すると局長室の縁側で近藤の姿を見つけ怪訝そうな顔をした。珍しく近藤が一人で酒を飲んでいたのだ。酒を好むが大勢で賑やかに飲む事が多い近藤が、こんな夜更けに一人で酒を飲んでる姿を見るのが珍しかったのだ。
「寒ぃだろうよ」
「ああ、寒いな。どうだトシも」
そういわれ土方は苦笑すると隣に座る。渡されたコップになみなみと酒を注がれ、土方はそれに口をつけると庭に視線を送る。まだ庭の桜は咲いておらず寒々しい雰囲気だが、後一月もすれば春らしい光景が見れるだろう。
「…これ位の時期に川に入ったの覚えてる?武州でだけどさ」
近藤がぼそりと呟いたので土方は顔を顰め記憶を手繰り寄せた。近藤と莫迦ばかりしていた武州時代。この頃の川といえばまだ水も冷たかろうと思いながら土方は瞳を細めた。
「俺が翌日風邪引いた様な気がする。ああ、そうか、川でアンタが子供と簪を探してたんだ」
晩飯の時間になっても帰ってこない近藤を探しに外に出て、その光景に出くわした事を土方は思い出す。冷たい水に浸かって簪を探していた近藤と、自分より少し年下であろう子供。
そこで土方はぷっと噴出した。
「そーだよ。アンタ折角見つけた簪が曲がってたから無理矢理戻したんだ。そんでガキが泣き出して…」
そこまで口に出して急激にずっと心に引っかかっていた何かがカチリと組み合った様な気がした。歪な簪。小さな子供。そして、寂しそうなリンドウの顔。
「…アンタはアイツだって知ってたのか」
「ああ」
近藤が少し笑ったのを見て土方は瞳を細めた。自分が記憶の遥か彼方に追いやった瑣末な思い出。それを近藤は覚えていたのだ。
「面接で見た時は吃驚したよ。随分大きくなってたし、綺麗になってたし。ハルちゃん何も言わないから記憶違いとも思ったんだがな」
リンドウは異常に転職率が高かったので、採用の際に監察が彼女の履歴をもう一度洗いなおしたのだ。何か問題があって職を転々としているのなら雇うことができない。しかし彼女は自ら半年から1年の短期で仕事を選んでいるようであったし、職場での評判も全てにおいて良かった。仕事を続けて欲しいという職場も山ほどあったようだが、彼女は全て断って新しい仕事についていた。いまだにその理由は解らないが、少なくとも素行に問題があった訳ではないという結論に至り彼女を採用する事になった。
「山崎に採用の時に色々調べてもらってな。2ヶ月だけハルちゃん武州いたんだ」
「…俺は気がつかなかった」
会ったと言ってもほんの短い邂逅であったし、お互いに長い年月が過ぎ大人になった。近藤が彼女の事を『ハルちゃん』と子供の様に呼ぶのは、あの時の印象が近藤の中で強い所為なのかもしれないと土方はぼんやりと考える。
「もしもさ。上様がハルちゃんを望んだから、あの時みたいにハルちゃんが色々無理して我慢するんだろうなぁと思ったらやるせなくてさ。泣いて厭だなんてきっと言わずに、黙って従うんだろうなって。そう考えたら…とっつあんの話に笑ってうんっていえなかった」
近藤の記憶に残るあの子供は、全てを諦めて、絶望して、泣く事さえ我慢しているようだった。再会した子供は大きくなって、綺麗になってよく笑ってくれたので凄く嬉しかったが、いまだに時折あの頃の残像がちらつく。
「アイツもいつまでも子供じゃねーだろ。厭なら巧くかわすさ。仮にも監察で仕事してんだぜ」
「そーなんだろうけどなぁ。心配しすぎだよな。お父さんな気分だよ」
土方の言葉に苦笑しながら近藤が答えたので思わず呆れたような顔をする。
「ハルちゃんは俺の事なんて忘れてるだろうけどね。少しはあの時より幸せでいてくれてるなら嬉しい」
「…覚えてるよ。アイツはアンタの事」
「え?」
「後生大事に持ってたぜ桜の簪」
「…親の形見だからね」
──…思い出の簪なんです。もう…忘れられてるとは思うんですけどね…多分。
アレは両親の形見だから手元に置いているのではないと漸く土方は理解した。アレは近藤の事を覚えているという事だ。だから自分がどこかで見た覚えがあるような気がするといった時に彼女は嬉しそうに笑ったのだと。
「アンタとの思い出の簪だからだ」
土方の言葉に近藤は驚いた様な顔をする。すると土方はコップの酒を舐めながら更に言葉を続けた。
「今もアンタが無理矢理直したまま歪んでたよ」
「…覚えてるのかな」
「ああ。絶対に」
その言葉に近藤は嬉しそうに笑うと、そうかーと更に酒を注ぎ足し満足そうにする。彼女が自分の事を覚えてなくても良いと思いながらも、覚えてくれていたらそれはそれで矢張り嬉しいと思ったのだ。
「そういえばトシはハルちゃんにホワイトデーは何贈るの?総悟はエプロンで山崎は化粧品だって言ってたけど」
「…洗剤」
その返答に近藤は笑うと、俺もなんだよなぁと言う。すると土方は困った様な情けないような顔をして、まぁ、消耗品だしなと呟いた。彼女は幾つ貰っても大喜びであろう。
「張り切ってあちこち掃除するんだろうねハルちゃん」
「そーだな」
喜んで、張り切って掃除をして、ニコニコ笑うのだろう。そう考えると自然に土方は表情が緩んだ。彼女にいつも笑ってて欲しいのは近藤だけでなく自分もだと。
「…もう直ぐ春だな。アイツの好きな桜が咲く」
「俺等の花見楽しみだなぁ。ハルちゃんも喜んでくれるかな」
彼女の中で冷たい水に浸かった暗い冬の思い出は、いつか柔らかな春の思い出に繋がるのだろうか。幸せな思い出を沢山一緒に作れれば彼女はずっと笑っていてくれるだろうか。そんな事を考えながら近藤は春を待つ庭を眺めて瞳を細めた。
初ヒロイン過去話メイン。心底惚れこんでますね(笑)
そして洗剤を近藤も土方も送ってしまう辺りアレですね…
200903 ハスマキ