*愛してる・後編*

 夢を見た。幼い自分が泣いている夢だった。目覚めた瞬間、どうして自分が【嘘つき】なのかを理解して思わず笑いが込みあげた。
──愛してる。
 その言葉に嘘は無かった。けれど自分はずっと【嘘つき】だった。忘れてしまった約束。忘れてしまいたかった約束。
──嘘つき。
 彼女は約束を忘れた事を責めはしなかった。ただ、悲しそうにそう言葉を放つだけで、今も檻の中で静かに月を見上げていた。

 

 天人の土地に踏み込むことは非常に難しい。けれど、山崎が監察を使ってとある天人が攘夷浪士を匿っている証拠を掴んだのは、執念以外の何者でもないであろう。江戸に点在する天人の別荘が少なかったのも幸いしたが、上に文句を言われない程度に証拠を揃えるだけで一苦労だったのは言うまでもない。逃げられる恐れもあるので限られた時間の中、土方と山崎は証拠をかき集め、それを警察長官である松平へ提出した。通常の御用改めであれば、近藤と土方の権限で行うことが出来るが、今回に限っては相手は天人である。幕府への根回しが一番重要だと土方も考えたのであろう。
「……よくもまぁ、ここまでやったもんだ」
 朝一番に屯所に来た松平は、隣に近藤、正面に土方を置いて煙草をふかしながら資料の入った封筒を置いた。近藤も資料には目を通していたが、確かに鬼兵隊の幹部クラスも匿われている証拠まで集められた資料は驚くものがあった。
「幕府への根回しを頼みてぇ」
「天人の土地ってのが厄介だがなぁ。土方てめぇ、スカったら腹詰めるだけじゃすまねぇぞ」
 もしも攘夷浪士を捕縛できなければ責任問題となる。土方どころか、近藤、松平まで及ぶかも知れない。だからこそ土方は事前にこうやって話し合いの場を設けて貰ったのだ。
「とっつあん。何とかならないかなぁ?その、トシも監察もここまで頑張ってるし……ここまで証拠があれば、スカるって事もないと思うし」
 遠慮がちに口を開いた近藤を見て、松平は僅かに眉を上げ、土方に視線を送った。疲労の色は見て取れるが、目は死んでいない。
「年末辺りから鬼兵隊狙い撃ちだな土方よぅ」
 松平の言葉に僅かに土方が反応を見せた。しかし言葉を発する迄は至らず、沈黙が部屋に降りる。松平は煙草の煙を細く吐き出し、口元を歪めた。
「……天人の土地に踏み入る根回しすんのはおじさんだ。気分良く仕事させてくれよ」
「私怨だ」
 漸く口を開いた土方に、近藤は驚いたような表情を作ったが、松平は愉快そうに瞳を細めた。鬼に副長と呼ばれ、近藤と、真選組の為に刀を振るい続けた男の口から出る言葉としては予想外で可笑しかったのだ。
「……お伽話で、人を助けた英雄が、その後人知れずどこかに行っちまうってあるだろ?」
 何の前触れもなく土方が放った言葉に、近藤は困惑したが黙って話を聞くことにする。
「めでたし、めでたし。ってな。でも、俺は侍で、刀持って、権力持って、人を守る側だった筈だ。なのに、別の誰かに救われて、のうのうと手前ェだけ生き長らえるのは我慢ならねぇ」
 黙って聞いていた松平は、煙草の煙を吐き出すと重々しく口を開いた。
「土方。てめぇを守った英雄とやらは誰だ?」
「御伽話史上最悪の悪女だよ」
 その言葉に近藤はぽかんとしたが、松平は笑い出した。そして、土方が指している女が誰か理解したのだ。三味線の名妓と歌われた迦具夜姫。一度だけ将軍の座敷に上げたことのある女。土方と知己だと言う事は松平も承知していたが、まさか怒涛の鬼兵隊狩りに関係しているとは思わなかったのだ。
「……迦具夜姫の事詳しく話せ。素性も、何で鬼兵隊を探すのがそいつに繋がるのかもな。話はそれからだ」
 松平の言葉に、土方は素直に応じる事にした。こうやって彼女の事を誰かに話すことはそういえば殆ど無かったと思いながら、土方は知っている限りのことを松平に説明する。一方松平は、近藤の反応を見ながら、呆れたような顔をした。一番の親友である筈の近藤も余り詳しくは知らなかったようで、殆ど迦具夜姫の話には土方と、高杉と、山崎しか出てこない。
「今は攘夷活動はしてねぇんだな」
「山崎以外の監察にも一応調べさせた」
 全て話し終えた土方に松平が短く聞くと、彼はそう言って頷いた。きわどい、そう松平が思ったのも仕方が無いだろう。元攘夷志士であるのが矢張り厄介だと。無論、廃刀令以後活動をしなければ取締の対象ではないのだが、鬼兵隊に身を置いている以上、直接的な活動がないにせよ鬼兵隊の面子に数えるのが本来の所であろう。もしも高杉が攘夷活動をしていると知らないで身を寄せているのなら話は別であるが。
「なぁ土方。事情は良く解ったけどなぁ。面倒臭ェ女だとは思わなかったか?手前ェが騙されてるって可能性もゼロじゃねぇ」
 松平の言葉に土方は不思議と笑えて、その日初めて口元を緩めた。
「面倒臭ェ女だよ。騙されたんだったら、俺の自業自得だ」
「惚れてんのか?」
「……アイツと所帯持ちてぇとかそんなん甘い夢見てる訳じゃねぇよ。ただ……アイツが俺のせいで檻に戻ったのは我慢ならねぇ」
 土方の言葉に松平は口元を歪めて、煙草をもみ消した。
「女ってのは強ェぞ土方。今頃高杉と宜しくやってるかもしれねぇ」
 その言葉にぎょっとしたのは近藤の方で、土方は可笑しそうに笑った。
「だったら尚更、高杉ごと俺が斬るべきだとは思わねぇか。俺の未練の為にも、アイツの為にも」
 あぁそうだ、どちらにしろ決着はつけるべきだと、土方は思い瞳を細めて笑った。

 

 その日の夕刻。中庭に集められた隊士達は、珍しく松平が御用改めの陣頭指揮を取るということで緊張した空気に包まれた。
「今回は天人の土地に踏み込む。幕府の方には一応根回しはしておいたが、スカった場合は近藤が腹を詰めることになる。褌しめてかかれよ」
「ちょ!とっつあん!俺が丸かぶり!?」
 松平の言葉に思わず近藤が悲壮な声を上げたので、隊士達は思わず込みあがった笑いを必死で堪える。緊張を解すには十分だったと判断した松平は、小さく笑うと、再度声を上げた。
「なお、屋敷には天人や使用人なんかもいる。攘夷浪士以外の人間に怪我させたら面倒だから一応注意しろ。もしも一般人盾にするカスみてぇな浪士に当たった場合は自己判断とする。まぁ、大掛かりな捕物じゃ事故も付き物だ。後始末は近藤がやってくれるから心配はするんじゃねぇ」
「また俺だし!」
 つまり出来る限り配慮しろということであると判断した隊士達は、悲壮な声を上げる近藤とは逆に、はい!と景気よく返事をした。それを満足そうに見渡すと、松平は声を張り上げ、各自所定の位置へ付け!と言葉を放った。
 散り散りになる隊士達の中、土方は己の刀に手を置き空を仰いだ。
 満月。
 思わず土方は咽喉で笑い言葉を零した。
「逃げんなよ、迦具夜姫」

 江戸の僻地にある天人の別荘に辿りつく頃には日も暮れ、配置についた隊士達は緊張した面持ちで目の前にある建物を見上げた。張り付いていた監察の報告では、人の出入りは夕刻にあった持ち主の帰宅以外にない。報告通り、敷地内には攘夷浪士と思われる刀を持った人間が定期的に巡回しており、取り敢えず彼等を捕縛してから踏み込む手筈となっていた。
「……地下に武器庫らしき物があります。そちらも抑えますか?」
「あぁ。そっちは手前ェが誘導しろ」
 山崎の言葉に土方は小さく頷いて言葉を放った。既に疲労も限界だった山崎を連れてくるのは気が進まなかったが、頑として居残りを受け入れなかったのだ。
 時計に視線を落とした土方が僅かに瞳を細める。踏み込み予定の時間まで後五分少々であるのを確認し、再度辺りを見回した。
「先生のいる部屋までは結局調べが付きませんでした」
「構わねぇ。大体予想はつく」
 申し訳なさそうに山崎にちらりと視線を送ると、土方は憮然とそう言った。武器庫が地下だと言う事は、攘夷浪士たちもほぼそこに固まってはいるのだろうが、彼女が地下にいるというのはないと思ったのだ。
──月ばっかり眺めてる。
 全蔵は確かにそう言った。ならばこの森に覆われた中に建つ建物の中で、月を眺めるのに障害物のない場所であろう。
「時間です」
 山崎の言葉に土方は瞳を細めると、地面を蹴り走りだした。
「御用改めである!」
 近藤の声が建物内に響き、女中は悲鳴を上げた。それと同時に、刀を持った攘夷浪士と斬り合いになる隊士達。取り敢えずスカであることはまぬがれた事にほっとした近藤は、表情を引き締めて、天人や使用人の誘導を隊士に指示する。それに攘夷浪士が紛れるのを恐れ、敷地の外には出さないが、部屋の一角へ一時的に移動するのだ。
 その横をすり抜けた土方は、一目散に階段を駆け上がった。

 

 三味線を弾いていた高杉の手が止まり、窓から月を眺めていたカグヤが怪訝そうな顔をした。
「……いつも一歩遅ェ癖にな」
「どうしたのさ」
 呟いた高杉の言葉の意図を汲めなかったカグヤが首を傾げると、高杉は咽喉で笑った。
「俺はテメェの事愛してる」
「嘘つき」
 高杉の言葉に反射のようにカグヤは返答すると、視線を月から、建物の回りに広がる森へ漸く移した。気のせいか騒がしい。窓は開けることが出来ないので確認は出来ないが、いつもは静かな土地であるのに、どこか緊張した空気が伝わってきたカグヤは、何かあったの?と高杉に聞いた。
「……なぁ、カグヤ。俺の事殺したいって思ったことはねぇか?」
「なんでそうなるのさ。そんな事考えたことないわよ」
 話題を露骨にすり替えた高杉に、カグヤは呆れたような表情を見せると、きっぱりと言い切る。実際問題、殺そうと思えばお抱えの御庭番衆を使えばいつでも出来た。けれど彼女はそれをしなかった。その時点で聞くまでもないのだが、高杉は彼女の口からその言葉を聞くと、満足そうに笑った。
「俺はな、どんな形でもテメェと繋がっていたかった。恨まれても、憎まれても良かったんだ。多分な」
「……晋兄って昔から頭悪いわよね」
 カグヤの言葉に、高杉は思わず笑った。あぁそうだ、昔からきっと莫迦だったんだ、と零すと三味線を置き立ち上がる。
「晋兄?」
「ここで大人しくしてろよ。もうじきテメェの守りたかった可愛いヒロインが来る」
 高杉の言葉にカグヤは僅かに瞳を伏せた。その様子を見て、高杉は口端を歪めた。どうしてこの女はこんなに不器用なのだろうかと高杉は思う。一番最初に檻を出た時は、内に内に篭っていった俺の為に檻を出たのだろう。そして、今回は別の誰かの為にまた檻に戻ってきた女。そんな女がどうしようもなく好きで、だからこそ自分の手で幸せにしようと思ったのにと。
「いい加減ヒーローの看板降ろせよ」
 そう言うと、高杉は扉に向かい歩き出す。
「晋兄!」
 慌ててカグヤが後を追うが、高杉はするりとかわすと、瞳を細めて笑い扉を閉めた。
「開けなさい!晋兄!」
 施錠された扉を叩き、カグヤが声を上げるのを聞きながら、高杉は卓に置いていた煙管に火を入れる。窓から見える満月。
「だから満月はキレェなんだよ」
 細く煙を吐き出しながらそう高杉は呟くと、腰の刀に手を置いた。扉の外が騒がしくなったのを確認した高杉は、煙管の火を落とすと、瞳を細めて己が憎悪し続けた男の姿を待つ。
「高杉ィィィィ!」
 勢い良く開けられた扉。それと同時に、カグヤを閉じ込めた扉を叩く音が消えて、高杉は満足そうに笑う。ここに辿りつくまでに何人かと斬り合いになったのであろう、土方は所々傷を負ってはいたが、刀を構えて口端を歪める。
「見つけたぜ」
「……テメェにしては早かったな」
 咽喉で笑った高杉を見て、土方は不快そうに眉を歪めると、部屋の奥にある扉に視線を送る。
「三味線屋もそこだな。逃げんなよ!手前ェにも言いてぇ事があんだからな!」
 扉の向こうで土方の声を聞いたカグヤは、思わず両手を扉に付くと俯き唇を噛み締めた。どうしようもない莫迦だ。何でこんな所まで来たのだと。けれど、久しぶりに聞く土方の声に己が安堵しているのを自覚した彼女は、何か言いかけ、結局黙った。
 カグヤからの反応がないのを見て、土方は思わずこみ上げる笑いを必死に堪えた。驚いているだろうか、呆れているだろうか。開口一番罵声かもしれないと思っていた土方は、彼女の反応がない方が気が楽であったのだ。自己満足と私怨。カグヤが己の決めた道を違えられないように、土方自身も己の誇りと志を折ることは出来なかった。だからこそ、こんなに回りくどい形でしか会えなかった。回りくどい方法でしか守ることが出来なかったんだからおあいこだ、そう心の中で思った土方は正面にいる高杉を見据える。
「御用改めだ。神妙にしろ」
「私怨で乗り込んできたくせによく言う」
 土方の言葉に高杉は咽喉で笑うと刀を抜いた。この男のことはどうしても気に食わなかった。御庭番衆のように忠実でなければ、愛弟子のよう全てを投げ出して喰らいつく根性もない。そう考えて、高杉は不快そうに口元を歪めた。
「カグヤを背負う根性もない癖に。テメェが一番目障りだ」
「そんな事言ってっから三味線屋に逃げられんだ」
 土方の返した言葉に僅かに高杉は眉を寄せた。それを見て、土方は口端を歪める。
「……確かに俺はアイツの事背負うなんざぁ、考えたことねぇよ。一番は近藤さんで、二番は真選組で、アイツはどうやったって三番目だ……」
 そこまで言って、土方は僅かに視線をカグヤのいるであろう扉の方へ一瞬送り息をついた。
「……俺は三味線屋を背負うのも、三味線屋に背負われるのも御免だ。それはアイツも同じだろうよ。人に手前ェ背負って貰うのが我慢ならねぇ性質だ。だからな、俺はアイツと肩並べて歩くって決めたんだ。お互いにケツ叩いて、ブレーキ踏んで、文句言いながら歩いて行くってなぁ!」
 そう言い放ち、土方は床を蹴ると勢い良く刀を抜いた。同じように刀を抜いた高杉は、ほんの僅かに瞳を細めて口端を歪める。
「だから三味線屋は返してもらう!高杉の檻でひっそり死ぬぐらいだったら、俺が殺してやらぁ!」
 どん、とカグヤは思わず開かない扉を大きく叩き肩を震わせた。深呼吸を一つして、それでも揺れる己の気持ちを抑えようと拳を握る。ちらつくのは己の小飼である全蔵が放った言葉と、最後に見た映画のワンシーン。

―──―You'll take the "lead" in each "trip" we take,
Then if I don't do well
I will permit you to use the brake,
My beautiful Daisy Bell!

 まだ駄目だ。そう思ってカグヤは首を振る。歪んだ高杉を置いては行けない。今置いていけばいつか後悔する。それは己が交わした約束だと、カグヤは泣きたいのを堪えて唇を噛みしめるとズルズルとその場に座り込む。
 自縄自縛になることぐらい分かっていた。いつか選ぶ時が来ることぐらい分かっていた。

──ヒーローの看板降ろせよ。

 決して誰かの英雄になりたかった訳じゃない。約束を守りたかっただけなのだ。ただ、他愛のない日常を幸せに生きていたかっただけ、大事な人を守りたかっただけなのだと。きっと選べる選択肢は少なかったのかも知れないけど、それでも自分で考えぬいて選んで、幸せだった頃の思い出を抱えて、背筋を伸ばして生きて行きたかった。檻の中で死ぬことになってもそれは己が選んだ道なのだと。
「先生……先生……私間違ってた?また、大事な人守れないの?」
 零れた言葉は誰も拾うことはない。けれど、カグヤは座り込んだまま、また扉を一つ、叩いた。
「晋兄!ここを開けなさい!」
 扉の向こうから聞こえた声に、土方は少しだけ安心したような顔をする。矢張りそこにいたのかと。コレで隣の部屋が空だったら、赤っ恥もいい所だと思わず考えて、口元が緩んだ。それを見て、高杉は、余裕だな、と短く言葉を吐くと刀を振るった。
 何度か刀を弾かれ、土方は不快そうな顔をする。腕には自信がある方だが、矢張り高杉のほうが若干上だと認めざる負えない。山崎が言うには、腕というよりは経験値の差なのではないかと。絶対強者の天人と戦い続けた人間と、あくまで対人である人間との差。例えば全蔵等であれば、その圧倒的な技術で高杉と渡り合うことが出来るだろう。山崎であれば監察としての戦いを挑めただろう。自分だけが不恰好に正面から挑むことしか出来ない。だからこそ、こうやってその差が絶望的なのだが、だからと言って小手先で攫っても意味はないと土方は思っていた。多分似ているのだ。高杉の執着も憎悪も、自分と鏡写しなのだと。死ぬまで戦い続けるしかお互いに出来ない。
 土方の憎悪を正面から受け止めながら、高杉は僅かに窓に視線を走らせた。後どれくらいの時間があるだろうか、そんな事を考え、土方の刀を弾き返すと、勢い良く卓の煙管を投げつけ、彼の右手に命中させた。
 しまった、そう土方が思ったときにはもう遅く、己の手を離れた刀は引力に引かれ床に落ち、それを拾うために姿勢を崩した所を狙い撃ちされる。
 肩を貫通した刀。そのまま壁に縫い付けるように高杉は力を込めた。
 壁にあたった手応えを感じた後に、高杉は刀を引きぬく。ズルズルと壁伝いに座り込んでゆく土方の体を見下ろし、口元を歪める。
「惜しかったな」
 そう一言言い放つと、高杉は踵を返し、扉の前に立つと施錠を外す。
「……一歩、足りなかったみてぇだ」
 高杉の言葉にカグヤは部屋に視線を走らせる。視界に入った土方を見て、カグヤは僅かに瞳を見開くと、少しだけ俯いた。
「もういいでしょ。行きましょう晋兄」
「……」
 カグヤの言葉に高杉は少しだけ瞳を細めた。声を上げることも、駆け寄ることもしない女。生きているかも知れないというほんの少しの可能性にかけて放った言葉であることは、高杉にでも理解できて、思わず彼女の頬に指を滑らせた。
「泣いてもいいんだぜ」
 高杉がその言葉を放つと同時に、大きな揺れを感じて、カグヤは驚いたように瞳を見開く。
「何?」
「地下の火薬庫に引火でもしたかな」
「だったら尚更早く出た方がいいじゃないのさ」
 カグヤの言葉に高杉は困ったように笑うと、土方に視線を送る。刀を拾い上げ、それを支えにまだ立ち上がろうとする姿が視界に入り、愉快そうに高杉は口元を歪める。
「しつけェんだよ」
「煩ェ!」
 高杉の傍に立つカグヤを見て、土方は口端を歪めると刀を向ける。
「そいつを連れてくってんだったら、一緒に斬る」
「出来ねぇこと言うなよ」
「俺は手前ェと違って、出来ねぇ事は言わねぇ事にしてんだ!」
 そう言い放つと、土方は床を蹴って平突きを放った。それに驚いたのは高杉で、カグヤを突き飛ばすとその平突きを弾き返すために刀を構える。しかしそれは一手遅く、高杉の左腕を貫いた。
「テメェ、カグヤごと斬るつもりだったのかよ」
「信じてたぜ高杉ィ。手前ェは絶対に三味線屋を守るってな」
 例えばカグヤに刀が当たるのを無視すれば、高杉は難なくこんな突きをかわしたであろう。けれど高杉にはそれは絶対に出来ないと、土方は知っていた。だからこそこんな真似が出来たのだ。
「そこ動くなよ三味線屋!」
「兄さん!もういいの!もういいから!」
 初めて自分に向けられた言葉を聞いて、土方は思わず笑いたくなった。そうやって、全部諦めて、手放して、守ることだけをしてきた女。土方は高杉の左腕から刀を引き抜くと、少し距離を取る。
「俺がよくねぇんだよ!」
「兄さん!」
 カグヤは立ち上がろうと床に手を付くが、そこで扉の隙間から煙が入ってきているのに気が付き、思わず顔色を変える。火事になっている。多分先程の振動は本当に火薬庫に火が付いたのだろう。
 それに高杉も気がついたのか、僅かに眉を上げると左腕から流れる血が作った床の染みに視線を落とし、自嘲気味に笑った。
「面倒臭ェな」
「だったさっさと一人で逃げろ」
 土方の言葉に高杉は瞳を細めた笑う。もう土方は恐らく限界だろう。出血も多いし、あの肩の傷では刀を持っているのも辛いはずだ。それでも尚、憎悪の篭った瞳を向けてきている。これ以上戦えば先に死ぬのはどう考えても向こうだ。そう思い、高杉は刀をまた土方に向ける。
「そんなに死にてぇか」
「死んでねぇから戦うんだよ。それが俺の生き方だ」
「……だから俺はテメェが嫌いなんだ」
 天人襲来で滅びた侍。今の攘夷浪士の中で何人生き残っているのだろう。皮肉にも、攘夷戦争に参加しなかったこの真選組だけが、今幕府に残る侍で、忠誠もなく、守るべき主君もない己がもう侍ではなくただの獣であることも知っていた。高杉はゆっくりと視線をカグヤに巡らせ、悲しそうに言葉を放つ。
「侍じゃなくなった俺の事は嫌いか?カグヤ」
 その言葉に、カグヤは驚いたように瞳を見開くと、首を横に降った。
「侍じゃなくても、晋兄は晋兄じゃないのさ」
「……あぁ、そうだな。お前はそう言ってくれるよな……知ってた」
 そう言うと、高杉は床を蹴ってカグヤの座り込んでいる場所に移動した。土方も反応はしたが、体が思うように動かず無様に膝を付き、思わず声を上げる。
「逃げろ!カグヤ!」
 土方の方に視線を向けたカグヤは、立ち上がろうとするが、高杉に髪を無造作に捕まれ、驚いたように振り返る。それと同時に、振り下ろされた刀。
「……もういいんだカグヤ」
 時が止まったかのように沈黙が訪れた部屋に放たれた言葉は高杉のものであった。
 バッサリと切り落とされたのはカグヤの長い黒髪。呆然としたように高杉を見上げるカグヤは、瞳を大きく見開き言葉を失っていた。それを見下ろし、高杉は瞳を細めると、ゆっくりとテラスの方へ切り落とした髪を掴んだまま歩き出す。
「晋兄!」
「……本当は全部思い出してんだ。先生とお前とした約束も」
「え?」
 立ち上がったカグヤは、動けずに高杉の背中に視線を送る。一歩、高杉の方へ歩き出そうとするカグヤの腕を、土方は掴み、そのまま後ろから抱きとめる。抵抗すること無くカグヤは土方の腕に収まり、ただ、驚いたように言葉を失っていた。
「……愛してくれて有難う。ずっと俺のことを守ってくれて有難う」
 そこまで言うと、高杉はテラスを背に、カグヤの方を向いて笑った。
「ずっと俺の帰る場所で居続けてくれて有難う。……あんまりいい兄ちゃんじゃなくてゴメンな……お前はずっと約束通り、俺の妹であり続けてくれたのにな」
 それは幼い頃の約束だった。カグヤとずっといるために先生と、カグヤとした約束。血は繋がっていないけど、兄妹として、家族として、ずっとお互い助けあって生きなさいと先生が言ったのだ。今考えれば、カグヤに必要な約束ではなく、己が生きて行けるようによ先生が繋いだ縁だったのかも知れない。カグヤはかたくなにそれを守り続け、己は忘れた。そして、思いは先生が死んだ頃から歪み、いつしか檻となった。
 反故に出来ないのは自分が思い出してしまったからだ。それを守り続けてきたカグヤを裏切ることはどうしても出来なかった。病んで、歪んで、内に篭っていた自分をずっと見捨てなかったカグヤの優しさまで無駄にすることはどうしても出来なかった。そんな形でしか、カグヤの思いに報いる事が出来ないのだ。
「初めから駄目だったんだな……子供の頃の自分を絞め殺してやりたい」
 自嘲気味に笑った高杉を見て、カグヤは漸く言葉を放った。
「……私の事もう要らなくなった?」
「お前がいなくても歩いていける。今度は俺がお前を守るよ。だから……その莫迦の所に行っちまえ」
 カグヤの肩が震えたので、思わず土方は彼女を抱く手に力を入れる。細い肩。この両肩に高杉と、己の先生との約束を抱えて、ずっと歩いてきたのだろうと思うと、いたたまれない気分に土方はなった。
「そいつに泣かされたり、愛想尽かしたりしたらいつでも戻って来い。可愛い妹の出戻りは大歓迎だ」
「巫山戯んなよ手前ェ」
 忌々しく言葉を放った土方を見て、高杉は愉快そうに口元を歪めた。
「……髪、こうやってみると短ェのもそんなに悪くねぇな。昔はあんなに嫌だったのによ」
 彼女の短い髪を見ると、己の部下がカグヤを、仲間を傷つけ、裏切ったのを思い出すからどうしても嫌だった。けれど、今はそんなに気にならないのは、多分裏切った部下との決着が付き、己自身も嘗てと違う選択を選んだからであろう。そう思うとなんだか可笑しくて、高杉は思わず瞳を細める。
「莫迦ね」
「そんなの昔からだ。コレは俺のだから貰ってく。後は好きにしろ」
「ちょっと待て!」
 慌てて土方が高杉を追いかけようとしたが、テラスから強い光が差し込み視界が一瞬奪われる。それが屋外にある船からのサーチライトであるというのに気がついた土方は、舌打ちをする。恐らく呉にあった船の改装が終わったのだ。
 その表情を見て、高杉は口端を歪めるとテラスを開け放った。外からの風が室内を満たしつつあった煙を吹き払い、カグヤは高杉の姿をはっきりと視界に捉え大きく瞳を見開く。子供の様に笑った高杉。もう、自分の役目が終わったことをカグヤはそれで理解し、思わず己を抱える土方の手を握りしめた。
 こんな時でも泣かないのか、そう思い土方は風から庇うようにカグヤを抱く。
「あばよ、幸せモン」
 そう言い残し、高杉はテラスから姿を消した。

 

 土方が目を覚ましたのは病院であった。真選組かかりつけの病院で、午前中に一度目を覚ました時に、大方山崎から話は聞いた。それを思い返しながらゴロンと寝返りをうつ。鬼兵隊の大量検挙。残念ながら幹部クラスは捕縛できなかったが、実際に高杉以外の幹部と斬り合った隊士もいたために、館の持ち主であった天人は幕府より権限を剥奪され、真選組は大金星を上げたという結果となったらしい。
 そして土方自身は肩の傷と、アバラにヒビが入ったという事で暫くは大人しくするようにと医者と近藤から言い渡され、暇な日々を強要される事となる。
 高杉が逃げた後、直ぐに倒れたのは失態以外の何者でもないだろうと、思わず土方は舌打ちをした。山崎が言うには、全蔵から連絡があり、建物の外で倒れていた土方を回収しに行ったとの事である。いるとは思っていたが、カグヤから指示があるまで一切手を出さずにずっと傍に潜んでいたのだろう。結果、画竜点睛を欠くと言わんばかりに、カグヤに最終的に又命を救われた形である。もっとも、火事で館の半分以上焼け落ちたという話を山崎がしていたので、あのまま気を失わずにいても、無事に火事の中カグヤを抱えて逃げられたかは解らないのだが。
「……しまらねぇよな」
 結局高杉との斬り合いはほぼ負けに近い上に、カグヤ自身を取り戻したというよりは、むしろ高杉が手放した形である。
「そう言うなって。頑張ったんじゃね?」
「!?」
 驚いて体を起こすと、そこには全蔵が立っており、彼は土方を見下ろして口元だけ上げて笑った。
「煩ェよ。つーか、手前ェはいつも後からノコノコ出てきておいしいところどりじゃねぇか」
「だって俺は姫さんの専属だし」
 そう言うと、全蔵は咽喉で笑った。
「あ、もしかして、いざという時は姫さんが俺頼るのが面白くない?」
「……」
 図星なのかも知れない。そう思い、土方は不快そうに眉を寄せる。
「でもまぁ、俺は姫さんの影だけど、となりにいるのはアンタの方が姫さんも喜ぶだろ」
「アイツはどうしてんだ」
「俺のかかりつけの医者に一応見せたけど問題はねぇさ」
「そうか」
「……全部元通りって訳だ。君菊ちゃんに貸してた家も姫さんがまた住むし、落ち着いたら仕事も又はじめるんだと。俺は今お手伝い中で、契約は続行」
「高杉はもう来ねぇんだから手前ェとの契約なんざぁいらねぇだろ」
 不快そうな顔をしたまま土方が言うと、全蔵は瞳を細めた笑った。
「俺に言わせりゃ、幼馴染のストーカーが、過保護なシスコン兄ちゃんになっただけだしな。それに……姫さんがアンタに愛想つかして逃げるってのもあるかも知れねぇし」
 高杉と同じことをのうのうと言う全蔵に腹を立て、土方は手近にあった枕を彼に投げつける。すると全蔵はそれを軽く受け止め、冗談だ、と笑った。
「これからも宜しくな、副長さん」
「ふざけんな。三味線屋が手前ェの手を借りなくても問題ねぇ様にしてやる。失業してもいいように、今から就職口探しやがれ」
 憎まれ口を叩ける程度には回復しているのだろうと思った全蔵は、満足そうに笑うと枕を土方に返す。それと同時に、病室の扉が開いたので、土方はそちらに視線を送った。
「おやまぁ、もう起き上がっていいの?兄さん」
 髪は綺麗に切り揃えられており、手には包帯が巻いてあるようだが元気そうで、土方は思わずほっとしたような顔をする。そして、彼女に椅子をすすめようと病室内に視線を巡らせ、そこで全蔵の姿が既にないことに気がついた。開けっ放しの窓から出ていったのだろうか。そもそも入ってきたのにも気が付かなかったのだ。
「……そこ座れよ」
「ありがと」
 ベッドの横に設置されている椅子に腰を下ろしたカグヤを見て、土方は言葉を探した。彼女が見舞いに来るのを余り考えていなかったのだ。そして、散々迷った挙句、土方は先程全蔵の言っていた言葉を真似するハメになる。
「全部元通りだな」
「そうね。まさか家の処分してないとは思わなかったわぁ。ザキさんがそのまま使ってくれてたお陰で直ぐに戻れるんだけどさ。全さん優秀すぎるわ」
 その言葉に土方は複雑そうな顔を思わずする。開口第一声に、山崎と全蔵のべた褒めだとは予想していなかったのだ。煙草が吸いたい。そう思いながら土方はつまらなさそうに口を開く。
「俺が行かなくても高杉は手前ェ手放したのかも知れねぇな」
「……それはどうかしらね。その気があるならさっさと手放したんじゃない?兄さんが来たから手放してもいいって思ったのかも知れないし。まぁ、本人に聞いてみないと解らないけどさ」
 もしも自分が高杉の立場であったならば、【三番目だ】と言い切った男に妹をやるのは厭だと思った土方が、それを口に出すと、カグヤは咽喉で笑った。
「それを莫迦だととるか、誠実だととるかの差だと思うけどね」
「……手前ェは何番目だ?」
「何が?」
「何がって……俺だけ順番晒してんのに、手前ェは晒さねぇってのも不公平だろーが」
 土方の顔を暫く眺めていたカグヤであるが、瞳を細めて笑う。
「一番よ」
 そういい、カグヤがぽふっと布団に頭を落としたので、土方は思わず顔を赤くして言葉を失う。自分で聞いておいて何だが、こうもあっさり一番だと言われるとは思わなかったのだ。己の足にかかるカグヤの頭の重みを感じながら、彼女の髪に触れようと手を伸ばしたが、それは続けられた言葉によって静止させられた。
「攘夷戦争の仲間と、忠実な御庭番衆と、可愛い弟子と同じぐらい好きよ」
 髪を撫でようとしていた土方の手は、わしっとカグヤの頭を掴むと、ギリギリと締め上げる。
「痛い、痛い!」
「ふざけんな手前ェ!それ実質四番目じゃねぇかよ!」
「一番だってば」
「一番って言わねぇだろそんなの!何で山崎やピザ屋と同列なんだ手前ェ!皆で仲良く一等賞のゆとり世代か!」
 攘夷戦争の仲間は仕方ないとしても、何故山崎や全蔵と同列なのだと不満タラタラな土方を見上げていたカグヤであるが、土方の手を外し体を起こすと、ぎゅっと土方に抱きついた。
「……抱きしめて、甘やかして、守って、これからもずっと一緒に歩いていければきっと幸せなのかも知れないって思うのは、兄さんだけよ」
 耳元でそう囁かれ、土方は思わず言葉を失い、散々迷った挙句に彼女の肩に顔をうずめた。だから嫌なんだと。やることなすこと全部男前で、己がどう逆立ちしても出来ないことさらっとやってのける。
「なんか、手前ェがやることなすこと男前でムカツク」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
 小声で不満を零した土方にカグヤはそう言うと、ぽんぽんと背中を叩いた。
「それにさぁ、兄さんだって格好良く晋兄と対峙してたじゃないのさ」
 そう言われ、土方の気が少し楽になったが、直ぐに我に帰り体を引き剥がすと怒鳴りつける。
「嘘つくな!手前ェ見てねぇだろーが!」
 カグヤが扉から出てきたときは、既に自分は高杉に散々痛めつけられた後だったのを思い出した土方がそう言うと、カグヤは瞳を細めて笑った。
「見てないわ。けど、私が格好良かったって思ってんだからいいじゃないのさ」
 そう言うと、カグヤは土方に顔を寄せて、短く口づけた。
「一緒に歩いて行くって言ってくれて有難う。嬉しかったわ。だから格好良かったでいいじゃない」
 そう言われ、土方はまた情けなくカグヤの肩に顔を埋めるハメになる。どんな顔をしたらいいのか分からない上に、やっぱりどうあがいてもカグヤには勝てない気がしたのだ。これからもきっとこんな事ばかりのような気がして、土方は思わず情けない顔をするが、彼女を抱く手に力を込めた。確かに全部元通りになったのかも知れない。攘夷戦争の頃から歪んだ高杉さえも。高杉がもう脅威でない今、自分はどうしたいのだろうか。そんなことを考えながら、土方はカグヤの短くなった髪を撫で、小さく溜息をついた。


【迦具夜姫】一旦完結
20110301 ハスマキ

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