*序章*

 土方が行きつけの店で酒を飲んでいると、後ろから声をかけられ振り返る。

「兄さん。悪いんだけどさ、席、ひとつずれてくれない?」

 思わず辺りを見回すが、他にも空いている席がある。それにも関らず女が席を譲れと言い出したのに納得行かない土方は、むっとしたような表情を作る。すると店主が申し訳なさそうに土方に声をかけてきた。

「申し訳ないですね副長さん。そこ、三味線屋さんの指定席なんですよ」
「指定席って…名前でも書いてあんのかよ」

 すると女は可笑しそうに口元を歪めて、テーブルの端に置いてある小さな札をポンと土方の前に置く。【三味線屋・迦具夜姫指定席】と書かれていたので、土方は呆れた様な顔をすると、ひとつ席をずれる事にした。よくよく思い出してみれば、いつもこの女はこの席に座っていたような気もする。こんな馬鹿げた札まで作っているとは思わなかったが。

「最近いらっしゃらないので今日もかと。本当申し訳ありませんね」

 二人に頭を下げた店主に、こっちこそごめんなさいねと笑った女は、土方の方を見ると兄さんも、悪かったわねと謝罪する。それ程その席に拘る理由は分からなかったが、割と素直に謝る姿を見た土方は言い返す事もなく、短く、かまわねぇよとだけ返答し盃を空にした。

「これ、お詫びに」

 店主が二人に酒を差し出したので、土方はそれを素直に受け取ると、ちらりと女の顔を見る。長い髪で、女性にしては長身である。機嫌良さそうに店主から酒を受け取った女は嬉しそうに笑うと、その酒を一気に飲み干した。

「迦具夜姫たぁ、大層な名前だな」
「仕事上の名前よ。本名じゃないの。あ、お酒もう一杯」
「その席に何か意味あんのか?」
「この席が一番あの窓からの月が良く見えるのよ」

 女が指した大きめの窓からはビルの隙間から月が顔をのぞかせている。土方の席からは確かに女の体が邪魔で少し姿勢を変えねば見えない事を考えると、彼女より背の高い自分が席に座ってしまえば邪魔になる事は理解できた。月を見る為にわざわざ席を指定しているのに呆れながら、土方は店主のおごりの酒を嘗める。

「まぁ、隅っこで気兼ねなく飲めるってのもあるんだけどね」
「そーかよ」

 変な女だと思いながら土方は注文した料理にマヨネーズをかける。すると女は僅かに驚いたような顔をしたが、すぐにぷーっと笑い出す。

「兄さんよっぽど好きなのね」
「うるせぇよ」

 引くとか、厭そうな顔をするという反応には慣れているが、笑われるという反応は今までなかった土方は思わずしかめっ面をすると不機嫌そうに言葉を零した。それに対して女は、笑ってごめんねと反省の欠片もなさそうな言葉を投げかけると、盃を傾ける。

「初めてマヨラー見たからついねぇ。酒が入ると笑いの沸点低くなって駄目だわ」

 沸点が低いのはわかるが、高くても笑う所ではないと思った土方は呆れた様に盃を重ねる女を眺める。驚くほど飲むが、全く顔に出ないタイプらしい。

「兄さんはあんま飲まないのね。弱いの?」
「強かねーけど」

 また女が笑い出したので土方はむっとしたような顔をすると、店主に酒の追加を注文した。

***

 カウンターに突っ伏する土方を眺めて女は清々しい笑顔を店主に向ける。

「今日も楽しかったわ」
「加減してあげてくださいよ三味線屋さん」
「したわよ」

 その返答に店主は土方に心の中でご愁傷さまと手を合わせた。半年位前から彼女と一緒に飲む事が増えた土方は、今日は散々飲まされた挙句にいつもの仕事の愚痴だけでなく、惚れた女の話まで吐かされたのだ。春先に入った監察女性隊士に惚れている等という話は、土方は恐らく誰にも言った事はなかっただろう。しかも、その隊士は局長に心底べた惚れという絶望的な一方通行。女はその話を吐かす為に土方をあおりまくって口が滑りやすいよう酒を飲ませ続けた。

「兄さん。帰れる?送ってあげようか?」
「帰れる」

 突っ伏しながらも返事をした土方を見た女は、ぽんぽんと土方の頭を軽く叩くと、そんじゃ、またね兄さんと笑って店を出た。

「畜生…やられた…」

 取り返しがつかない事は良く解っていた土方は思わず言葉を零す。うっかり口を滑らせのは一生の不覚としか思えない。弱みを握られた様な気分になった土方は思わず盛大な溜息をついた。しかし、今まで誰にも話さずに、鬱々としていたモノを吐き出してかなりすっきりしたのは事実で、そう考えると複雑な気分になった。

「タクシー呼びましょうか?」
「頼む」

 店主の言葉に短く返事をすると、土方は体を起して水を飲み干した。

***

 店を出て機嫌良く歩く女は、【三味線屋・迦具夜姫】と看板を下げている自分の店の前に立つと不機嫌そうに舌打ちをした。招かざる客が勝手に上がり込んでいるのが外からでも解ったのだ。明かりが洩れる窓に映る人影は、自分の幼馴染のものだとすぐに判別できた。

「遅かったじゃねーか」

 窓から顔を出した隻眼の男は、煙管の煙を吐き出すとさっさと入れよと言葉を続ける。

「アンタの家じゃないでしょーが。もう一軒行くからご自由に」

 くるりと方向転換した女の腕を、窓から身を乗り出して隻眼の男は掴む。

「オメェが俺の檻から逃げ出すから会いに来たんだ」
「何度でも逃げ出すわよ」

 懲りずに何度も攫いに来る男に呆れながら女は言う。溺愛されて手元に置かれていたのはずっと昔の話。もう檻に戻るつもりはなかった。男は口元を歪めると女の頬に手を当てた。

「何度でも捕まえにいってやる」


元攘夷志士・三味線屋ヒロイン設定小話
20090701 ハスマキ

【MAINTOP】