*異国花嫁*
「甘寧。私お嫁に行くの」
少女の言葉に目の前の男は目を見開いた。
呉国の切り込み隊長と謳われた男も流石に驚きの表情を隠せなかったのは無理も無い。目の前の少女は『腰弓姫』と謳われる呉国君主の妹姫孫尚香なのだ。
言葉を失った甘寧に可笑しそうに微笑みかけると、孫尚香は言葉を続けた。
「政略結婚だけどね」
呉と蜀の同盟の証として差し出される…否、呉国軍師である周瑜の目論んだ劉備抹殺の為の大きな計略の一部として彼女は蜀国君主の劉備の花嫁となる。
「…驚いた…じゃじゃ馬娘を嫁にする奇特な奴が居るのかと思ったじゃねェか」
その言葉を聞いてむっとしたのか、孫尚香は持っていた剣を甘寧に向かって軽く振った。無論当たる筈も無く甘寧は軽く上半身を仰け反らせその剣先を軽く交わし僅かに表情を翳らせた。
「仕方ねェと諦めるのか?」
「さぁ。取り合えず劉備を拝んでから決めるわ。だから貴方に話を持ってきたのよ」
逆らえるわけが無かった。彼女のお願いは何よりも優先されなければならないのだ。断った途端に自分が血を見るのは明らかだったのだから。
呉国の切り込み隊長は『腰弓姫』お気に入りの手合い相手だったのだ。
どうしても『妹姫』という肩書きを優先させる部下の多い中、甘寧は元々の海賊上がりの気質からから粗野な部分がどうしても抜け切れない上に、自分の側に居る者への面倒のよさが災いして逆らい切れない節がある。もっとも、既に一介の武将レベルまでその技量を上げていった孫尚香の手合い相手として他に引き受けられる人間が中々居なかったというのも一部はあるが。じゃじゃ馬娘のお目付け役としては面倒見の良い甘寧が適任だと呉国では暗黙の了解だったのだ。
船が到着したのを小高い丘から確認して孫尚香はその目を凝らした。残念ながら劉備の顔を知らない孫尚香は嘗て戦場で劉備の顔を見た事がある甘寧を引き連れてきたのはどの人物が劉備であるのか確認をさせる為であったのだ。
「今船から降りて来たのが劉備だ」
甘寧の言葉に孫尚香は丘から転げ落ちそうな程身体を乗り出して船から降りてきた人影に視線を送る。
「男前じゃない」
「は?」
甘寧は孫尚香の言葉に思わず間の抜けた返事をする。確か劉備の年は既に40を越えていた筈で、多分普通の感性ではそんな感想が出るとは思えなかったのだ。
思わず甘寧は彼女と同じように身を乗り出して船を確認した。
そして納得したのは孫尚香の大きな勘違い。
「…蒼い鎧は趙雲将軍だぞ」
「え?」
今度は孫尚香が間の抜けた返事をする番であった。
劉備の側で護衛の鏡の様に敵国で彼を守るのは、蜀軍の有名武将の一人趙雲であった。長坂での戦いの逸話などこの乱世でその名を轟かす男。
「…まぁいいわ。長坂の英雄と手合わせ出来るならお嫁に行っても」
「そんなもんか?」
多分孫尚香は自分の我侭でこの縁談が破談になる事などありえないと知っていたのだ。理由が欲しかっただけなのかもしれない。道具として扱われる自分自身を納得させる為の理由。
そんな事を考えた甘寧は僅かに表情を翳らせた。
彼女が最も嫌った『女』としての扱い。『武人』として生きたいと望んだ彼女は『道具』としてその残りの人生を送らねばならないのだ。戦場への出陣すら嘆願して君主を困らせた彼女がそんな生き方を選ぶのは本人にとっては苦渋の選択に違いない。
孫尚香は少しだけ困った顔を甘寧に見せて微笑み瞳を細める。
「貴方とは次は戦場で会いたいわ」
劉備との結婚は驚くほど順調に執り行われた。無論策を弄した周瑜の目論見はすべて闇から闇へと葬り去られたのは云うまでもない。劉備や趙雲とて丸腰で敵陣に乗り込んでくる程愚かではない。何より諸葛亮の計算が周瑜を上回ったのだ。
孫尚香がふと格子のはめ込まれた窓に視線を映すとそこには蒼い鎧に身を包んだ長身の男が佇んでいた。
見忘れもしない『長坂の英雄』と謳われた将軍。
彼はゆっくりと手に持っている長槍を構えると不規則に舞い落ちる木の葉を的確に捉え鋭利な穂先で動きを止めていった。まるでそこだけが違う空間の様に張り詰めた空気が流れる。
ふと、趙雲の表情が緩んだのを見て孫尚香は格子越しに声をかける。
「貴方趙雲将軍よね」
さして驚いた様子もなく趙雲は孫尚香の方に視線を向け頷いた。そんな仕種に孫尚香は少し残念そうな表情を見せたのは、余り趙雲の声を今まで聞く機会がなかったので少しは声を発してくれるのかと期待をしていた為である。
「ねぇ、退屈なの。一寸私の相手をしてよ」
孫尚香の言葉の意味を捉えることの出来なかった趙雲は困った顔を見せてゆっくりと彼女が顔を覗かせる窓の方に歩いてきた。
「私は女性を楽しませるような話を持ち合わせていません」
よく響き張りのある、それでいて穏やかそうな声を趙雲は発した。多分彼は孫尚香が話しの相手を探しているのと勘違いしたのだろう。それを聞いて孫尚香はお腹を抱えて大爆笑した。
その孫尚香の対応に更に困惑した趙雲は困った顔のまま言葉を発した。
「…本当なんです」
「違うのよ趙雲。私が探しているのは話し相手じゃなくてこっちの相手」
そういうと孫尚香は腰にぶら下げていた武器を軽く上げる。
「…」
「一寸だけでいいのよ。今まで相手してくれてた甘寧がいなくなっちゃったから暇なの。丁度劉備様も兄上に呼ばれていないし」
返答に困る趙雲に向かって孫尚香はにっこり笑って無理難題をふっかける。無論趙雲にとっては君主の嫁であり、命令を聞かないわけにはいかないが、如何せん命令に従って良いものか判断に困る。趙雲にとって女子供は守るべき存在であって、力の勝る自分はそういった者達を護る義務があるとまで考えているのだから正直孫尚香の提案は趙雲を困らせるもの以外の何物でもなかった。ただ、機嫌を損ねるのは得策ではない。此処は敵陣なのだから、どんな気まぐれで君主を危険にさらす事になるやも知れない。
「…解りました。少しだけですよ」
結局折れるしかない趙雲はそういうと先ほどまで立っていた木下へ移動した。そこで相手をするつもりらしい。
「直ぐいくわ!!」
部屋を飛び出した孫尚香を確認して趙雲は小さなため息をついた。
切り込み隊長と謳われた甘寧仕込みの武術は大した物だった。実際力の差はスピードと技術でカバーしており、多分下手な武将よりずっと強いだろうと言うのが趙雲の第一印象であった。
ただ、趙雲と比べると実力の差は歴然だった。無論女性相手に本気で戦える筈のない趙雲であるので、戦場で戦う程の力は出してはいないだが経験値の差が歴然とでる。
「もう!!全然敵わないじゃないの!!!」
多少腕は立つと自負していた孫尚香であるが流石に趙雲との差を感じたのか不満そうな声を出す。それを聞いて趙雲は困った顔をしながら、十分ですよと云ったのだが、孫尚香は更にふてくされる。
「実戦じゃ何十回って貴方に殺されてるわ。甘寧にも敵わないと思ったけどなんだか…悔しい」
そんな姿を見て趙雲は孫尚香が本気で武術に取り組んできたのを痛感する。でなければ、悔しがる事などないだろう。
「決めたわ。貴方甘寧の代わりに私の相手をしなさい。無論蜀に帰ってもよ」
「…私には決め兼ねます」
相手をするのは構わないが、仮にも君主の后だ。彼女が武術を学ぶのを許可するかどうかも妖しい中、迂闊な返答は彼女をがっかりさせるだけであると判断したのだ。多分劉備か諸葛亮の片方でも反対すればそれは叶わない。
「じゃぁ私は蜀にいかない」
「…それは…困ります」
「大丈夫よ。劉備様にも貴方の所の軍師にも私がお願いするから」
「許可が下りたらですよ」
渋々趙雲が承諾すると嬉しそうに孫尚香は笑う。
闇夜に紛れて呉を脱出する時駄々を捏ねるかと思った孫尚香はあっさりと劉備についてゆく事を決めた。
「私は蜀に行くって決めたんです。さぁ早く行きましょ」
穏やかに劉備に言うと孫尚香は少しだけ笑った。自国に未練がないと言えば嘘になるが、自分で蜀に嫁ぐと決めたのだからその志を違える事は出来ない。
馬車に揺られながら孫尚香はゆっくりと思案する。せめて甘寧にもう一度会うべきだったかもしれない。長い間自分の我侭に付き合ったあの男は孫尚香が結婚した途端に姿を見せなくなった。それは仕方がないことではあるが、一言礼でも言っておくべきだったとその事が心残りだった。
途端に、がたんと馬車が急停車し孫尚香は前につんのめる形になった。何か道に障害物でもあったのだろうかと首を傾げながら、布を捲って彼女は外の様子を伺う。
「通らせて頂きます!!」
趙雲の声に呉軍の追ってが追いついたのだと悟った孫尚香は側にあった武器を握り締めて腰を浮かすが、それは部下によって制止された。それは劉備も同じ事で、剣を握り締め今にも飛び出しそうな劉備を必死で静止する部下の姿が視線の端で捕らえられた。
劉備も孫尚香も蜀にとっては大事な人間なのだと必死の説得を繰り返すが、彼らとて趙雲に危険な目を見せて自分だけぬくぬくと助かろうなど考えられなかった。
「出るわ!」
そう言い、勢いよく布を捲った孫尚香が見たのは既に過半数の兵を地面に這わせた趙雲の姿だった。
呼吸ひとつ乱さずに緩やかな曲線を描いた穂先は次々と呉兵を薙倒してゆく。孫尚香への気遣いか、多分死んでいる者は誰も居ないだろう。人数の割には流れる血が少なすぎるのだ。
「お下がりください!」
「聞けないわ!」
身を翻し孫尚香に気がついた趙雲は声を張り上げるが、彼女は聞く耳持たずに武器を構える。その瞬間敵兵の視線は彼女へ集まった。
「姫!呉にお戻り下さい!」
「それも却下。私は蜀に行くわ」
にっこりと微笑んで彼女は側に寄った呉兵のみぞおちに膝を入れる。拳を入れるよりは数倍の威力がある。
呉軍に動揺が走ったのを隙に趙雲は一気にある程度の人数を片付けると、馬に飛び乗った。
「強行突破します。揺れますから座って下さい!」
趙雲の号令と共に馬車を操作していた蜀兵は馬に鞭を入れ強制的に馬車を走らせる。先陣を切って走る趙雲が敵を振り払うので、馬車に群がる敵兵も少ない。敵も馬に乗っての不安定な攻撃が続くのでうまく孫尚香を攫えないのが現状で、手をさし伸ばしたところで彼女はその手を振り払うどころか切り落とす勢いであった。
「もう直ぐ河へ抜けます!!」
趙雲の言葉に孫尚香と劉備は武器を止め道の先を見る。そこには川面に浮かぶ灯りがゆらゆらと揺れている。
「諸葛亮か!」
劉備の喚起にも似た声に孫尚香は張り詰めた緊張の糸を一気に切る。蜀軍の軍師がもうそこまで迎えに来ているのだ。と、目の前の趙雲の馬が身を翻し突然逆走を始めたので思わず声を上げる。
「どうしたの!?」
「殿を務めます。早く軍師殿の所へ!」
判断が早い。恐らくこの先に敵の伏兵が居たとしても、諸葛亮が手を打っていると判断したのだろう彼は、後続の敵を追いつけないようにと方向転換したのだ。
「参ったわ…考えもしなかった」
ぺたんと揺れる馬車の床に座り込むと孫尚香は小さな声でつぶやいた。
「彼は蜀でも有能な軍人だからな…」
劉備の嬉しそうな声に孫尚香は顔を上げて微笑みを作る。
「劉備様。彼を私に下さい」
「?」
「私は戦場で戦うのが夢だったんです。だから…私は彼の姿で叶わなかった夢を見たいの。無論劉備様でも良いんですけど、貴方は蜀の君主だから戦場で危ないことはしないでしょ?」
彼女の言葉に劉備は苦笑しながら考えてとこうだけ返答をした。噂には聞いていたが、呉の切り込み隊長が彼女のお守りをしていたというのもまんざら嘘ではないらしいと劉備なりに納得したのだ。武器の扱いも、戦い方も、戦場で戦う者に仕込まれた物で、彼女が蜀にきたは良いが退屈して逃げてしまったのでは笑い話にもならない。だったら相手を誰か与えれば機嫌よく蜀に居るのだろうかとぼんやりと考える。
元々政略結婚なのだ。無論、孫尚香の事が嫌いではないが、いかんせん年が離れすぎているのもある。娘のような感じも正直否めない。
趙雲には悪いが、暫くはこのじゃじゃ馬の守をして貰わなければならないだろう。幸い、阿斗も趙雲に懐いているし、2人の護衛と名目で阿斗も鍛えて貰おうと諸葛亮を説得しようかと疲れきった頭で判断した。
趙雲は少し遅れて合流し、蜀への帰途につく。
陰謀渦巻く故郷との別れを惜しむ様子も無く、孫尚香は帰ってきた趙雲に満面の微笑で言葉を放った。
「今日から貴方は私のモノですからね」
「いいんっスか隊長。姫さん逃がして」
「…俺が出たらつい殺っちまう」
部下の言葉に不機嫌そうに甘寧は答え、遥か彼方に向かう船の灯りを視線で追う。もう戻らないであろう呉国の姫。異国の花嫁。
「そんじゃ、軍師様に何て報告しときます?」
「姫さんが先陣切って戦ってましたって伝えとけ。死体でよけりゃ今からでも追ってやるってな」
「了解」
部下は咽喉で少しだけ笑った後、報告の為にその場を去る。それを見送ると再び視線を灯りへ戻す。
―─俺は戦場でお前ェに会う位なら二度と会えなくて良い。…じゃぁな、姫さん。
>>あとがき
書き出してから随分時間がかかりましたねェ(笑)甘寧→孫尚香→趙雲話でした。
一応話のベースは真三国無双ですが、三国志演義の要素も入ってます。年齢設定・性格設定は無双で、話のベースは演義ってのが一番近いかなぁ。
20031012