*渇仰*
「遅い!」
初っ端のヴェルナーの言葉に思わずリリーはシュンとする。
「お前なぁ、このクソ寒い中へーベル湖に行くからついてきてくれって言い出した上に遅刻するとはいい度胸だ」
リリーはヴェルナーのキツイ言葉を聞きながら更に俯く。調合に夜中まで掛かった為に起きた時には遅刻決定の時間だったのだ。
慌てて外門に辿り着いた時には既に約束の時間を大幅に過ぎていた。
しかもこの寒いシーズン、待たされた怒りはもっともなので何も言い返さず只管『御免なさい』と謝りつづけた。
「…そろそろ出ないと予定通りにへーベル湖に着けない…出発しよう」
延々と続くかとも思われたヴェルナーの文句を遮ったのは一緒に護衛についてくる騎士隊副隊長ウルリッヒだった。
彼の言葉は流石にリリーが気の毒に思えたのか、それとも本当に予定を気にしていたのかは定かではないが、ウルリッヒの言葉にヴェルナーはまだ云い足りないと云う顔をしながらも出発に同意した。
「あのぉ…本当に済みませんでしたウルリッヒ様…」
「時間に遅れるのは感心しないが…大丈夫か?遅くまで調合していたのではないか?」
「大丈夫です」
ウルリッヒの言葉にリリーが笑顔で答えるとホッとしたような表情をする。
へーベル湖への道のりをぶらぶらと歩きながら穏やかに会話する。
此処の敵は大して強くは無いし、何より王国騎士隊のウルリッヒがいれば大概の敵は倒せる。
「余所見して歩くな。すっ転ぶぞ」
「そんなに転ばないわよ!!」
ヴェルナーの言葉にリリーはむっとしながら返事をする。
確かに、こうやって採取場所まで行く過程、リリーは何か良いアイテムが無いかときょろきょろしながら歩く為によく転ぶ。
その度にヴェルナーの叱咤の声が飛ぶのだ。
ヴェルナーにしてみれば手の掛かる子供のようなものなのかもしれない。
秋も終わり冬に入ったばかりの季節。
とにかくへーベル湖は寒い。
「では焚き木を集めてくる」
そう云うと、ウルリッヒはさっさと湖を囲う森の中に足を踏み入れた。
採取作業はリリーとヴェルナーが大抵行う。
ヴェルナーは商売柄錬金術に必要な物の区別がつくが、ウルリッヒはそうはいかない為に自動的にこの役割が決まっていた。
「冷た…」
ヴェルナーはへーベル湖の水を汲みながら、思わずその予想外の温度の低さに手を引っ込める。
錬金術で結構使用するアイテムだが、このシーズン集めるのは結構辛いものがある。
ブツブツ文句を云いながら水を手早く汲み上げると、上機嫌にミスティカを摘んでいるリリーに声をかける。
「何でお前んとこの妖精に頼まないんだ?急な依頼でもあったのか?」
リリーの家には7人の妖精が居て、調合作業や採取作業を手伝ってくれる。
珍しいアイテムは無理だが、結構な働き者なので大概の材料は拾ってくるのだ。
「うんとね、珍しいアイテムがあるって聞いたから…。今から取りに行くんだけど」
そう云うとリリーは採取用の籠に持っていたミスティカを入れて、荷物から飴玉を出した。
「…なんだそりゃ」
「エアドロップって云うの。昨日頑張って作ったんだよ」
のほほんと答えるリリーに対してヴェルナーの表情は急に青ざめた。
名前からして空気が出る飴に違いない。
と言う事は…。
案の定リリーは上着を脱ぎ髪を解くと飴玉を口に入れた。
「待て!!この寒い季節に…」
ヴェルナーが止めるよりも早くリリーはドボンとへーベル湖に飛び込んだ。
「じゃぁ行ってくるね」
そう云い残しリリーはへーベル湖の底へ身を沈めた。
取り残されたヴェルナーは呆然とリリーの消えた水面を見つめていた。
11月。
先ほど自分の手で水の温度は確認した。
準備運動もなしで行き成り飛び込んで心臓麻痺を起してもおかしくない温度だ。
「どうした?」
焚き木を抱えたウルリッヒが一人で立ちすくんでいるヴェルナーに向かって怪訝そうな顔をする。
「あの馬鹿へーベル湖に潜りやがった…」
「…この季節にか…」
流石のウルリッヒもリリーの行動に驚きの表情を見せる。
「…火を焚いて待っていた方が良さそうだな…」
そう云うとウルリッヒは持っていた焚き木を組んで火を起す。余り長い間潜っていることは無いだろうと判断したのだ。
「風邪引くとか考えねぇのかあいつは…」
ヴェルナーがブツブツと文句を云いながら荷物から毛布とタオルを引っ張り出してくるのを見てウルリッヒは笑う。
「…何が可笑しい」
「いや。彼女の事になると心配性だと思っただけだ」
「あいつが心配させるような事ばっかりするからだ…」
ウルリッヒに笑われたのがむっとしたのか、少し怒ったような声で返事をする。
ヴェルナーは元々人に興味を持つ人種ではない。
その男がリリーの体の心配をしているのが意外でもあり、また驚きでもあったのだ。
暫くすると水疱が湖底から上がりすっと人影が見えた。
「ぷは!」
ひょっこり顔を出したリリーは手に握っていた宝石…水色真珠をざらざらと岸に置くと、再び飴を口に入れる。
「な!!」
リリーの意外な行動に2人とも思わず声を失う。
又潜るとは予想だにしていなかったのだ。
慌ててリリーのを止めようとしたヴェルナーの手をアッサリすり抜けてリリーの体は再び湖底へと沈んでいく。
岸に置かれた真珠は見た事もないような輝きを放っていた。
海で取れるはずの真珠がへーベル湖で取れると誰からか聞いたのだろう。
「…あいつ幾つ飴玉持ってきてるんだ…」
ヴェルナーはそれを一番最初に確認しておくべきだったと後悔しながら真珠を拾い上げ籠の中に放り込む。
「次は何とか止められると良いな」
「他人事の様に云うなよ…」
ウルリッヒの言葉にヴェルナーは僅かに睨みつけると、今度はちゃんと間に合うように先ほどリリーが上がってきた場所の側に座り込む。
エアドロップさえあれば長時間潜っていても大丈夫なのだろう。
でもそれは唯単に息が続くと言うだけで、体は段々と冷たくなってゆく筈だ。
ヴェルナーはへーベル湖に手を入れてみてその冷たさに再び手を引っ込める。
もうどれ位潜っているのだろうか。
段々と苛立ってくるのが解って実に不快な時間を送った。
「上がってきたか…」
ウルリッヒの声にヴェルナーは水泡の浮かぶ場所に視線を馳せた。
幸運にも先ほどよりは岸に近い。
「リリー!」
「へ?」
上がってきたリリーは再び真珠を岸に置くと先ほどと同じようにエアドロップを口に運ぼうとした。
ヴェルナーはその腕を慌てて掴むが、リリーはそれに驚いて思わず手を自分の方に引く。
ドボン。
豪快な水しぶきを上げてヴェルナーはへーベル湖に引き摺り落とされた。
それを呆然と見るリリー。
笑いを堪えるウルリッヒ。
今度こそはと力一杯リリーの腕を掴んだ結果がコレだ。
「…ヴェルナー?」
恐る恐る今でもなお自分の腕を掴んで放さない彼に恐る恐る声をかける。
「上がれ…」
「え?」
「今すぐ岸に上がれ!!」
明らかに目が据わっているヴェルナーに驚いてリリーはアワアワと岸に上がってゆく。
リリーに遅れて岸から上がったヴェルナーは…当たり前だがずぶ濡れだった。
慌ててリリーはウルリッヒの持っていたタオルをヴェルナーにかける。
「大丈夫?寒くない!?」
「お前が体を拭くんだよ!」
ヴェルナーは自分に渡されたタオルをリリーの頭にかぶせると乱暴に髪を拭く。
「痛い!痛いってばヴェルナー」
悲鳴にも近い声をリリーは上げるが、怖くてヴェルナーの顔を直視できない。
…怒ってるよーーーーー。
どうしよう…そりゃぁ、へーベル湖に引き摺り落としちゃったんだし…。
あれこれ考えていると突然ヴェルナーの手が止まったので、恐る恐る顔を上げる。
「…お前が風邪引いたらどうすんだ…」
小さな声でそう云うと、ヴェルナーはリリーの側を離れてさっさとウルリッヒの起した火の側に行く。
…怒ってるんじゃなくて心配してくれてたんだ…ぼんやりとそんな事を考えていると、すぐさまヴェルナーの怒鳴り声が飛ぶ。
「早く火の側に来て服乾かせ!」
「うん」
リリーが火の側に座り込んだ時にはヴェルナーは頭からタオルを被った状態で上着を脱いでいた。
「毛布だ」
「おう」
ウルリッヒの持ってきた毛布を肩から羽織ると座り込みリリーと同じように火に当たる。
「…信じられねぇ…こんな季節に湖にダイブかよ…」
リリーもウルリッヒから毛布を受け取り肩に羽織ると、ヴェルナーの隣にちょこんと座る。
「…何で隣に座るんだよ…」
「え?側にいるほうが暖かいでしょ?」
「…冷え切った体で何云ってるんだお前は…」
呆れながらヴェルナーはリリーを見るが、直ぐに視線を火に戻す。
「にしても…2度も潜って大丈夫なのか?」
ウルリッヒの言葉にリリーは頷く。
「体は丈夫なんですこう見えても!」
「そうか…」
にこやかに云うリリーから視線を僅かにずらし、隣に座るヴェルナーの方へ視線を向けて薄く笑う。
多分リリーよりこの男の方が風邪を引くだろうな…そんな事を思うと自然に笑えた。
それに気が付いて少しむっとしたような表情を見せたヴェルナーだったが、リリーに温かいスープを渡され直ぐにその表情も消える。
が、
スプーンを握った時点で思わず顔を顰める。
手が驚くほど震えて巧くもてないのだ。
リリーの方をチラッと見ると、彼女は黙々とスプーンを動かしスープを胃に流し込んでいた。
…何でお前は平気なんだよ…。
そう云いたいのを堪えながら何とかスプーンを握り締め温かい液体を腹に収める。
体が温かくなってゆくのを感じながらも、次第にそれはヴェルナーに厭な事を認識させざる終えなかった。
恐ろしく体温が上昇し、外界との温度差が辛くなってくる。
…拙い…。
そう思った瞬間、突然自分の体にズシッと重さが掛かった。
驚いて横を見ると、お腹が一杯になって眠くなったのかリリーが寝息を立てていた。
「おい…」
ヴェルナーは空っぽになった食器を置くとウルリッヒに声をかける。
焚き木を火にくべていたウルリッヒは僅かに顔を上げヴェルナーの方を見る。
「リリーを天幕に連れて行ってくれ」
「…そのままでも良いのではないか?」
提案をアッサリ却下されたヴェルナーは思わずぽかんと口を開く。
却下されるとは思っていなかったのだ。
「…風邪がうつる」
僅かに顔を横に向けたヴェルナーを見たウルリッヒは黙って立ち上がり、昼間に張った天幕の下にリリーを寝かせると自分の分の毛布も彼女にかける。その様子をぼんやりと眺めながらヴェルナーは自分が風邪を引いてしまった事を情けなく思う。
「日頃の不摂生が祟ったな」
「…煩い」
ウルリッヒの言葉に顔を顰めて答える。
確かに野郎の一人暮らしという事もあって不摂生極まりない生活を送っているのは確かだ。
しかし、リリーも錬金術師と言う職業柄似たようなものだと思っていたのだが…。
「彼女は2人の育ち盛りの子供を抱えてるからな…なんだかんだ云って食生活などはきっちりとしているのだろう」
ヴェルナーの考えた詠めるかのようにウルリッヒが言葉を発したので、僅かに驚くが直ぐにむっとしたような表情になる。
「風邪が酷くならないように寝た方が良いな。見張りは私が請け負う」
「…頼む」
流石に洒落にならないぐらいの眩暈に襲われたのでヴェルナーは素直にウルリッヒの申し入れを受ける事にする。
***
へーベル湖からの帰途。
リリーは自分の後ろを無言でついてくるヴェルナーに僅かに視線を送る。
この上ない不機嫌そうな顔といい、一切喋らない様子といい堪らなく怖い。
自分の直ぐ横を歩いているウルリッヒの方を見て小声で耳打ちする。
「…ヴェルナーやっぱり怒ってますよねぇ…」
真冬のへーベル湖に引きずり落としてしまって以来、殆ど口も聞いてくれないので予定を一気に繰り上げて帰途に着いたのだ。
ウルリッヒが返事をしようと思った瞬間、視界からリリーが消えた。
慌てて辺りを見回すと、豪快に背中の籠のアイテムをぶちまけて地面に倒れていた。
怒られる!!
余所見をしていたため思いっきり躓いてひっくり返ったリリーは、痛いとかそう云う事よりもまずヴェルナーの怒声を想像して体を竦ませた。
が、
先に声をかけてきたのはウルリッヒだった。
「大丈夫か?」
手を差し伸べリリーを起すとウルリッヒはきょとんとしている彼女に怪訝そうな顔をする。
何時もなら間を置かずにヴェルナーが怒鳴りつけてくる所なのにその様子が無い。
恐る恐るリリーがヴェルナーの姿を探すと、彼は彼女がぶちまけたアイテムを黙って拾い集めると彼女の背負っている籠の中にそれを突っ込む。
「…あ、有難う」
「…」
またしても無言である。
リリーは泣きたいのを堪えながら、残りのアイテムをウルリッヒと拾い集め籠に入れてゆく。
堪らない緊張感が辺りを包み、リリーは荷物を全て拾い終えると出来るだけ早く待ちにつく事を祈りながら早足で歩き出した。
工房の前までやっとたどり着くと、リリーは2人に礼を言って逃げるように工房の中へと入っていった。
それを見送ると、ウルリッヒは隣に立つヴェルナーに声をかける。
「肩を貸してやろうか?」
ぐらりと揺れたヴェルナーの体を手を伸ばし支えると、その異常に上がった体温に驚く。
体調が悪そうだと思ってはいたが此処までとは…よく歩いて来れたものだと感心しながら彼の腕を自分の体に廻し支える。
「…悪ぃ」
久方ぶりに聞いた彼の声は余りにも聞き取り難い掠れたものだった。
思った通り、怒って口を利かなかったのではなく、声が出せなかったのだろう。
「家は何処だ」
聞き取り難いヴェルナーの声を頼りに、彼の雑貨屋の側にある自宅まで彼を支えて運ぶ。
漸く家に着くと、ヴェルナーはポケットから鍵を取り出し、震える手で鍵を開ける。
ヴェルナーの部屋はウルリッヒが予想していたものとは違っていた。
商品が乱雑に置かれている店とは違い、酷く殺風景なものだった。
取り合えず物が無い。
生活に必要最低限の物しか置かれていないような気がした。
…余計なものは店に全て持ち込んでいるのだろう…そう思いながら、ウルリッヒはヴェルナーの指定する部屋に彼の体を運んだ。
寝室は先ほどの部屋よりは幾分物が置いてあった。
本棚・机・椅子・ベッド。
ヴェルナーの体をベットに投げ入れた時に、その直ぐ横にある机に置いてあるものに目が行った。
天球儀
確かそんな名前だったような気がする。以前リリーの工房を訪れた時に見かけたものと同じ形だ。
「コレは?」
「…以前店で売ろうと思って引き取ったんだが…気に入ったから俺が買った」
重い体を何とか動かし、毛布を被りながら云う。
「それでは私は帰る。養生するがいい」
「ウルリッヒ。俺が風邪を引いた事はリリーに云うなよ。ばらしたらへーベル湖に突き落とす」
後ろを向き歩き出そうとしたウルリッヒにヴェルナーがそう云うと僅かに眉間に皺を寄せる。
「彼女に薬を調合してもらえば良いだろう…」
「…俺が風邪を引いたのは不摂生の所為だが…あいつは自分の所為だと思う」
自分が風邪で倒れたと聞けば責任を感じて仕事を放り出して此処に来るだろう。
アカデミー建設という大きな目標を持つあいつの邪魔はしたくない。
「…心に止めておこう」
表情を変えないまま部屋を出てゆくウルリッヒを見送ると、疲労の所為か急激に睡魔に襲われた。
へーベル湖からの帰り道何度倒れそうになったのか既に覚えていない。
ふらつく体を必死で持ちこたえていたが、リリーを工房に送り届けた瞬間気が抜けたのか無様にも立っていられなくなった。
鉛の様に重い体は既に腕すらも動かす事が億劫だった。
2,3日寝てれば回復するだろうか。
そう思いながら重い瞼をゆっくりと閉じた。
***
困った事に病気になろうが、寝ていようが腹は減る。
深い眠りに落ちていたヴェルナーを急激に揺り起こしたのは何処からともなく漂ってくる良い匂いだった。
多分近所の人が飯でも作っているのだろうと思いながら寝返りを打つ。
思ったより体は軽い。
…窓…開けっ放しだったっけか…
余りにも急激な空腹に晒され、何とかその良い匂いを遮ろうかと考える。
昨日まで採取作業に行っていた上に、買い物すら侭ならない状態で家に帰ってきたのだからキッチンには食材らしい食材はない筈だ。体は幾分ましだが、とても買い物に行けるような状態ではない。
…窓…閉めるか…
ベッドからそう遠くない窓を閉めるぐらい昨日ならいざ知らず、今なら多分何とか出来る。
そう思ったヴェルナーはまだ少し重い瞼をゆっくりと開く。
2人の子供。
金と銀のオッド・アイ。
視界に飛び込んできた予想外の光景に思わず体が動かなくなる。
2人の子供が自分に顔を覗き込んでいたのだ。
「な…」
昨日よりは幾分かましになった声を思わず上げてしまう。
何でイングリドとヘルミーナが此処に…廻らない頭をたたき起こし冷静になって事を順番に追う。
そうしてる間に、二人の子供は互いに顔を見合わせ笑うと、トタトタと扉の方に向かい声を上げた。
「先生ーーー。ヴェルナー起きたよー」
その言葉に思わずヴェルナーは頭を抱えたくなる。
…ウルリッヒの野郎…
彼女達が此処に居るという事は必然的にリリーが此処に居るという事になる。
バレたのだ彼女に。
自分が倒れた事が。
ゆっくりと寝室の扉が開くと、トレーを持ったリリーがゆっくりと部屋に入ってくる。
…窓が開いてた訳じゃなかったのか…まだ急激な展開についていけない頭でぼんやりとそんな事を考える。
「良かった…全然起きないから…」
僅かに彼女の琥珀色の大きな瞳が揺れたのが見えて思わず渋い顔になる。
その顔が見たくなかったのに。
「…イングリド達が教会でウルリッヒ様にヴェルナーが倒れたって聞いて、態々私の所に知らせてくれたのよ。
もう…何で云ってくれなかったの!!」
トレーを机に置くと、怒った様な…そして泣きそうな顔をしてリリーは机と対になっている椅子を出してきてそれに座る。
「…大した事ないと思ってたんだよ…」
我ながら酷い声だと思いながら云うと、リリーは黙ってしまう。
すると、イングリドとヘルミーナはリリーの服の裾を引っ張って先生、と声をかける。
「何?」
「えっとね、午後から友達と遊ぶ約束してるから先に帰るね」
「…そう。私も夕方には工房に帰るから」
「はい。じゃぁ、夕飯の買い物もしておきますね!」
そう云って2人は元気良く駆け出した。
それを見送るリリーの表情は、先程よりは幾分かましだった。
「…取り合えず勝手にキッチン使ったけど…食べて」
くるりと振り返ったリリーは机の上に置いていたトレーを差し出す。
ヴェルナーは重い体を起してそれを受け取ると、彼女の方を向く。
「…何もなかったろキッチンに」
「そうよ。だからうちの夕飯にするつもりの食材使ったの」
トレーの上に乗せられたスープ皿には先程ヴェルナーを空腹でたたき起こした匂いの元があった。
湯気を上げている温かそうなスープをスプーンで口に運ぶ。
「どう?美味しい?」
「…まぁまぁかな」
とは云ったが恐ろしく美味かった。
固形物は体が受け付けないかもしれないからスープを作ってくれたのだろう。
とき卵の入ったアッサリめのスープは空腹だった事もあってあっという間に胃の中に収まった。
…この卵…
「…まさか…オーレの卵か!?」
「そうよ。体力つくし良いかなぁって思って」
ヴェルナーは思わず頭を抱えたくなる。
オーレの卵といえば自分の店でも取りあつかってるから知っているが、恐ろしく高価なものなのだ。
リリーはよく購入に来るが、まさか自分で食べる日が来るとは思ってみなかった。
そう考えながらふと浮かんだ疑問をリリーに訊く。
「…お前まさか…うちで買ってる卵…晩飯に使ってるとか?」
「全部じゃないけど…余った分は使うよ。ヘルミーナ体弱いから良いかなぁと思って。美味しいでしょ?」
リリーのその外見に似合わないバイタリティーは紛れもなくその食生活から来たいた様だ。
おかしいと思ったのだ。幾ら錬金術で必要だと言っても、他のどのアイテムより買われている事。そしてヴェルナー自身リリーの作ったアイテムの中でオーレの卵が使われたと思われるアイテムを見たことがない事。
…半分以上はこいつの胃の中かよ…思わず苦笑してしまう。
それを見たリリーは首をかしげると、空になった皿が乗ったトレーをキッチンへ運ぶ。
そして、
戻ってきたリリーがトレーの代わりに手に持っていたのは…栄養剤の瓶だった。
無論リリー自身が調合して物だろうし、ならばバッチリ効くだろうが…ヴェルナーは眉間に皺を寄せた。
「はい。コレも飲んでね」
渡された瓶を暫く黙って彼は眺めていたが、それを本の積みあがった机の上に置くと一言、厭だ、と言った。
流石にこの反応は予想していなかったのか、リリーは大きく瞳を見開く。
「え!?何で?」
「苦いから厭だ」
そう、良く効く代わりに恐ろしく不味いのだ。
コレはリリーの腕をもってしてもどうしようもない事で、良薬口に苦しと云った所なのだろう。
彼の子供のような言い訳にリリーは呆れたような表情を見せる。
「そんな事言わないで飲んでよ!ただでさえヴェルナー一人暮らしで栄養偏ってそうなんだから!」
「…じゃぁお前が嫁に来い」
沈黙
見る間に赤くなるリリーの顔を見てヴェルナーはベッドに再び寝転がるとリリーに背を向ける。
「…嘘に決まってんだろ」
ヴェルナーが背を向けたままそう云うと、突如背中に何か物が当たった。
驚いて体を起してリリーの方を向くと、真っ赤な顔をして机にあった本を手当たり次第彼に投げつけてくる。
「からかったのね!!馬鹿!!」
「お前!!病人に何てことすんだ!」
容赦なく投げつけられる本を何とかかわしながらそう云うが、リリーは一向に聞く耳持たないらしい。
「…ったく!お前そんなんだから行き遅れるんだよ!」
「し…失礼ね!!まだそんな年じゃないわよ!!」
更に神経を逆撫でしてしまったようで、リリーは更に怒り出す。
机の上の本を全て投げ尽してしまった彼女が次に手にしたものを見てヴェルナーは瞳を大きく開く。
「それは駄目だ!!!」
流石に頭に血が上ったリリーも病人とは思えない彼の怒鳴り声に思わず身を竦ませると、自分が無意識に手に持っていた物に視線をやる。
「…天球儀…」
リリーが天球儀を自分の胸の前に降ろすと、ヴェルナーはホッとしたような表情を見せる。
「お気に入りの品までぶっ壊されたんじゃたまらねぇからな…」
その言葉にリリーは僅かに俯く。
「大事にしてくれてたんだ…コレ…」
「当たり前だろ。高かったんだから」
「…売れ残ったからヴェルナーが買ってくれたんだと思ってた…」
まだ、この街に来たばかりで錬金術も広まっていなかった時に、彼が自分の店で売るといってもって帰ったのだ。
暫くして廻して遊んでるうちに愛着が湧いたとかいって彼が買い取ってくれた。
「云ったろ。気に入ったって。…何人か欲しいっていう奴が居たんだがな…俺はお気に入りを売るほど良く出来た店主じゃねぇ」
流石に大声で怒鳴りつけてしまったのが恥ずかしいのか、ヴェルナーは外を向く。
リリーは手に持っていた天球儀をそっと机に戻すと、ストンと椅子に座り俯く。
「…御免ヴェルナー…かっとなっちゃって…これじゃぁ行き遅れてもしょうがないか…」
大きな琥珀色の瞳が揺れるのを見てヴェルナーは顔を顰める。
厭だ。
この顔が見たくないのに。
何で俺はこいつを泣かせてばかりなんだ。
ヴェルナーはスッと手を伸ばすと、リリーの頭に手を添え自分の方に引き寄せる。
初めは何が起こったのか解らなかったリリーだが、自分の額がヴェルナーの肩に当たったのを理解して思わず上を向こうとするがそれは適わなかった。
ヴェルナーはコレでリリーの泣き顔を見なくて済むと満足げだったが、リリーは恥ずかしさの余り体温が上がってゆく。
そのうち彼の体温さえ超えてしまうのではと気が気じゃなかった。
「…お前は海を越えてこの街まで何しに来たんだ…」
自分の直ぐ側で聴こえる声にリリーは更に顔を赤くするが、僅かに思考して答える。
「錬金術を広める為。アカデミーを建てるの…」
「じゃぁ、別に行き遅れても問題ないだろ。お前にはやる事が沢山あるんだから」
「…うん」
「…そんなに行き遅れが心配だったら俺が貰ってやる」
驚いて顔を上げようとするが、まだ確り頭を抑えられたままで身動きすら巧く取れない。
何時まで待っても、
『嘘に決まってるだろ』
の言葉は…ない。
「さっさとアカデミー建てちまえ」
そう云って漸くリリーを開放すると、彼女の顔を見て笑う。
リリーは恐らく真っ赤であろう自分の両頬に手を当ててじっとヴェルナーの方を見ている。
「…うん」
漸く彼女がそう返事したのを聞いてヴェルナーはさっさと仕事にもどれと云って本を退かしながらベッドに横になると彼女に背を向ける。
「…有難うヴェルナー…早く元気になってね」
結局彼はリリーの方を向かなかったが、手をヒラヒラと振った。
彼女が部屋を出て行ったのを確認すると、ヴェルナーは再び体を起し、本を机の上に戻す。
「…礼を言うのはこっちだよ」
そう呟きながらふと、机の上に置かれた栄養剤に視線を止める。
僅かに厭そうな顔をしたが、それに手を伸ばし蓋を開ける。
「明日にはカウンターに座ってられる位になってなきゃならねぇしなぁ…」
一気に栄養剤を飲み干すと、空瓶を机の上に戻す。
独特の苦い味が口の中に広がるのに顔を顰めながら再びベッドに寝転がる。
お腹が一杯だという事もあって直ぐにうとうととしだす。
さっきのリリーの反応は満更でもないって事だろうか…そんな事を考えているうちに深い眠りに落ちた。
***
立て付けの悪い扉が開いて、本日のお客…否、冷やかし1号が雑貨店に入ってきた。
カウンターに肘を置いて本を捲るやる気の無い店主に彼は僅かに苦笑しながら口を開いた。
「回復したようだな」
ヴェルナーは彼…ウルリッヒを一瞥するとあからさまに厭そうな顔をしてまぁな、と言い放った。
「…へーベル湖に叩き落すからな…」
そう云ったヴェルナーの顔を見てウルリッヒは心外そうな顔をして約束を違えた覚えは無いというが、それが異常に腹が立った。
約束は『リリーには云うな』というものだった。
つまり、イングリド達に話した事は約束をたがえた事にはならない。
ヴェルナーは『リリーに知られないようにしろ』と云えば良かったと心底後悔しながらウルリッヒを眺める。
彼は、多分イングリド達の口からリリーに伝わるのを見越して彼女達に話をしたのだろう。
「アンタのお陰でクソ不味い栄養剤飲まされたんだ…覚えてろよ…」
「…」
無言だったが…口元はあからさまに笑っていた。多分ヴェルナーが彼女に言寄られてしぶしぶ栄養剤を飲んだ所でも想像したのだろう。
それに僅かに眉間に皺を寄せると、ヴェルナーは本を閉じ背もたれに体重をかける。
「お前が元気になったのなら彼女も喜ぶだろうな」
違和感。
ずっと以前から感じていたそれが何なのか今のウルリッヒの言葉でぼんやりと理解できた。
「…リリーの事が好きなのか?」
思わず心に浮かんだ事を口に出して、僅かにヴェルナーは後悔する。ウルリッヒの表情が消えたからだ。
多分当たりなのだろう。
ならば何故、彼は自分の所にリリーが来るように仕向けたのだ。
「…そうだな…」
「理解できねぇな。アンタの行動は」
「…結婚式で…仲介役をやってみたかったと云えばお前は信じるか?」
そう云うと彼は僅かに口元で笑った。
リリーに好意を持っているからこそ、彼女の瞳が誰を追っているのか直ぐに解った。
もう少し早く彼女と出会っていれば或いは…とも思ったが、多分それでも彼女はこの男を追うのだろう。
ならば、
少しでも彼女が幸せであって欲しいと思うのは自分を誤魔化しているだけなのだろうか。
彼と幸せになれば諦めきれるのだろうか。
再び立て付けの悪い扉が開いたのに気がついて、2人は視線を扉の方に向ける。
「おはようヴェルナー!あっ、ウルリッヒ様もおはよう御座います!昨日は態々有難う御座いました!」
綺麗な琥珀色の瞳が此方を向いている。
小走りにウルリッヒの隣に立ったリリーは自分より背の高いウルリッヒを見上げてお辞儀をした。
「…私も彼のことが心配だたからな…お前が行ってくれるのなら安心だと思ったのだ。…それでは私は公務に戻る…」
「はい!頑張って下さいね!」
カウンターの側を離れるウルリッヒを見送ると、リリーはクルッとヴェルナーの方を向くとニッコリ笑う。
「良かった。元気になったのね」
「…あんな不味い栄養剤飲まされて直らなかったら詐欺だって訴える」
「…飲んでくれたんだちゃんと。あんまり駄々捏ねるからてっきり捨てたんだと思ってた」
目を丸くするリリーを一瞥すると、ヴェルナーは立ち上がって今日の入荷リストを手渡す。
「捨てる訳ねーだろ。お前が作ったもんを」
「有難う…」
僅かに顔を赤くしてリリーが答えるとそれをぼんやりと眺める。
彼女は直ぐに商品リストに視線を落とすが、それを眺めているうちにふと頭に浮かんだ事があった。
「白だなヤッパリ…」
「え?」
「何でもねぇよ。今日は何買うんだ」
リリーが帰った後、ヴェルナーはカウンターに突っ伏するとうとうとしだした。
まだ本調子でないのもあるが、普段も大抵彼女がいない間は本を読んだり居眠りしたりで時間を潰す事が多い。
泡沫の夢を見た。
純白のウエディングドレス。
それを纏った琥珀色の瞳をした女は幸せそうに此方を見て微笑んでいた。
>>あとがき
ヴェルナー風邪を引くの回で御座います(笑)
体力なさそうだし、リリーの方が俄然体強そうなんで風邪を引く役はヴェルナーになりました。
…オーレの卵食って元気になれよと思わず生温かい視線を彼に送ってしまいました…。