*虚構之空*
霊子虚構世界にて行われる聖杯戦争では、最終的にはたった一人のマスターしかこの虚構世界から脱することは出来ない。生き残るのはたった一人だけ。
そんな中、他のマスターの部屋を訪れると言う事は非常に稀な事である。
「……ふーん。こんな感じなんだ」
赤い娘……遠坂凛の言葉に、栗毛のマスターはニコニコと笑って頷いた。本来なら生き残るために殺し合わねばならないマスター同士が友好関係を結ぶというのはありえない。けれど、遠坂凛は既にサーヴァントを失い、マスターとしての権利を失っている。
本来はあってはならないイレギュラーであるし、遠坂凛自体も、そのイレギュラーを引き起こした栗毛のマスターに対し腹を立てた事もあった。
サーヴァントを失ってなお生存する事が無様だと。
けれど、自らデータをルール通り消去する気にならなかったのは、己のサーヴァントが最後までマスターを守るために戦い、『マスターを頼む』と言葉を残したからであろう。
無様であっても、生き延びて、聖杯から脱出する。そして、聖杯をレオに渡さないためにも、自分を助けた常識はずれのマスターを手助けする。そう遠坂凛は決めたのだ。
「あら。ティーセットなんか持ってるの?」
部屋の卓に置かれているティーセットに視線を落として凛が言葉を発すると、彼女は、藤村大河のお願いを聞いたら譲ってくれたのだと嬉しそうに笑った。生きるか死ぬかの聖杯戦争の合間に、NPCである教師の頼みごとまで引き受けていたとは、と呆れ顔の凛であったが、ポツリと言葉を零した。
「うちのランサーも良く淹れてくれたわ」
その言葉に栗毛のマスターは、何か小声で言葉を零した。姿を消しているサーヴァントと話をしているのであろうと思い、凛はぼんやりとその姿を眺めていたが、目の前に赤い聖骸布を纏ったサーヴァントが現れたので、少し驚いたような顔をする。
アーチャーであることは知っていたし、アサシンに破壊された彼の魔術回路を修正するために、仮契約もしたことがある。けれど、彼の正体自体は凛は解らなかった。ただ、矢鱈と自分の魔力と相性がよく、仮契約の時も驚くほどすんなりと行ったのだ。
アーチャーがティーセットを持って奥へ引っ込んで行ったのを見て、凛は目を丸くする。
「アイツがお茶淹れるの?」
凛の零した言葉に、栗毛のマスターは大きく頷くと、とても上手なの、と柔らかく笑った。てっきり自分の所のサーヴァントの専売特許だと思っていたのに、少し悔しいと思いながら、凛は適当に選んだ椅子に腰を下ろした。
──一度機会があれば、アイツの淹れたお茶、飲んでみろよ。きっと気に入るぜ。
どうしてランサーがそう言ったのか凛には解らなかったが、こうやってお茶を淹れているのを見ると、当てずっぽうでも無かったのだろう。
基本的に相手のサーヴァントの事はマスターが調べるルールになっている。サーヴァント同士が、例えば同郷で知り合いだった場合でも、サーヴァントは相手の情報をマスターに与えることは出来ない。それは、この虚構世界の聖杯が敷いたルールなのだ。不公平がないように。あくまでマスターが聖杯に相応しいか見極めるための聖杯戦争であるのだから、サーヴァントの知識量で優劣をつけるのは不公平だとも考えたのだろうか。ある程度導くことはできても、明確な正解はマスターに与えることができないと、ランサーは言ってた。それと同時に、あの赤いサーヴァントの真名等探るのは無駄から止めておけとも言っていた。
どこまでのヒントがセーフなのか凛は解らなかったが、いつもランサーはセラフに目を付けられない程度に導いていてくれた事を思い出し、思わず俯く。
結局自分の力量不足でランサーを失った。
アトラス院のホムンクルスが自爆するという暴挙に出るのを予測できなかった。
──今回は俺が勝つさ。なんてったて、最高のマスターを引き当てたんだ。ざまーみろってんだ。
アーチャーの姿を目視した、己のサーヴァントの零した言葉の意味を今更ながら考えて、凛は己の不甲斐なさを呪った。あんなにも彼は再戦を楽しみにしていたというのに、あんなにも嬉しそうな顔をしていたというのに。そう考えると、戦えなかった事がこんなにも悔しかった。
暗い表情をしていた凛に気が付き、栗毛のマスターが心配そうに顔を覗きこんだので、凛はなんでもない、と笑い赤いサーヴァントが戻ってくるのを待った。
暫くして戻ってきたアーチャー淹れた紅茶が卓に置かれ、栗毛のマスターは少しだけ首をかしげ、彼を見上げた。すると彼は少しだけ笑って口を開いた。
「今日は宗旨替えをしてみた」
紅茶と共に添えられているのは、ガラス瓶に入ったミントの葉。凛は砂糖とミントをたっぷり紅茶に入れると、それを口に含んだ。
煮だした紅茶に砂糖とミントをたっぷり入れるのは、凛が拠点としてた中東で良く見られる飲み方である。それをアーチャーが知っていたのにも驚いたし、それは本当に懐かしい味で、凛は思わずため息を零した。
「……美味しいわ」
「君の口に合ったようで何よりだ」
さっぱりした後味は非常に心地よく、凛は瞳を細める。あぁ、本当に美味しい。けれど、自分が欲しかった紅茶とは少し違う、そう思った事が凛は酷く悲しかった。
すると、栗毛のマスターは何やら箱を開けたが、それを覗きこんで露骨にがっかりしたような顔をすると、少し待っていてと言い残し、部屋を出ていった。
「ちょっと!校内歩きまわるならサーヴァント連れていきなさい!」
慌てて凛が声をかけるが、聞こえなかったのか、彼女はぱっと姿を消してしまう。恐らく座標設定されたショートカットを使ったのだろう。
「……ふむ。購買部に行ったようだな」
マスターと繋がっているアーチャーがパスを確認して言うと、凛は呆れたような顔をして、彼女が覗きこんだ箱に視線を送る。ほんの少しだけ残ったクッキー。二人分には足りない。要するに、茶菓子を調達しに行ったのだ。
ショートカットを使って購買部と部屋を行き来するぐらいならば危険は少ないかもしれないが、サーヴァントを傍から放す事に凛は呆れたような顔をすると、紅茶を飲み干した。
「全く……危機感が足りないんだから……」
「私も言って聞かせてはいるんだがな」
その言葉が酷く可笑しく感じて、凛は思わず表情を緩めた。まるで子供に対するような言い草だっからだ。ただ、アーチャーの気持ちは凛も解らないではなかった。聖杯戦争に参加した理由も、地上における己の記憶も全て喪失した異端のマスター。それでも彼女は必死に戦い、生き残った。理想も、夢も、希望もなく。ただ、生きるために戦っていた。生きるために他人を蹴落とすのは、今の地上では日常茶飯事であるが、それでも、彼女は優しさを忘れずに居続けた。
それはとても貴重で、きっと尊い物なのだろう。そう思って、凛は僅かに瞳を伏せる。
だからこそ、彼女に聖杯を手に入れて欲しかった。
ぼんやりとそんな事を考えていると、アーチャーが新しい紅茶を淹れて戻ってきた。鼻孔をくすぐる香りに顔を上げると、先程凛の飲み干した紅茶とは違う種類の紅茶が卓に置かれており、彼女は驚いたように顔を上げた。
濃い目の紅茶にたっぷりのミルクを入れたであろう、深いベージュ色。
凛は黙ってそれに口を付けると、瞳を揺らして俯いた。
「……どうしてこの紅茶を選んだの?」
「彼はこの紅茶の淹れ方しか覚えなかったからな。まぁ、あの土地での水と相性が良かったのもあるが」
それは凛のサーヴァントが好んで淹れたアイリッシュスタイルの紅茶であった。ティーバッグで淹れた時は期待はしていなかったが、飲んでみると、非常に美味しいもので凛もはじめは驚いた。けれど今まで飲んでいたものとは又違う味を凛は気に入って、いつも淹れさせていたのだ。
「返事はセラフの規制に掛からない程度でいいわ。……ランサーと知り合いだったの?」
「彼の光の御子とは腐れ縁でね。私が英霊になる前と、英霊になった後に殺し合いをしている。勝率は、お互いに殺しきれなかったと言う意味では、引き分けにしておきたいところだが」
些かげんなりしたようにアーチャーが言葉を零したので、凛は、彼の様子を伺いながら言葉を選んだ。どうやら既に存在しないサーヴァントに関しては、セラフも強くは情報規制をかけないらしい。そして、凛自体が既に聖杯へ至る資格を失っている存在であることも大きいのかもしれない。
「同郷?」
「私はそんなに霊格の高い英霊ではないよ」
咽喉で笑ったアーチャーを見て、凛は目を丸くした。自分を卑下している訳ではなく、恐らく本当にそうなのであろう。けれど、そうやって笑ったアーチャーを見て、そう悪い気はしなかった凛は、そっか、と呟いてカップを両手で持った。
「ランサーがね。貴方との再戦を楽しみにしてたの」
「それは光栄だな。彼も久々に最高のマスターを引き当てて、勝つつもりでいたのだろう」
「……そうね。ざまーみろって言ってたわ」
凛の言葉にアーチャーは少しだけ驚いたような顔をすると、暫くは黙っていたが、瞳を細めて笑った。
「嬉しそうね」
「彼には死んでも言いたくはないがね、私が生まれて初めて見た英霊が彼だったんだよ。私が憧れた英霊のうち一人は彼だったからな。その英霊と対等に戦えるようになったことは、そう悪い気分ではないし、認められたのは純粋に嬉しく思うよ」
同郷でもない。そして、生まれて初めて見た英霊がランサーであった。その二つの言葉を聞いて、凛は少しだけ考えこむと、恐る恐ると言ったように口を開いた。
「貴方……もしかして、聖杯戦争初めてじゃないの?マスターとしても、サーヴァントとしても参加したことあるの?」
「私は少し特殊でね。彼の光の御子は、英霊の座から分身を落として月の聖杯に呼ばれたようだが、私は、英霊の座にいた本体が分身をよこさなかったらしい。だから、聖杯がとある概念を元に英霊の座にある本体をコピーしてサーヴァントとしたようでね。厳密に同じではないんだが……まぁ、似たようなものだろう。話を戻すが、私のモデルとなった英霊は、そうだな、この月の聖杯戦争のモデルとなった極東の聖杯戦争に、生前マスターとして参加して、英霊になった後にサーヴァントとして参加したようだ」
アーチャーの言葉を聞き、凛は信じられないというような表情を作った。マスターもイレギュラーだと思っていたが、サーヴァントの方もイレギュラーだったらしい。そもそも聖杯戦争で、聖杯が英霊を招くと言うシステムをとっているのは凛も理解していたが、本体である英霊が分身を落とさなかったが故に、聖杯自体がサーヴァントを似せて作っているとは思わなかったのだ。
「ちょっとまって。何で貴方の本体は分身をよこさなかったの?」
「聖杯にかける望みがもう彼には無かったのだろう」
「極東の地での聖杯戦争で、聖杯に至ったってこと?」
「いや。聖杯には至らなかった。……そうだな、もうその望みは不要になったという事だ。元々サーヴァントとは、聖杯に望みがあって初めて呼び出される。マスターに力を貸す交換条件の様なものだな。……月の聖杯はマスターの望みしか叶えないが、寧ろそれの方がイレギュラーなのだよ。恐らくこの月の聖杯の呼ばれたサーヴァントは、聖杯に望みをかけると言うよりは、聖杯戦争に挑むことによって、己の望みが達成されるタイプの英霊ばかりだと私は勝手に思っていたがね。その様な意味では、うちのマスターに丁度いい英霊が、記憶の欠損のお陰で選定されず、マスターが望んだとある概念に一番近い英霊を聖杯がセレクトして、無理矢理サーヴァントに仕立てあげた……と言う感じなのかもしれんな」
淡々と喋りながら、アーチャーはそうか、と納得したように頷いた。彼自身も、月の聖杯が彼の記憶にある聖杯戦争と、システム的に違うという事に違和感を感じていたのだろう。
「一人で納得しないでくれる?」
「いや、済まない。私自身も呼ばれたからには力を振るうつもりではあったのだが、いかんせん勝手が違いすぎたのでね。本来聖杯に触れられるのは同じ霊体のサーヴァントだけなのだが、ここの聖杯は寧ろ、サーヴァントよりも本体を持つマスターの方が重要視されている。観測機で、願望機である聖杯が必要としているのはあくまで人の子なのだろうな」
「あくまでサーヴァントは人の子の力を測るオプションってわけ?」
「極端に言えばな。だから聖杯自体を必要とする英霊や、望みなどない英霊は招くことが出来ないのだろう。あくまで、聖杯に挑む過程で望みが叶うタイプのサーヴァントが招かれているのではないか?」
「……それって、ランサーもそうだったの?」
凛が呟くと、アーチャーは当然だと言わんばかりに頷いた。
「彼は極東の土地でも聖杯自体には興味はなかったよ。もっとも、マスター運が悪すぎて、満足行く結果を出せたとも思えんがな。だから、月の聖杯にも喜んで招かれたのだろう」
その言葉に凛は俯くと、小さく言葉を零した。
「……ランサーの願いって何だったのかしら。私……アイツに何にもしてやれなかった気がする。一緒に頑張ろうって言ったのに」
思わずカップを抱える手に力を込めた凛を眺め、アーチャーは瞳を細め、少し思案した後に口を開いた。
「心配せずとも彼の望みは十分に叶っている」
「え?」
驚いたように顔を上げた凛を見下ろして、アーチャーは困ったように笑った。
「彼は、君というマスターを得たことで、望みを一つ叶えた。そして、君の元で存分に戦うことで、更に望みを一つ叶えた」
「……そんな事?」
「あぁ。望みなど他から見ればそんなものだ。……さぞかし君というマスターを得て、彼は喜んだだろう。そして、きっと私と正面切って対峙することがあればこう言っただろう、『ざまーみろ』とな」
先程とは打って変わって、不快そうに顔を歪めるアーチャーを見て凛は思わず吹き出した。
「なにそれ?そんなにアーチャーに自慢したかったの?」
「恐らくな。それ程彼にとって【遠坂凛】という存在は大きいと言うことだ。独り占めできてさぞかし気分が良かっただろう。消える前に一発打ち込んでおけば良かった」
「ちょっと!私のランサーに止めてよ!」
驚いたように声を上げた凛を見て、アーチャーを淡く笑った。きっと極東の土地で彼の光の御子もこんな気分だったのだろう。【私のランサー】そう呼ばれただけでも彼は満足だったかもしれない。同じだが違う【遠坂凛】。きっと聖杯が【正義の味方】という数多の概念の中で、【無銘の英霊エミヤ】を選んだのは、遠坂凛とランサーが先に呼ばれていたのかもしれない。縁のある英霊をセレクトしたのだろう。そうぼんやり考えながら、アーチャーは肩を竦めた。
「冗談だ」
「……え?アレ?何で私を独り占めするのをランサーがアンタに自慢するの?」
「さてね。そこはセラフが規制をかけそうなので控えておく」
絶対嘘だと思いながら、凛はアーチャーを見上げたが、喋る気もなさそうなので諦めて小さくため息をつく。
カップに残った紅茶に視線を落としながら、凛は小さく言葉を零した。
「ありがと。なんかすっきりしたわ。やっぱりランサーの事はショックだったみたい。優しくて、強くて、ちょっと余計なことしゃべり過ぎるけど、私とは凄く相性良かったの。正直言うと、凄く好きだったわ。だから、彼と勝ち抜きたかった。聖杯には至れなかったけど……彼の望みがちょっとでも叶ってたなら……凄く嬉しい」
それでも、矢張り自分が至らなかったせいだと思うと悔しくて、凛はハラハラと涙を零した。人前で泣くことなど殆ど無かったが、どういうわけで、このサーヴァントの前でなら素直に泣けた。すると、アーチャーは少しだけ迷った様な顔をしたが、恐る恐ると言ったように手を伸ばして、彼女の頭を撫でた。
「……私とマスターで君は必ず地上に返す。だから、どうか、彼のことはずっと忘れないでおいてやってくれ」
「うん。約束する。だからアンタ達も負けないでね」
「諒解した」
恥ずかしそうに涙を拭きながら笑った凛を見て、アーチャーは満足そうに瞳を細めた。
屋上で0と1で編みあげられた空を眺めながら、凛は大きく息を吐き出した。あの後戻ってきた栗毛のマスターは凛が泣いていた事に驚いていたが、ランサーの話をしていたのだと言うと、困ったように笑っていた。
新たに淹れられた紅茶と、買い足されたクッキーをごちそうになった凛は、いつも通り屋上に戻り空を見上げる。
空を見ても、海を見ても、ランサーは賑やかであった。釣りがしたいだとか、極東の土地で見た月は綺麗で、故郷の月と同じだったとか、他愛のない話も多かった気がして、凛は思わず瞳を細めた。きっと彼はいつだって全力で色々なものに触れていたのだろう。生前の彼がそうであったように、駆け抜けるように己の目の前を通り過ぎた英霊。
「……もう少しゆっくりしてくれれば良かったのに」
けれど、彼は凛の中に鮮烈な色を残していった。死ぬまで足掻けばいい。やれなかったことを後悔するぐらいならば、全力でやって失敗したほうがいい。
「頑張るわ。私なりのやり方で」
聖杯には永遠に届かなくなったが、まだ終わったわけではないと凛は心の中で呟き、虚構の空を見上げた。
EXTRA
槍凛いいよね!
20120429