*決戦日零*

 己を身体が消えるのを知覚しながら、セイバーはぼんやりと己の身体を抱く少年に視線を送った。
 涙を零す少年。
 あぁ、そうか、私の聖杯戦争は終わったのだな。そう感じて、ただ、聖杯へ至れなかった事への無念と、己が最後まで守れなかったマスターへの思いで心は一杯になった。
 【正義の味方】になりたいと言った少年。彼はセイバーの王の選定をやり直すという望みは否定したが、それでも、一緒に戦い続けた。傷つきながら、血を吐きながら駆け抜けた数日。ふと、顔を横に向けると、同盟を組んで共に戦った遠坂凛と【黒い】弓兵がこちらを眺めていた。今にも泣き出しそうな赤い娘の顔。彼女は厳しかったが、優しかった。願わくば、私のマスターをどうか、生かして欲しい。そう口にしようと思ったが、思うように声は出なかった。
「……セイバー」
 零れた己のマスターの声に、彼女は少しだけ口元を緩めた。
 空っぽの魂に懐いた綺麗な理想。己の剣を奉ずべきと定めたマスター。彼の零す涙が暖かくて、ただただ、もう少しこのままでと祈りたくなった。
 あのカムランの丘で己が死に至る時に、一体どれだけの人が涙を流してくれたのだろうか。
 同胞にも、国にも、息子にさえも裏切られた愚かな王。
 けれど、目の前の少年は、彼女のためだけに泣いてくれていた。それが酷く嬉しくて、心地よくて、どうして彼と共にもう少し歩めなかったのかと、己の不甲斐なさをセイバーは呪った。
「御免……セイバーを守れなかった……」
 違う。謝罪すべきは己だ。そう声にしたかったが、ヒューヒューと無様に喉を鳴らすだけだった。もう残された時間はない。だから、最後に伝えたかった。どうか生きて欲しいと。どうか、貴方は、幸せになって欲しいと。

 そうして、セイバーの【一度目】の第五次聖杯戦争はあっけなく幕を閉じた。

「……問おう。貴方は私のマスターか」
 己を見上げる少年の顔を眺め、セイバーは酷く混乱した。また聖杯に呼ばれたと言う事は理解していた。けれど、何故また、同じマスターに呼ばれたのだろうかと。けれど、直ぐにその考えをセイバーは否定した。
 姿形は同じの筈なのに、どうしてか違うと感じた。きっと彼も【正義の味方】への理想を胸に抱いているのだろうが、彼は己の鞘ではない。何故かそう感じた。
 けれど聖杯は欲しかった。だから共に戦うことにした。【二度目】の第五次聖杯戦争。だからきっと今度は上手くやれるとセイバーは思っていたのだ。
 ランサーを追い払い、外敵の気配を感じたセイバーは、外へと飛び出していった。恐らく遠坂凛であろうが、今度もまた同盟を組むとは限らないと判断し、一応の警戒を払ったのだ。
 セイバーの一撃を弾き返した遠坂凛のサーヴァントを見て、セイバーは目を丸くした。【赤い】弓兵。流石に全く同じと言うわけには行かないのか。そう思い、大きく剣を振りかぶった所で、マスターである衛宮士郎の声が響き、セイバーはその動きを止めた。

 その後、遠坂凛と衛宮士郎は同盟を組み、聖杯戦争を少しずつ進めていった。
 ただ、気になったは、遠坂凛のサーヴァントである。自分の知っている彼女のサーヴァントは黒衣の弓兵であった。けれど、今回は赤い聖骸布を纏った弓兵で、真名も当然解らない。もしも敵に回った場合、一番手こずる様な気がして、セイバーはずっと彼の姿を観察していた。
 殆どは霊体で過ごしている赤い弓兵であるが、時折凛と話をしている姿を見かけた。その姿に、何故か心がざわめくのを感じ、セイバーはぐっとそれを押さえ込む。
 けれど、その心のざわめきの理由は突然セイバーの中で氷解した。
 それに気がついた時は、泣きたくなるほど嬉しかったが、それと同時に、どうして、と言う気持ちになった。
 【投影魔術】に特化したサーヴァント。
 衛宮士郎に対する、憎悪にも似た感情。
 そして何よりも、彼の中に存在する宝具。
「アーチャー」
 屋根の上で敵の警戒をする遠坂凛のサーヴァントにセイバーは声をかける。それにアーチャーは僅かに眉を寄せたが、セイバーの所まで降りてきて、なんだね?と短く声を落とした。
「貴方の真名を聞きたい」
 セイバーの真っ直ぐな言葉に、アーチャーは不快そうに眉間の皺を深めて口を開いた。
「今は凛が君のマスターと同盟を組んでいるが、それは……」
「バーサーカー討伐までですね。解っています」
「ならば、いつか敵対するサーヴァントに私が真名を教えると思ったのかね?」
「……では質問を変えます。貴方は何故聖杯を望むのですか?」
 その言葉にアーチャーは眉間の皺を更に深くする。セイバーが何故そんな事を言い出したのか理解できなかったのだろう。
「私は聖杯に願う望み等ない。君が信じるか否かは勝手だがね」
 呆れたような、それでいて、どこか投げやりに返答したアーチャーを見上げて、今度はセイバーが逆に眉間に皺を寄せた。
「最後に。何故貴方は【衛宮士郎】を殺したいのですか?」
 不快そうに歪められていたアーチャーの顔から表情が消え、彼の鋼色の瞳は冷たくセイバーを見下ろした。
「……マスターを守るために、ここで私を排除するかね?」
「初めはそうしようかとも思っていましたが……そうですね、きっと私にはそれは出来ない」
 セイバーは翠色の瞳を細めて、困ったように笑った。けれど、アーチャーは相変わらずの表情で、セイバーを眺めている。私を殺すことを考えているのだろうか、それとも、別の事を考えているのだろうか。そう思いながらセイバーは口を開いた。
「私の聖杯への望みは【王の選定のやり直しです】」
「……己の真名へのヒントを私に喋るなど、どうかしたのか君は」
「もう貴方は私の真名を知っている。そして、私の聖杯への望みも知っている。違いますか?」
 セイバーの言葉にアーチャーはその鋼色の瞳を僅かに揺らした。それを見て、セイバーは大きく息を吸い込んだ後に、意を決した様に言葉を放った。
「けれど私の望みは間違っていた。だから私は聖杯など要らない」
「君は……何を言いたいのだ?」
「己の歩んだ道を否定することは、己と共に歩んだ者たち全てを否定することです。……貴方を見てそれは間違っていると理解しました」
 あぁそうだ。己の望みは間違っていた。何度も彼はそう言っていたのに、頑なに否定し続けた愚かな自分。今こうやって目の前に、己の歩んだ道を、根源を否定する者がいる。それを否定されてしまったら、自分と彼の歩んだ道は……あの涙はなかったことになってしまう。それだけはどうしてもセイバーは許容出来なかったのだ。だから、己の過ちを認めた。そして、聖杯など要らないと、初めて言葉にしたのだ。
「セイバー。君は自分が何を言っているのか解っているのか?」
「解っています。厭というほど解っています」
 忌々しそうに言葉を吐くセイバーを見て、アーチャーはもしかしたらと浮かんだ考えを即座に否定した。そんな筈はない。そんな奇跡は存在しないと。
「……お互いに【二度目】の第五次聖杯戦争です。きっと聖杯に至れるでしょう」
 アーチャーが一瞬で否定した考えを、セイバーは肯定した。二度目の第五次聖杯戦争だと。彼女は明確にそう彼に告げた。
「はッ……君は何を莫迦なことを……」
「あの時は【黒衣】の弓兵でした。真名はコンラ。ランサーであるクーフーリンの息子です。敗退順番は、ライダー・アサシン・キャスター・バーサーカー、そして私」
 愕然としたようなアーチャーの表情に、セイバーは俯きながら、更に言葉を続けた。
「どうして貴方がそうなってしまったのかは私には解りません。けれど、貴方が貴方の根源を否定するというのなら……私と共にあった日々を否定される位ならば、私は……私は……」
 どうして彼はこんな形に至ってしまったのだろう。あんなに、彼が幸せであれば良いと祈ったのに。そう思うと、涙が零れた。
「……オレは……」
「聖杯など要りません。私は……貴方が欲しい」

 

「と言う感じが私と、アーチャーの馴れ初めなのですが」
 長い話を聞きながら、ランサーは唖然としたような顔でセイバーを眺めた。少し話を聞いて欲しいと言われ、はいはい、と釣りの片手間に引き受けたものの、恐ろしく長い話を聞かされた。けれど、何故あそこ迄セイバー・アーチャー組が圧倒的有利に聖杯戦争の駒を進めたのかは理解できた。
 二度目の第五次聖杯戦争。
 相手の真名どころか、宝具・弱点まで把握済み。セイバーは一度目は途中敗退だったが、エミヤシロウであったアーチャーは、遠坂凛を助けながら、最後まで生き延びた。セイバーの記憶と、彼の磨耗した記憶を繋ぎあわせての、圧倒的有利をとれる情報量。
 結局聖杯の汚染が判明した後に、今回の聖杯戦争は有耶無耶のまま終わり、その残留奇跡の賜物で、今のところサーヴァントもマスターも全員揃っているという無茶な状態。何度か聖杯戦争中にぶつかったチームもあるが、今はさほど険悪な状態でもない。現にセイバーなどはランサーを捕まえてこうやってクソ長い話をきかせている。
「……うん。二回目とかずりーよな」
「えぇ。しかしイリヤスフィールを助ける事などはかなり苦労しました……けれど、やり遂げられてよかった。随分アーチャーが助けられなかった事を気に病んでいましたので」
 ホクホクと嬉しそうな顔をするセイバーを眺め、ランサーは呆れたような顔をする。セイバーのマスターは衛宮士郎である。なので、基本方針は彼の指示に従うが、恐らく、アーチャーが取りこぼした望みを、せっせと彼女は拾っていったのであろう。
 アーチャーが衛宮士郎の成れの果てだと聞いた時は、ランサーも驚愕はしたが、言われてみれば、衛宮士郎への同族嫌悪にも似た態度や、どこか抜けきれなお人好しさ加減などを見ていれば、あぁ、元は同じなのだなと納得もした。今となっては、美味しいご飯を食べさせてくれる、遠坂凛の家人というスタンスでアーチャーは生活している。
「……で、そのクソ長いお前さんとアーチャーの馴れ初めを話した理由をそろそろ聞いてもいいか?」
「あぁ、そうでした。ですから、私はアーチャーが欲しいのです」
 真っ直ぐにそう言うセイバーを眺め、ランサーは返答に窮した。犬猫でもあるまいし、欲しいから貰って来たと言う事は不可能である。というか、目の前のセイバーが、本当に自分の知っているセイバーなのかと本気でランサーは疑った。聖杯戦争で出会った騎士王は、もっと、こう、威厳あったじゃん。なにこれ。そんな事を考えながらランサーは口を開く。
「……あのな、セイバー。アイツはリン嬢ちゃんのサーヴァントなんだよ」
「知っています」
「極端な話な、リン嬢ちゃんが駄目って言ったら、アーチャーにはそれに逆らう手立てはねーの」
 主従関係を結んでいるのだから、本人の意思よりもマスターの意思の方が尊重される。それは当たり前の話だ。衛宮士郎が放任主義なので、そのあたりをセイバーは忘れているのかもしれないと思い、ランサーは念を押すように言葉を放った。
「その点はぬかりありません。既にリンには、アーチャーを貰えないかと打診しています」
 思わず飲んでいた茶を吹き出しそうになったランサー。それを見て、セイバーは胸に手を当てて、得意気に口を開いた。
「婚姻とは家同士の繋がりと言う側面もありますから、恥じるべき所がないようにきちんと挨拶に伺いました」
「……で、返事は?」
「好きにしろと。ただ、たまには帰ってきてもらわないと困るとのことです。アーチャーは非常に優秀ですし、リンのサーヴァントである事に誇りを持っていますから、彼の仕事をやめさせる気は私にもありません。そう伝えたら、リンは快く諒解してくれました」
 発する言葉を探すランサーであったが、とりあえず、一番確認したかったことを口にしてみた。
「そん時アーチャー……いたのか?」
「買い物に出ていましたが……」
 何故そんな事を聞くのだと言わんばかりのセイバーの表情にランサーは頭を抱えたくなった。アーチャーの意思など総無視で進んでゆく話。頭上で決められた婚姻を聞いた時、アーチャーはどんな顔をしたのだろうか。想像すると、酷く気の毒な気分になってきた。
「……じゃぁ、良かったじゃねーの。嬢ちゃんの諒解も得て、晴れて嫁取りか?王様」
 しかし、そう言われて、セイバーはしゅんと表情を暗くする。
「それが……リンの諒解を得たので、私の所に来て欲しいとアーチャーに言ったのですが……」
「言ったのですが?」
「……逃げられてしまいました」
 ですよねー。と心の中で突っ込みながら、ランサーは思わず苦笑いをした。聖杯戦争が終わって、少しは落ち着いたと思ったら、突然騎士王に求婚されるなど、アーチャーも意味が解らなかっただろう。セイバーは気がついていないだろうが、英雄王とどこが違うのだとランサーは心底思ったが、英雄王の名前を出せばセイバーが機嫌を損ねるのは解っていたので、口には出さなかった。
「どうすればいいのでしょうか?」
「うん。何で俺に相談しにくるかなー」
 先程から全く反応のない釣竿を眺めながら、ランサーがそう零すと、セイバーは大真面目な顔をして、既婚者ですから、と言葉を放った。確かに生前所帯を持ったという意味では、他のサーヴァントとは違う。寺の魔女メディアも、生前に所帯は持っていたが、最終的に破綻で終わっている。ランサーの場合は一応本人が死んで終わりはしたが、彼女に比べればまっとうな所帯を持っていた事にセイバーの中ではなっているのだろう。
「……うん。まぁな。所帯は持ってたけどな……。つーか、セイバー」
「何ですか?」
「アーチャーはお前さんの事どう思ってるか聞いたことあるか?」
「は?」
 いや、何でそこで意外そうな顔すんだよ!と思いながらランサーは更に口を開いた。
「アーチャーの意思も確認しねーで話進めりゃ、そりゃアイツも驚いて逃げるわ。俺だって、一応嫁さん貰う時は、家にもお伺い立てたけど、本人にもちゃんと確認したぞ?」
 スカサハの試練を受けて、生きて帰ってくれば婚姻を認める。それがランサーに出された条件であり、嫁本人もそれならば、と諒解をしてくれた。無論、気に入った女を攫う等と言う事は、古今東西存在するが、手順を踏んでいるのに根本的な所をすっ飛ばしている事にセイバーも気がついていなかったのだろう。
「……迂闊でした」
「迂闊ってな」
 大真面目に反省の色を見せたセイバーを眺め、ランサーは呆れたように言葉を零すしかなかった。ランサー自身は、アーチャーがセイバーの事をどう思っているかは明確に把握しているわけではない。ただ、基本的に悪くは思っていない筈である。けれど、それ以上はどうなのかと聞かれれば解らないとしか返答は出来ない。
「ちょっと聞いてきます」
「……え?」
 止めるまもなく波止場を後にしたセイバーを眺め、ランサーは思わず心の中で、アーチャー頑張れよ、と零した。
 暫くはぼんやりと動かない竿を眺めていたが、後ろから声をかけられ、ランサーは嬉しそうに笑った。
「よぉ。おねだりしにきたのか?」
「サバの味噌煮が食べたくなったの。一匹頂戴」
 制服姿の遠坂凛。恐らく学校帰りにここに寄ったのだろう。そう思い、ランサーは、バケツの中を覗き込む。幸い昼前に一匹サバは上がっている。それを確認して、ランサーは、諒解、と短く言い瞳を細めた。
「そんじゃ、他の魚も分けてやるよ。家まで運んでやるからちょっと待ってろ」
「あら、ありがとう。折角だから晩ご飯食べてく?」
「そのつもり」
 そう言うと、ランサーは散らかしていた釣り道具を片付ける。時折遠坂凛は波止場を訪れては魚を持っていく。その時は大概凛の家で美味しい料理をアーチャーが披露してくれるのだ。毎日毎日教会で激辛麻婆豆腐を食べさせられるランサーにとって、ご相伴に預かるのは非常に有難い。
「……そー言えばさ。アーチャー嫁に出すんだって?」
「あら?セイバーから聞いたの?」
 バケツと釣り道具を持って立ち上がったランサーに、凛は笑いながら返答をする。
「さっき糞長い馴れ初めの話を聞かされた。つーか、アレ、マジで嫁に出すの?」
「別に本人同士がいいなら、私は良いと思ったから許可だしたんだけど……」
「本人同士って……セイバーはともかく、アーチャーはどうよそれ」
 ランサーが言葉に、凛は意外そうな顔をすると、口元を綻ばせて笑った。
「アーチャーはセイバーの事好きよ」
「……いや、でも逃げられたってセイバー言ってたぞ」
 ブラブラと遠坂邸に向かいながら、二人は並んで話をする。
「そろそろ幸せになればいいのにね。アーチャーも。アイツ基本的に人の幸せは望めるのに、自分の幸せなんて考えもしないじゃない。だから、アイツ自身、ちゃんと向き合ったほうがいいわ」
 正義の味方は死ぬまで人の幸せを願い続けた。死んでなお人を救い続けた。己の全てを代償に、座に上り詰めたイビツに歪んだ【霊長の守護者】
「……セイバーはね。アーチャーを幸せにしたいって言ってたわ。だから、彼女ならきっとアイツをちゃんと引っ張っていけると思ったの」
 凛も当然アーチャーの幸せを願っていた。自己嫌悪の塊である彼は、己自身の根源を毀してしまいたいぐらい憎んでいた。そして、己を終わらせようとしていた。それを引き止めたのは、セイバーだった。だから、セイバーならばあるいはと、凛は思ったのだ。
「でもねー。アイツってさ、基本的に自分の感情に無頓着だし、自分嫌いじゃない?だからね、セイバーが自分の事を好きだってのが理解出来ないのよ」
「あー、なるほどな。そりゃ吃驚するわ」
 この世で一番嫌いな自分を、必要だと言った騎士王。マスターであるときの自分とは違うのだと、何度説明しても彼女はアーチャーを追いかけ続けた。
「……セイバーの事が好きなのよ。だから、きっと歪んでしまった自分を恥じてる。騎士王に相応しくないって心のどこかで思ってる」
 英霊としての格も、その生きた道も、大きく隔たりがある。
 ランサーは、あぁ、そうか、と納得したように瞳を細めた。
「古今東西、身分違いってのはあんま幸せになれねーわな」
「まぁね。けど、セイバーは、だからどうした!って勢いじゃない?……だから、応援してる」
 いいマスターだと思いランサーは、凛を眺めた。きっと彼女は心底アーチャーの幸せを願っている。だからそんなマスターと契約できたアーチャーが酷く羨ましかった。
「嬢ちゃん」
「なぁに?」
「アーチャーがセイバーの所に嫁に行ったら、俺のマスターにならねぇ?」
 ランサーの言葉に凛は驚いたような顔をしたが、ふふっと笑って返事をする。
「だーめ。寿退社はしない約束なの」
 寿退社の意味は解らなかったが、セイバーがアーチャーの仕事は続けさせると言っていたのを思い出して、ランサーは少し残念そうな顔をした。

 たどり着いた遠坂邸。
 ただいまー、と能天気な声を上げた凛であったが、居間にランサーとたどり着いた時に、思わず凍りついた。
「凛!セイバーを何とかしてくれ!」
「おかえりなさいリン。ランサーも先程はありがとうございました」
 悲鳴のように声を上げるアーチャーと、けろりとした顔で帰ってきた家主を迎えたセイバー。しかしながら、凍りついたのはその言葉ではなく、その体勢からであった。居間のソファーに横たわるアーチャーと、マウントポジションを取り、迫るセイバー。セイバーに手をがっちりホールドされているアーチャーは辛うじて首だけを持ち上げて、助けを求める。
「ランサーでもこの際構わん!何とかしてくれ!」
「ほほほ……ちょっと帰るの早かったかしら。ランサー、もう少し散歩でもしましょ?」
「凛!」
 見捨てないでくれ!と捨て犬のような顔をするアーチャーを見て、ランサーは持っていたバケツと釣り道具を床に置き、セイバーの肩にポンと手を置く。
「何ですかランサー」
 むっとしたようにランサーを見上げたセイバーに彼はため息混じりに言葉を零した。
「サバの味噌煮作ってもらわにゃならんから、開放してやって欲しいんだけど」
 その言葉にセイバーは、サバの味噌煮……と小さく呟くと、漸くアーチャーの上から降りる。
「では食事の後で返事を聞かせて貰います」
「……」
 ほっとしたような顔をしたのもつかの間、表情を引きつらせたアーチャーを眺め、これは酷い、とランサーは思わず首を振った。答えを聞くだけなのに、何故マウントポジションで迫ったのか。恐らく逃げられないようにとの考えの元であろうが、いくら何でもこれは酷い。
 漸く立ち上がったアーチャーは、ランサーの置いたバケツを掴むと、逃げるように台所へ姿を消した。
「そんじゃ、飯まで時間かかるだろうし、紅茶でも淹れてくるわ」
 その言葉に凛は驚いた様にランサーを見上げた。
「アーチャーにやらせてもいいのよ?」
「最近喫茶店でバイトしててな。結構上達したし、お披露目するわ」
 そう言うと、セイバーと凛に待っている様に言い、ランサーもアーチャーの後を追うように台所へと向かった。
 台所では既にアーチャーが食事の準備をはじめており、やってきたランサーに怪訝そうな表情を彼は向けた。
「ちょっと場所借りるわ」
「それは構わんが……」
 鼻歌を歌いながら紅茶を入れる準備をするランサーに、ラーチャーは驚いたような顔をして、自分がするというが、ランサーは笑って断る。
「今仕事で紅茶淹れててさ。流石にお前には負けるけど、結構上達したんだぜ」
 その言葉にアーチャーは、そうか、と少しだけ笑って、魚を捌き始めた。
「……そんで、セイバーに返事はしねーの?」
 湯が湧くのを待ちながらランサーが口を開くと、アーチャーは露骨に狼狽えたような表情を見せる。いつも澄ました顔をしているのに、珍しいと思いながら、ランサーは咽喉で笑った。それを見て、彼はむっとしたような顔を作るが、手を動かしたまま口を開いた。
「君が彼女に莫迦な事を吹き込んだのか」
「大事な事だと俺は思うけどな」
「少なくとも君には関係ない」
「……あのな。セイバーにやれ、前の聖杯戦争でのお前との出会いやら、今回の聖杯戦争での再会やらを延々語られて、アーチャーに逃げられたのですがどうしたらいいしょうか?とか言われる俺の身にもなってくれよ。知るかってんだ。とりあえず相手の気持確認してからにしてやれ、ってアドバイスしたのは間違いだと思うか?」
 ランサーの呆れたような口調に、流石にアーチャーも悪いと思ったのか、済まなかったと謝罪する。無論ランサーのアドバイスが間違っているともアーチャーは思わなかったのだろうが、いきなり押しかけられた上に、逃げないようにとのしかかられた事に関しては、どこに文句を言えばいいのか解らない。
「惚れてんだったら受けてやれよ」
「……しかし……私は彼女のマスターだった頃の私ではない」
 その言葉にランサーは瞳を細める。凛の言うとおりだと思ったのだ。歪んでしまった己が騎士王に相応しくないと思い込んでいる。けれど、反応を見るかぎりは、確かにセイバーに対して戸惑いはすれど、好意は持っている様に見えた。
「まぁ、セイバーも性急すぎるけどな。……けど、逃げてばっかりで躱しきれるほど、騎士王様は甘くねぇからな」
 ポットに湯を淹れたランサーは、カップとそれを盆に乗せると、笑いながらそういい居間へと向かった。

 遠坂邸の食卓に並ぶほかほかの夕餉。セイバーはアホ毛をぶんぶん振り回す勢いで喜び、歓声を上げたが、アーチャーの言葉に一気に萎れる。
「凛。地下室の整理が中断したままなのだが」
「はいはい」
 凛の言葉にアーチャーはほっとした様な顔をすると、エプロンを外してさっさと部屋を出ていく。それをしょんぼりと見送るセイバー。
「いつもアーチャーは食事を一緒にとりませんね」
「一緒にっていうか、そもそもアイツは作るだけで食べないのよ。私が一人で食べる時は一応テーブルについてくれるけどね。それでも随分しつこく言ったのよ」
 ため息混じりの凛の言葉に、そうですか、とセイバーは残念そうに言葉を零した。そもそもサーヴァントにとって、まともに魔力供給されているのなら、食事と言うのは道楽に近い。セイバーはマスターである衛宮士郎の魔力不足から基本的にはがっつり食べるが、例えばアーチャーやランサーなどは食べなくても支障はないのだ。
「そんじゃ食おうぜ」
 ランサーの声に、いただきます!と声を合わせて三人は食事を始めた。サバの味噌にはホクホクでしっかり味は染みているし、きんぴらごぼうもご飯がすすむ。ほうれん草のおひたしに手を伸ばしながら、セイバーは、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「本当美味そうに食うよな」
「アーチャーの作るご飯は今も、昔も美味しいです!」
 白米を口に運びながら言うセイバーに、思わずランサーは苦笑した。モリモリと食事を続けるセイバーを眺めながら、凛は笑って、本当にアーチャーが好きなのね、と言葉を零した。
「……はい。彼はもうマスターであった頃の自分とは違うと言いますが、こうやってご飯はやっぱり美味しいですし、口では文句を言ってもいつも助けてくれます。どんなに姿形は変わってしまっても、私の為だけに泣いてくれた、あの時の優しい気持ちは変わっていないと思います」
 全力で惚気けられた、とランサーは思わず笑ったが、その後にセイバーがガラリと表情を変えたのでぎょっとする。
「しかし!よりにもよって、一度決めたら曲げない頑固な所が全く変わっていないなんて、喜んでいいのか、悲しんでいいのか……まぁ、そこも彼らしいと言えば彼らしいのですが」
 怒っているのか惚気けているのか微妙だなと思いながら、凛は笑って、セイバーに視線を送った。
「全部好きって事?」
「はい」
 大真面目にそう言うセイバー。そこまで惚れられれば、男として本望だろう。けれど、それを受け止められるほどの余裕がアーチャーにはない。こんな不幸なことがあるだろうかと、思わずランサーは味噌汁をすすりながら、己以上に幸運属性が低いんじゃないかとアーチャーの先を想像して少しだけ気の毒な気持ちになった。
「まぁ、元はといえば、彼の優しさにつけこんで、こき使っているアラヤが悪いのです」
「……うん。まぁね」
 流石に話がいきなり飛んだので、凛は困ったように笑いランサーに視線を送る。仕方が無いという様に、ランサーは、しかし、アイツがそう願ったんだろ?と言うと、セイバーは眉間に皺を寄せた。
「だからといって、磨耗するまで酷使するなど許されません!貴方だったらどうしますか?」
「うん。逃げる。全力で逃げる」
 ランサーの言葉にセイバーは満足そうに笑うと、そうです、逃げればいいのです、と言葉を放つ。
「え?逃げるって……でも、世界と契約しちゃったんでしょ?」
「とりあえず座に帰った後に、アラヤにアーチャーを解放するように頼んでみようと思うのです」
「……頼めるもんなの?」
 唖然とする凛の表情に、ランサーも、いや、俺はやったことねぇから、と曖昧な返事をすると、セイバーを眺めた。彼女は完食した食器をテーブルの端に寄せながら、こくこくと頷き口を開いた、
「幸いアーチャーの中には私の宝具があります。ですので、アーチャーごと私の元へ返すよう頼みます。が……もしも拒否するようであれば……」
 あぁ、余り先は聞きたくない、そんな気分になりながらランサーは、黙って彼女の言葉を待った。
「強奪します」
「……わー、何それ、怖い」
 思わず棒読みで言葉を零したランサーを睨むと、セイバーはどん!と卓を叩き拳を握り締める。
「王たるもの、己が望んだ宝をみすみす他に譲る訳には行きません!返さないというのなら、いいでしょう、戦争です!」
 王の選定をやり直したいという望みを持っていた騎士王はどこに行ったのだろうかと、ランサーは思わず遠い目をした。その望みは間違いだったと諦めたとは聞いていたが、その望みを手放したと同時に、何か別の方向に開眼してしまったとしか思えない。
 己の望むモノの為に世界に戦争をふっかける。普通に考えれば無茶な話だ。けれど彼女はやると言っているのだ。
「ですから、できるだけ現世でアーチャーとの縁を結んでおきたいのです。アレは、私のものだと、アラヤに知らしめる為にも!」
「やだー、セイバー、金ピカ英雄王みたいよー」
 座を持たない凛が、ケラケラ笑いながら言うが、ランサーにしてみればこんな無茶苦茶な話はない。絶対巻き込まれる。ヤバイ。この話切り上げないと、確実に巻き込まれる。そう思い、話題を変えようとするが、お構いなしにセイバーは話を続けた。
「私も英雄王や征服王のあり方に反発した時期もありました。しかし、アレはアレで、王の形なのだと長い時をかけて許容出来るようになりました」
 私は一回り大きくなったのです、と言いたげなセイバーであったが、ランサーにしてみれば、悪いところ真似しないで!と言う気分でいっぱいになる。
「幸い数回の聖杯戦争で、座を持つ英霊とも顔見知りになりましたし、助力を願えば助けてくれる人もいるでしょう。……ランサー」
「……はい」
「その暁には、是非、一番槍を」
 騎士王の言葉に、生粋の武人であるランサーは拒否の言葉を吐くことが出来ず、ただ、頷くだけであった。

 

「アーチャー」
 地下室への階段を降りてきたセイバーに気が付き、彼は手を止めると、どうした?と声をかける。すると彼女は嬉しそうにほてほてと彼の側へ歩み寄り、アーチャーを見上げた。
「余り急くのはよくないとランサーに言われましたので、返事はまた今度で構いません」
 その言葉にアーチャーは心底ほっとした。今度家に来た時はおかずを一品増やそうと思うぐらい、ランサーに心の中で感謝したアーチャーであったが、突然手を握られ、驚いたようにセイバーを見下ろす。
 繋がった手から流れこんでくる温かい力を確認すると、セイバーは、あぁ、矢張り私の鞘は彼だけだ、と心の中で呟き、彼の大きな手に口づけを落とした。
「……必ず迎えに行きます。例え相手がアラヤであっても、私は貴方を手に入れる」
「は?」
 突然のセイバーの言動に唖然としたアーチャーは、ぽかんとセイバーの顔を眺めた。
「食事とても美味しかったです。また来ます」
 手を放し、そう言うとセイバーは何事もなかったかのように、階段を駆け上がる。恐らくランサーと帰るのであろう。暫くは呆然としていたアーチャーは、彼女の言葉を反芻して、青ざめた。
「アラヤ……って……なんでさ!」
 遠坂邸の地下室に響く声。
 世界を敵に回しても手に入れると宣告した騎士王に、ただただ、アーチャーは頭を抱えるしかなかった。


今日は楽しい決戦日。
こんな感じの残念剣→弓シリーズで行きたいと思います。
201203

【BACK】