*懺悔之箱*
「えー。ギルさんとアロハのお兄さん帰っちゃうのー?」
ぶーぶーと玄関先で文句を垂れる大河を見て、ランサーは苦笑する。港で釣りをしている時に魚を持ってゆくシマシマシャツの女が衛宮士郎の姉代わりだと知ったのは先日のこと。いつものお礼にと食事に招待してくれた時に初めて知ったのだ。藤村大河自体は、ランサーやギルガメッシュが士郎と知り合いである事は知っていたようであるが、賑やかな衛宮邸の食卓を更に賑やかにする事に余念のない彼女。最近は暇な時は呼ばれなくても魚の差し入れと称して食卓にお邪魔するようになった。
「こいつがワイン飲みたいとか抜かすからな。まぁ、お付き合いって事で」
ランサーから視線を送られたギルガメッシュは、フンと鼻で笑うと、腕を組みながらふんぞり返って口を開いた。
「今宵の晩餐は悪くなかったぞ冬木の虎。今度我のワインを下賜しよう」
「いや、アレ、言峰のワインじゃねーの」
教会の地下に貯蔵してあったワインは元々言峰が収集していたものであるのだが、主がいなくなった後はギルガメッシュが我が物で扱っているのだ。減らすばかりではなく、気に入ったものは増やしていたりもするのだが。
ワインと聞いて瞳を輝かせた大河は、ギルさん太っ腹ー!と大喜びで飛び上がる。
聖杯戦争の頃はどうしようもなく面倒な男であったが、ギルガメッシュは子供の姿と大人の姿を行き来しているうちに少し丸くなったのか、子供たちにも人気であるし、大河ともどういう訳かウマが合う。大河が持ち上げ上手であるというのも一因ではあるが、気に入らなければ即殺であった頃に比べれば、まだ付き合いやすい。
「じゃあ仕方ないななー」
ちぇ、と言うような大河の横をすり抜け、同じく衛宮邸を出ようとする男の姿を見つけ、大河はその腕をガシっとつかむ。
「シロウさんは泊まればいいじゃない!」
「……いや、しかし」
どさくさに紛れて帰ろうと持っていたシロウさん……アーチャーは、困惑したように大河を見下ろした。衛宮士郎をフルネームで呼ぶがゆえに、勝手に名前がかぶっているのだと推測した大河は、アーチャーの事を【シロウさん】と呼ぶ。否定することも肯定することも出来ずにズルズルと流している間に大河の中で定着してしまったその呼び名に、アーチャーは困った顔はすれど、結局流されている。それを見て、ランサーはニヤニヤ笑いながら口を開く。
「そうそう。お嬢ちゃんもここに泊まるんだったらいいじゃねぇか」
「ランサー!」
大河の後押しをするような発言をしたランサーをアーチャーは睨みつけるが、当の本人は涼しい顔で大河の方に視線を送る。
「じゃ、アーチャーは置いて行くから。またな、シマシマの姉ちゃん」
「またねー!」
アーチャーの腕は離さず、ブンブンと空いた手を降っている大河に軽く手を上げると、ランサーはギルガメッシュと共に衛宮邸を後にした。
「贋作者は冬木の虎は苦手か」
「まぁ、根っこが坊主と同じだしな。シスコンってのは死んでも治らねぇってこった」
ボソリとつぶやいたギルガメッシュの言葉に、ランサーが苦笑しながらそう返答する。
「シスコン?」
聞きなれない言葉なのか、ギルガメッシュはその言葉を反芻したのを見て、ランサーは笑う。
「姉ちゃん大好きって事」
「違いない」
クッと咽喉で笑ったギルガメッシュは、機嫌よくランサーを連れて、滞在するホテルへ向かった。
一方帰るタイミングを失ったアーチャーは、腕を捕まれまたズルズルと居間に引き戻される。その様子を見て、セイバーは驚いたような顔をする。
「アーチャー帰ったのではないのですか?」
「……帰るつもりだった……」
TVを見ながら煎餅をかじっていた凛も、顔を上げて眉間に皺を寄せた。
「ちっとも私のところによりつかない癖に、藤村先生の誘いは受けるのね」
ぷいっと不貞腐れたような顔をした凛をみて、食器を洗うために台所に立っていた桜は、隣の家主である士郎にこそっと声をかける。
「もしかしてアーチャーさんって、藤村先生のこと苦手なんでしょうか」
「どうだろうなぁ。何て言うか、俺も藤ねえには逆らえない所ってあるし、なんか、でかくなっても勝てないってのが目の前にあるってのも複雑だ」
子供の頃から面倒を見てくれているし、姉代わり、親代わりの大河。アーチャーも元は【エミヤシロウ】であるのだから、きっと大河を邪険にもできないのだろうと思うと、物悲しいと士郎は小さく溜息をついた。
「サクラ。お風呂の準備ができました」
「できましたー!」
部屋に戻ってきたライダーは先程風呂の準備をしに席を立ったのだ。イリヤもそれについていっていたのだが、元気よく両手を上げて風呂準備完了の声を上げる。
そして、大河を腕にぶら下げたアーチャーを見つけて、にっと笑った。
「楽しい?」
「……楽しくない」
がっくり項垂れたアーチャーに笑いかけると、イリヤは、タイガ!私も泊まる!とおねだりを始めた。
「そうね。明日は日曜日だし、おうちの人にちゃんと連絡するのよ」
「するする!」
わーい!と両手を上げて喜ぶイリヤを見て、タイガは漸くアーチャーの腕を放す。
「それじゃ、今日のお泊りはイリヤちゃんとシロウさんね。お布団の準備しなくちゃ」
「タイガ、みんな一緒に寝よ。花札やろ!」
「いいわね!女の子は和室で寝ようか」
キャッキャと楽しそうにしている大河とイリヤを見ていたライダーは、それでは私が布団を運びますと仕事を引き受けてくれる。力の強いライダーは衛宮邸の頼もしいメンバーなのだ。
「そうね。あ、シロウさんは士郎の隣の部屋ね。そっちにもお布団運ばないと」
「それではそちらは私が」
そう言って立ち上がったのはセイバーであった。確かに士郎の隣の部屋は聖杯戦争の間セイバーが寝泊まりしていたのだが、力仕事は余り彼女には向いてない。アーチャーは僅かに眉を寄せると、布団の場所だけ教えてもらえれば構わない、と言いセイバーと連れ立って部屋を出ていった。
それを見送った凛の表情を眺めながら、イリヤはにんまり笑うと、凛は行かなくていいの?と小首を傾げた。
「セイバーが行くなら私はいらないじゃない」
不貞腐れたような返答に、イリヤは瞳を細めて笑った。
衛宮邸の布団は無駄に多い。部屋も無駄に多い。それでも掃除や布団の管理は士郎や桜がせっせとやっている。最近は居候も増えたお陰で今まで不良在庫に近かった大量の布団も部屋も稼働しつつある。
アーチャーは布団を抱えると、それを士郎の隣の部屋へ運ぶことにした。余り歩きまわる事のない衛宮邸であるし、自分の記憶も朧げで、セイバーの先導で長い廊下を歩いて行く。嘗て自分が過ごしていた屋敷と同じだというのに、不思議と懐かしいとも思わないのはすっかり記憶が擦り切れてしまったせいであろう。
「こちらです」
「ああ、済まない」
襖を開けてセイバーが部屋に招き入れた。これといってモノのない客間。隣は士郎の部屋であるが、そこにも実は余りモノがない。それは何となくアーチャーも覚えていた。
重い布団を畳に置くと、アーチャーは少しだけ肩を回す。
「む?シーツは別か?」
「はい。先日洗ったばかりのものがありますので、とってきます」
「いや、私が行こう」
アーチャーがセイバーを制して部屋を出ようとすると、その腕をセイバーがぐっと掴む。それに驚いたアーチャーはセイバーを見下ろす。すると彼女は少し俯いたまま沈黙していた。
「セイバー?」
怪訝そうな顔をしたアーチャーはシーツを取りに行くのを中止しセイバーに向き合う。しかし彼女は掴んだ手を離そうとせず、俯いたまま前髪を少しだけ揺らす。
「……話でもあるのか?」
もしかしたら、この世界の違和感の事かもしれない。そう思ってアーチャーはセイバーが口を開くのを待った。明確には把握でない違和感をずっと感じていた。そして、その原因も水面下で調べていたアーチャーは、セイバーが何か自分の気がつかなかった事に気がついたのかもしれないという期待を持っていた。しかし、セイバーの口から放たれた言葉は、予想外のものであった。
「貴方の固有結界に私の剣はありますか?」
「……え?」
唐突にそう言われ、アーチャーは返答に詰まった。質問の意図が全く分からなかったのだ。けれど、取り敢えず質問にだけは答えようと、アーチャーは口を開いた。
「私が一番最初に投影した剣だ。ある」
その言葉にセイバーは弾かれたように顔を上げた。大きく瞳を見開いてアーチャーを見上げる。その顔を眺めながら、こんなにセイバーは小さかったのか、とぼんやりとアーチャーは考えた。自分が【エミヤシロウ】であった頃も小さいと感じていたが、今はもっと小さく感じる。
「貴方のサーヴァントもセイバーだったのですね……」
「ああ」
黄金色の騎士王。それがアーチャーが聖杯戦争にマスターとして参加した時のサーヴァントであった。同じ姿形をしているが違う。現に、今ここにいる衛宮士郎は英霊エミヤには成り得ない。自分とは既に違う道を歩んでいるのだ。平行世界と呼ばれる存在に分岐したのだろう。だから、目の前のセイバーは、自分のセイバーとは厳密には違う。そう漠然とアーチャーは考えていた。
「以前貴方は、私を救えなかったと言っていた」
「そんな事もいったかな」
少し肩を竦めて返答をしたアーチャーを見上げた後、セイバーは瞳を伏せた。
「……私にはそれが貴方の懺悔に聞こえた」
セイバーは己が掴んでいるアーチャーの腕が僅かに硬直したのを感じて、やっぱり、と唇を噛み締めた。
「私は衛宮士郎の理想が危ういものだとずっと感じていた。士郎が私の望みは間違っていると言い続けたように。そんな中、私たちは、お互いにその危うさを認めて、理想を抱いたまま歩く道を見つけた」
「だが私にはそれが出来なかった。それだけだ。切嗣の理想を抱いたまま死んで、歪んだ」
「……詫びるのはきっと、私の方なのですアーチャー」
「アレは君ではない」
「けれど私と同位のモノの筈です!貴方のセイバーの望みは、私が抱いていた望みと違いましたか!?」
返答に窮したアーチャーを見て、同じだったということを悟ったセイバーはまた俯き、言葉を続けた。
「シロウ……」
「セイバー?」
「私の存在が、貴方という英霊を生み出してしまった」
「それは違う!」
弾かれたようにセイバーは顔を上げた。
「セイバーはずっとオレの剣で在り続けてくれた。不甲斐なかったオレの為に戦い続けた。セイバーは何一つ悪くない。オレが……」
言葉を詰まらせたアーチャーを見上げ、セイバーは腕を掴んでいた手を彼の頬へ添えた。
「シロウ。貴方の剣となれたことは、私の誇りです。共に戦えて良かった。貴方を守れて良かった」
違うと分かっていても、それが自分のセイバーが言っている気がして、アーチャーは瞳を大きく見開いた。
「お互いに歪んだ理想を抱いたまま別れてしまった。けれど、私は今こうして王として生きた道が間違っていなかったと漸く理解した。貴方は自分の理想は無駄ではないと知った。だから、もう大丈夫です、シロウ」
「セイバー」
「……私の為にありがとうシロウ。貴方の心に私の剣があるのなら、それが何よりも嬉しい。私とシロウの出会いは決して無駄じゃなかった、そう思えます」
淡く微笑んだセイバーを見下ろしていたアーチャーの瞳が、驚いたように見開かれた。
「無駄なんかじゃない……か……」
アーチャーの口から零れた言葉に、セイバーは頷くと彼の頬を撫でた。今にも泣き出しそうな顔をしているのは、自分なのか、彼なのか。そんな事を考えてセイバーは瞳を伏せた。ずっと心苦しかったのだ。己と衛宮士郎は救われた。けれど、英霊エミヤは懺悔と後悔と共に永遠に存在し続ける。過去の己と対峙し、答えを得て、まだ頑張れる、と彼は遠坂に告げたが、彼擦り切れたエミヤシロウの記憶の中に、澱のように残る懺悔と後悔がある事をセイバーは知っていたのだ。多くを救うために彼の手から滑り落ちていったモノの中に、自分がいると。
「……気がついていますか?この世界の歪さに。この世界の可能性に」
そうセイバーの口から零れた言葉に、アーチャーは小さく頷いた。それに彼女はホッとしたような顔をする。違和感を感じているのは自分だけじゃないのだと安心したのだ。
「詳しいことは私にも解りません。けれど、この機会を逃せば、私は貴方に永遠にこの言葉を伝える事ができないような気がしました。ですから……その、突然の事になってしまい……」
段々と語尾が小さくなっていくセイバーを眺めて、アーチャーは瞳を細めると、己の頬に添えられていたセイバーの小さな手に自分の手を添え、彼女の手のひらに口づけをした。
「この世界はいつか毀されるよ。だからきっとセイバーの直感は正しい。……ありがとう、セイバー。君の剣はオレの心に錆びること無く存在し続けるよ」
瞳を細めた笑ったアーチャーを見て、セイバーは思わず赤面する。肌の色も、髪の色も、瞳の色も変わってしまい、嘗ての面影をなくしてしまった彼であるが、笑った顔は驚くほど衛宮士郎に似ていた。それが嬉しくもあり、恥ずかしくもあったのだ。
「まぁ、私が色々と歪んでしまったのは矯正しようがないがね」
「!」
セイバーの手を放し、シニカルに口角を上げて笑ったアーチャーを見て、セイバーは驚いたような顔をして彼を見上げた。
「まぁ、この違和感に関しては私がどうこうした所で解決しそうにもないようだ。君もせいぜい、あらゆる可能性を持ったこの世界を満喫すればいい」
「……私は衛宮士郎の剣で在り続けるだけです」
「あぁ、その返答は実に君らしい」
クッと咽喉で笑ったアーチャーを見て、セイバーは少し拗ねたように口を尖らす。
「貴方も、正義の味方等くだらないと言いながら、色々と調べまわってるではありませんか。根本的な所は貴方がどう否定しようと、シロウと同じです!」
「嬉しくないな、それは」
そんな少しだけ和やかな雰囲気になった所で、スパンと後ろの襖が開き、二人は目を丸くしてそちらに視線を送る。それと同時に、バサッと何かが投げつけられ、アーチャーは手元に投げられたソレに視線を落とした。
「シーツ?」
「リン!」
セイバーに名を呼ばれた凛は、満面の笑みを浮かべて口を開いた。
「邪魔してごめんなさいねアーチャー。お風呂空いたからセイバーも入りなさい」
「はい。シーツの準備まで申し訳ありません。私が取りに行こうと思っていたのですが」
恐縮したようにセイバーが言うので、凛は毒気を抜かれたように彼女に視線を送った。シーツを持ってきたのは良いが、入るに入れずウロウロして十数分。イライラは絶頂に達していたが、セイバーの顔を見るとそれもすっと引いていった。
「そうね。早くしたほうがいいんじゃない?藤村先生も花札するとか言って待ってるわよ」
「そうします。それではアーチャー。お先に失礼します」
「ああ」
スタスタと何の未練も残さない態度で部屋を後にするセイバーを見送ると、凛はちらりとアーチャーの表情を伺った。彼は彼で、既に意識は寝床の準備に行っているのか、シーツを広げて作業を開始している。
「何してるのリン。タイガが待ってるよ」
ひょこっと顔を出したイリヤに、凛は小さく溜息をつくと、部屋を離れ長い廊下をイリヤと歩く。
「……ヤキモチ?」
「焼いてないわよ!」
暫くは黙って歩いていたイリヤであるが、突然そう言い出したので凛は怒ってそれに返答した。すると、イリヤはすぅっと瞳を細めて凛を見上げる。
「そうね。もうアーチャーはリンのサーヴァントじゃないし」
「そりゃそうだけど……」
その言葉を聞いて、凛は返答に窮した。今はアーチャーにしてみれば依代としているだけで、聖杯戦争の頃のような明確な主従関係もないし、魔力の供給もない。彼は彼で単独で行動し、魔力調達もしているのだ。現に凛がロンドンに行っている間も彼は冬木の街に留まり続けていた。そこまで考えて、ふと違和感がよぎる。そして、その違和感が何か考えようとしたときにはソレは霧散した。
「……アレ?」
首を傾げる凛を見て、イリヤは心の中で凛に伝える言葉を探した。
「リン。何が変だと思う?」
「うん……なんだろう。色々おかしいような気がするの……」
「そうね。全部おかしいから気が付かないだけよ、ソレ」
そう言われ、凛は冬木の街の異常を調べている士郎の言葉を唐突に思い出した。ループする4日間。それが正しいと仮定して、ループではなく再現ではないかと己の持論を披露した。ただ、根本的な仮定の部分がありえないと、その時凛は笑ったのだ。
「冬木の街に何が起こってるか解ってるの?」
「……解ってるわ。私達じゃどうしようもないってこともね」
先程アーチャーも似たことを言っていたのを思い出して、凛は言葉を失った。それを見て、イリヤは困ったように笑う。
「アーチャーを怒らないであげて」
「え?」
イリヤの言葉に凛は驚いたような顔をして声を上げた。するとイリヤは少しだけ悲しそうに笑った。
「彼にとってセイバーは特別なの。切嗣の理想しか持ってなかった彼に、戦うための剣をくれた人なの。それなのに、自分はセイバーを救えなかった。それが心の瑕になってる。他にも一杯アーチャーは心に瑕を負ったまま、それを無視して正義の味方で在り続けた」
そうやって少しずつ歪に捻れて毀れた英霊。それは凛も承知していた事であった。人に裏切られ続けても正義の味方を続け、理想にも世界にも裏切られた彼が矛先を向けたのは己自身。衛宮士郎を殺すのが、当初の彼の目的であった。
「アーチャーは【正義の味方】としては何一つ後悔なく死んでいったわ。満足して。正義の味方であることを貫き通して。けど、【エミヤシロウ】は?人に、世界に、理想にさえも裏切られた彼は、己の生き方そのものを否定した。それと同時に、ずっと無視していた心の瑕に気がついたとしたら?【エミヤシロウ】がやり残した事があったとしたら?」
一旦そこで言葉を切ったイリヤは、凛の表情を伺うように見上げた。
「……この世界異常だわ。それは本当。そして、いつか作ったモノの手で毀れる。でも、この世界はあらゆる可能性を内包してる。ここでなら彼はやり残したことができる。それは懺悔ばっかりかもしれないけどね」
イリヤの言葉に凛は息を飲んだ。毀れる世界。その意味は漠然としか理解できなかったが、4日目を越えれば冬木の街の異常も止まり、異常であった4日間だけが毀れる様な気がした。そして、5日目に残っているのは何なのだろうか。何が失われて、何が残ったのかさえ気が付かないのかもしれない。
「そんなことって……」
「信じる、信じないは任せるわ。……毀れると解ってるから、きっと彼も少し素直になるのよ。可愛いわよね」
ふふっと、最後は意地悪く笑ったイリヤを見て、凛は複雑な顔をする。
「アンタってそんなにアーチャーに甘かったっけ?」
「きっと彼のイリヤスフィールも彼のこと大好きだったと思うわ。人に嫌われても、世界に嫌われても、きっと最後まで好きでいてあげた筈よ。だって、私もそうだもの。私とは同じで違うイリヤだけど、きっとそこは同じだと思う」
イリヤはアーチャーがマスターとして戦った聖杯戦争の結末は知らない。けれど、多分、イリヤスフィールは聖杯として最後を迎えたのだろうと予想していた。それもきっと彼の心の瑕であろうと。アーチャーはバーサーカーとか戦いはしたが、一度もマスターであるイリヤを狙わなかった。二度も殺したくないと感じていたのかもしれない。
「だから、懺悔位聞いてあげてもいいって思ってる。……それぐらいしかできないから」
呟く様に言葉を落としたイリヤを見つめて、凛は少しだけ俯いた。
花札だ!恋話だ!と藤村大河は女性陣を侍らせ大いに盛り上がった。花札が終了した時点で、士郎とアーチャーは部屋に戻ったが、乙女たちの夜は夜更けまで続き、睡魔に負けたイリヤを皮切りに部屋は段々と静かになってゆく。
そんな中、テンションが上がり過ぎて睡魔も裸足で逃げ出した藤村大河は、足音を忍ばせて台所へと向かった。寝る前に少しお腹を満たして、お酒も飲んで、と思ったのだ。
しかしながら、居間の傍の縁側に人影を見つけて大河は立ち止まった。
浅黒い肌に白髪。
全く似ていない外見なのに、もういないこの家の主がそこに座っているように見えたのは、彼の着ている寝間着のせいだろうか。
元々泊まる準備などしていなかったアーチャーには、切嗣の使っていた寝間着を、大河は渡したのだ。士郎のものでは身長差がありすぎて不恰好になるのが目に見えていたし、切嗣も別にそんな細かいことを嫌がらないだろうと勝手に判断した。
何をする訳でもなく、ぼんやりと縁側から月を見上げている男に視線を送って、大河は僅かに瞳を細めた。
「シロウさん」
「……まだ寝ないのか?」
「それはこっちの台詞!早く部屋に引き上げたからとっくに寝てると思ったのに!こっそりつまみ食い作戦台無しじゃない!」
大河のワザと怒ったような口調を見て、アーチャーは思わず口元を歪める。
「それは申し訳なかった。何か作ろうか?」
「……それじゃ、ちょっと付き合って」
そう言うと、大河は台所へ向かい、酒を引っ張り出すとまたほてほてとアーチャーの傍に戻ってくる。
「流石に先生として未成年に勧めるわけには行かないしね。シロウさんは大丈夫よね!」
「あぁ」
苦笑しながら大河の差し出した硝子コップを受け取ると、酒を注ぐ。それを眺めながら、大河は満足そうに笑って、己のコップにも酒を満たした。
「よくね、ここに切嗣さんと士郎座ってお月見してたの。いつか士郎が大きくなったら、一緒に酒でも飲みながら月見したいなーなーんて、切嗣さん言っててね」
ちびちびと酒を舐めながらアーチャーの隣に座った大河は言葉を零した。それを横目で見ながら、アーチャーは酒を口につける。
「まぁ、結局切嗣さん死んじゃって、士郎もあんまりここでお月見しなくなっちゃったんだけどね」
「……そうか」
自分がどうであったかは余り覚えていないが、ここの衛宮士郎はきっとそうなのだろう。そう考えアーチャーはぼんやりと月を見上げた。切嗣が死んだ日は月が綺麗だった気がする。その時に、【正義の味方になる】と言った自分見て満足そうに笑った切嗣の顔が浮かんで、アーチャーは苦笑した。
「正義の味方……か」
「おかしいでしょ?でもね、士郎は本気でなりたいと思ってるの。切嗣さんみたいな正義の味方に」
そこまで言って、大河が言葉を切って俯いたので、アーチャーは怪訝そうに大河の方に視線を向けた。前髪に隠れて表情は見えないが、両手で大事そうにコップを抱えて、唇を震わせた。
「士郎ね、卒業したら留学したいんだって」
「……」
「切嗣さんも世界中回ってたから、きっとそうしたいんだと思う。英語の勉強はもっと頑張ってもらわないと駄目だけど、それでもきっともうすぐここからいなくなるんだと思う」
「……心配か?」
そう言われ、大河は弾かれたように顔を上げて、アーチャーの方を見る。
「心配に決まってるじゃないの!士郎はお人好しだし!いい子だし!悪い人に騙されてもヘラヘラ笑ってるんじゃないかって。自分はどうでもいいけど、他の人が幸せだったらいいやって、無理して頑張るんじゃないかって!」
その言葉を聞いて、アーチャーは思わず視線を逸らせたい気分に襲われた。けれど、大河はアーチャーを見つめたまま言葉を続ける。
「けど!けど……切嗣さんに憧れてるから、止められないのも解ってる。士郎が決めたんだったら、私は……お姉ちゃんだから応援してあげないと駄目なの。だから、ここでずっと士郎のことを待ってるの」
しゅんと萎れたように言う大河に視線を落として、アーチャーは思わず瞳を細める。
嘗て自分が置いてきた人。
いつまでも待っているからと笑って見送ってくれた人。
擦り切れた記憶の中に殆ど残っていないが、きっとエミヤシロウが死ぬまでこの場所で待ち続けていたのだろう。
「衛宮士郎は帰ってくる」
「当たり前じゃないの。帰って来なかったらお姉ちゃん怒るから!」
先ほどのしおらしさはどこに言ったのか、拳を握りしめて力説する大河を見て、アーチャーは思わず口元を歪めた。今の衛宮士郎には凛がいる。ずっとそばにいて、間違えたら蹴っ飛ばして軌道修正してやると言い放った。だからきっと大丈夫だ。そう思い、アーチャーは、苦笑しながら口を開いた。
「……そうだな。マメに戻ってくるよう言っておいたほうがいい。期間が開くと帰りづらくなる」
そう零したアーチャーの顔をまじまじ眺めながら、大河は驚いたように口を開いた。
「それはシロウさんの体験談?」
「そんな所だ。私は待たせている側だがな」
すると大河は怒ったような顔をして、一気に酒を飲み干すと、アーチャーの方を睨んでコップを差し出す。注げといういうことだろうかと思い、アーチャーは酒をなみなみと満たすと、大河はそれを飲みながら、口を開く。
「待ってるわよ。多分。ずっと」
その言葉は胸に刺さる。きっと待っていただろう。届いた訃報に彼女はどんな顔をしたのだろう。そう考えると、目の前の大河にどう返事をしていいのか、アーチャーは悩んだ。
「……今更何を言ったらいいか分からない」
絞り出すようなアーチャーの言葉に、大河はきょとんとしたような顔をして、首を傾げた。
「え?ただいまでいいじゃない」
「……え?」
「だから、ただいまって言えばいいじゃない。私も士郎も切嗣さんには散々待たされたけど、それで帳消しだったわよ」
その頃の光景を思い出したのか、不機嫌さは吹っ飛び大河は嬉しそうに笑った。
「よし!練習!練習しようシロウさん!」
「はぁ?」
突然そう言い出した大河にアーチャーは間の抜けた返事をすると、大真面目に拳を握りしめ、練習!と繰り返す大河に視線を落とす。
「遠坂さんが言ってたわ、シロウさんは素直じゃないって。だから言い難いのよね!だから、私が練習台になってあげる!どーんと、言っちゃって!」
凛が一体何を大河に吹き込んだのか後で問い詰めたいと思いながら、アーチャーは困り果てた様な顔をして、言葉を放つのを今か今かと待っている大河を眺める。
そして、しばらく沈黙した後に、口を開いた。
「……ただいま」
「おかえり、シロウ!お姉ちゃん待ってたぞ!」
満面の笑みを浮かべて返答した大河を見て、アーチャーは思わず言葉を失った。
きっと自分がエミヤシロウだった頃にたった一言そう言えば、きっと彼女はそう返してくれただろう。昔と変わらない笑顔を向けて。
「あ、駄目!やり直し!待ってるのシロウさんのお姉ちゃんじゃないよね?うっかりいつもの調子で言っちゃった!」
慌ててやり直しを要求する大河を見て、アーチャーは思わず破顔した。
よもや爆笑されるとは思わなかった大河は、何で笑うのー!と怒ったような、拗ねたような口調で不満を言う。けれど、アーチャーを眺めて、少しだけ驚いたような顔をする。
「シロウさんって笑うと可愛いね。士郎みたい」
「!?」
その言葉にアーチャーはピタっと笑いを止めて、先程の大河の様に、不服そうに眉を寄せた。
「嬉しくない」
「えー。いいじゃない。可愛いの」
褒めたのにーと言わんばかりの大河に、アーチャーは思わず表情を緩めた。それを見て、アーチャーの機嫌を本格的に損ねたわけではないとわかった大河は、瞳を細めて笑った。
「失敗してごめんね。やり直す?」
「……いや、十分だ」
アーチャーの返答に、そっか、と返答すると、大河は残った酒を飲み干して立ち上がった。
「話聞いてくれてありがと。少しすっきりした。駄目ね、士郎のお姉ちゃんなのに。笑顔で士郎見送って、ずっと待つことにする」
「そうか」
「それじゃ、そろそろ寝るね。シロウさんも夜更かししすぎないでね」
そう言うと、大河は手を振りながらペタペタと廊下を歩きだした。
「藤ねぇ、ありがとう」
「ん?」
耳に届いた言葉に、大河は振り返るが、アーチャーはコップを持ったまま月を見上げていた。空耳かな?と首をかしげながら、大河は少しすっきりして軽い気持ちのまま温かい布団に潜りこもうと、和室へ戻っていった。
コップの中に酒はまだいくらか残っているが、そろそろ寝床に戻ろうか、そう考えた時、背中にかけられた体重に気が付きアーチャーは苦笑する。
「……イリヤスフィール。トイレなら向こう側だ」
「行ってきた所よ」
後ろから抱くようにアーチャーの首に手を回すイリヤ。アーチャーの頬に触れるのは銀色の髪。
「千客万来と言った所か?」
「そうね。そんな夜があってもいいんじゃない?」
「違いない」
咽喉で笑ったアーチャーに、イリヤは淡く笑いかけると、膝に座っていい?と首を傾げる。その提案にアーチャーは面食らったような顔をしたが、コップを置き腕を広げた。
イリヤの小さな体はすっぽりとアーチャーの膝に収まり、彼はイリヤを抱きかかえるように彼女の腹の上で手を組む。
「月、キレイね」
「そうだな」
士郎の膝に乗ることを強請ることはあったが、アーチャー自身は強請られたことがなかったので、イリヤの意図は全く分からない。ただ、月が綺麗だから眺めたいだけなのかもしれない。自らが話題を振ることもなく、アーチャーはイリヤの言葉に相槌を打つ。
「キリツグもここで月を見てたんだね」
「……あぁ」
「私も一緒に見たかったな」
はじめこそキリツグに対して殺意を持っていたイリヤであるが、士郎と出会って、少しずつその思いは溶けていった。楽しかったキリツグとの思い出も今ならば笑って語れるし、こうやって、一緒にしたかった事も素直に言える。
「でも、シロウと一緒に見れたからいいや」
イリヤの言葉にアーチャーは驚いたような顔をして彼女の顔を覗き込んだ、すると、イリヤは瞳を細めて笑う。
「大好きよシロウ。人に裏切られても、世界に裏切られても、私はシロウの味方でいてあげる。貴方を守ってあげる。だってお姉ちゃんだもん」
ちらつく残像は銀色の髪をした少女。聖杯と共に消えた面影。
アーチャーはイリヤの髪に顔を埋めて、小声で消えた少女の名を呼んだ。
「……イリヤ」
「私の事覚えてくれててありがとう。貴方は私を一度も殺そうとしなかったわ。バーサーカーと対峙するより、ずっと簡単だったのに」
「……二度も……死なせたくなかった」
「優しいね」
アーチャーの言葉にイリヤは少しだけ困ったような顔をすると、重々しく口を開いた。
「私は貴方のイリヤスフィールとは違うけど、きっとエミヤシロウへの気持ちは同じだと思うわ」
その言葉にアーチャーはビクリと肩を震わせた。長すぎる沈黙の後、イリヤはアーチャーの手に、己の小さな手を重ねて言葉を紡いだ。
「貴方を助けて良かった。貴方が死ぬまでキリツグの理想を貫き通してくれたことが、とても嬉しいわ。……きっとそのせいで貴方はイビツに歪んでしまったんだろうけど、貴方の歩んだ道は絶対無駄なんかじゃない」
アーチャーの手に力が篭るのを感じて、イリヤは優しく彼の手を撫でた。変わり果てた容貌は、正義の味方であった時の代償。己が肉体を代償に魔術を使い続けた結果。己の肉体も、精神も、記憶もすり切れるまで酷使し続けて、最後には人にも世界にも裏切られた。
「イリヤ……助けられなくて、ごめん」
「……頑張ったね、シロウ」
報われることを望んでいた訳ではない。けれど、たった一言。それだけで、自分の【姉達】は心を軽くしてくれた。
自己満足にすぎない後悔と懺悔。けれど、それはずっと擦り切れた記憶と共に、アーチャーの中に存在した。
「ありがとう、イリヤ」
「……どういたしまして。お姉ちゃんキャラはタイガの専売特許じゃないのよ」
ふふんと得意気にイリヤが言うので、アーチャーは顔を上げて彼女の頭に顎を乗せた。
「弟に膝抱っこされる姉ってのも、珍しいと思うけど」
「それは私の専売特許よ」
イリヤの言葉にアーチャーは笑うと、彼女の髪を一房掬い上げ、それに口づけを落とした。
「……あの未熟者を頼む。イリヤスフィール」
「頼まれなくてもひっついてやるんだから。だから、アーチャーは心配なんかしないで、せいぜいマスターの機嫌でも取ってなさい」
そう言うと、イリヤはするりとアーチャーの体を擦り抜けて、きた時同様に、彼の背後に回る。
「この世界が毀れても、きっと貴方がここで得た答えはなくならないわ」
「そう願ってる」
お互いに微笑みあった後、アーチャーは立ち上がり、大河の置いて行った酒瓶やらコップやらを台所へ移動する。それをイリヤは眺めていたが、眠そうにあくびをしてアーチャーに声をかけた。
「おやすみ」
「いい夢を」
アーチャーの返しにイリヤは驚いたような顔をしたが、嬉しそうに笑って頷いた。
コップを洗い、酒瓶を元の場所に戻したアーチャーはそのまま用意された寝室へ向かおうとした。すると、先程まで自分が座っていた場所に別の誰かが座っていて、思わず足を止める。
「凛?」
「……」
アーチャーの言葉に返事はなく、凛は少しだけ視線をアーチャーに向けた後、ぷいっと外を向く。随分と機嫌が悪そうだと思いながら、アーチャーは呆れたように凛に言葉を零す。
「夜更かしのし過ぎじゃないか?」
その言葉への返答はなく、凛はポンポンと自分の隣を手で叩く。座れということだと判断して、アーチャーは渋々そこに座る。機嫌を損ねている理由が解らない以上、余計な口は開かないほうがいいと判断して、黙って月を見上げた。
「……私にはないの?」
「は?」
「だから、セイバーとか、藤村先生とか、イリヤには色々言い残したことあったみたいだけど、遠坂凛にはないのって聞いてんの」
怒ったような口調で凛が言うと、アーチャーは驚いたような顔をして彼女を眺めた。すると、彼女はみるみる顔を赤くしてそっぽを向く。
「……ないならいいのよ。アンタの遠坂凛がどんな風にアンタの傍にいたかなんか知らないし」
そこまで聞いて、アーチャーは漸く納得する。どうやら凛は彼女なりに自分を気遣ってくれていたのだろうと。
そう考えると自然にアーチャーの口元が緩んだ。それに気が付き、凛は更に機嫌を損ねたのか、不機嫌そうに眉を寄せる。
「余計なおせっかいだったみたいね」
そう言うと、凛は怒ったように立ち上がろうとするが、アーチャーが彼女の腕を引いたので、バランスを崩し、凛はアーチャーの胸にダイブする。
「ちょっと!」
引き離そうとしたが、アーチャーはそれを許さずに、凛を抱きしめ、耳元で呟く。
「君だけを愛してる」
その言葉に、凛は思わず俯いた。この言葉は自分ではない遠坂凛に向けられた言葉だと解っているのに、恥ずかしい。そして、自分に向けられないことが哀しかった。アーチャーの遠坂凛なんて知らない。それは自分でない、彼の思い出の中の遠坂凛だ。そう思うと、急に泣きたくなって、凛は唇を噛んだ。
「……それだけ?」
絞り出すような凛の声に、アーチャーは彼女を抱く腕の力を緩めた。アーチャーの顔をまともに見れない凛は、彼の腕から逃れると、そっぽを向いてまた先ほどと同じように座る。沈黙が気まずいし、今口を開けば泣き出してしまいそうだと思った凛は、黙ってアーチャーが口を開くのを待った。
けれど、一向にアーチャーが口を開く様子も無いので、恐る恐る凛は彼に視線を送った。すると彼は、先ほどのことなどなかったかの様に、ぼんやりと月を見上げていた。それに驚いた凛は思わず、アーチャーの腕を引っ張り、自分のほうを向かせる。
「本当にそれだけなの!?」
「……いや、そもそも、何もないんだ」
「はぁ?」
「……全部伝えて、別れた」
思い出の少女は、エミヤシロウの生き方を莫迦だと言ったが、否定はしなかった。
魔術も教えてくれたし、解れる直前まで心配してくれていた。
『本当に後悔しない?平坦な道じゃないわよ』
『……でも、オレは正義の味方になりたいんだ』
『そっか。頑張んなさい』
『今までありがとう遠坂。オレなりに頑張ってみるよ』
良き友であり、師であった。そして、一番愛した人だった。けれど、置き去りにしてしまった。それを後悔したことはない。彼女に示した正義の味方になるという理想を、貫き通す方が大事だったからだ。理想を違えることは、正義の味方になる為に必要なモノを沢山与えてくれた彼女の努力を無駄にすることだと、きっと思っていたのだろう。
アーチャーの言葉に凛は怪訝そうな顔をすると、彼の顔を覗き込む。嘘を付いている様子はない。けれど、ある意味腹の底を見せない所があるので、言葉を鵜呑みには出来ない。そう考えて、凛は形の良い眉を顰めた。
「じゃぁ、さっきのの何?」
その言葉にアーチャー瞳を細めて笑うと、凛に額に口づけを落とした。
「遠坂へではなく、君への言葉だよ、凛」
「なっ!」
思わず絶句して顔を赤くする凛を眺めて、アーチャーは咽喉で笑った。その様子にからかわれたのだと思った凛は、立ち上がってアーチャーを見下ろす。
「人が心配してんのに!からかわないでよ!」
「……からかったつもりはない」
不服そうな顔をしたアーチャーに、凛は言葉をつまらせる。どうにもこうにも勝手が悪しい、素直に好意を示してくるアーチャーにどんな顔をしたらよいのかも分からない。
顔を真っ赤にして動きを止める凛を眺めながら、アーチャーは笑った。
「エミヤシロウは、多分遠坂を愛してた」
静かに言葉を零すアーチャーを眺め、凛はぺたんとまた縁側に座る。冷たいとか、硬いとか、そんな事は余り気にならない。ただ、耳に届くアーチャーの声だけを聞いていた。
「けれど、理想を叶えるために置き去りにした。それでエミヤシロウと遠坂との思い出は終わりだよ」
「……莫迦じゃないの。アンタの遠坂が可哀想じゃない」
「何故?」
「何故って!結局置いて行っちゃったんじゃないの!何人女の子泣かせてるのよ!莫迦!」
凛が怒鳴りつけたので、アーチャーは思わず身を引く。そして、凛が少し落ち着いた所で、アーチャーは口を開いた。
「『愛してる。オレは遠坂だけの正義の味方になれないけど、心はここに置いていく』」
その言葉を聞いて、凛は思わず涙を零した。残酷な言葉だ。きっとアーチャーはそれを解っていない。思い出の遠坂凛はきっとその言葉を聞いて、今の自分と同じ気持だっただろう。ズルイ男だと。理想を抱いて死ぬだろうことを解っていても、きっと止められなかった。
「そう言ってエミヤシロウと遠坂の思い出は終わったの?」
「そうだ」
淡々と言うアーチャーに腹が立ったが、凛は言葉をうまく発することが出来ずに、嗚咽を漏らした。その凛の肩をアーチャーはそっと抱く。振り払うこともできただろうが、凛はアーチャーの胸に己の額を押し当てて涙を零した。
「君は見かけによらず泣き虫だな」
「うるさい!誰のせいだと思ってんのよ!」
ポンポンとアーチャーは凛の頭を軽く叩くと、もう、余り覚えていなんだがな、と申し訳なさそうに言った。すり切れた記憶。人であった時の事は余り覚えてないとアーチャーが言っていたのを思い出して、凛は余計に悲しくなった。そうか、アーチャーはもう、その時の記憶も、痛みも、思い出せないのかと。
「……遠坂が君との縁を取り持ってくれたことは感謝してる」
そこの言葉に凛は思わず顔を上げた。すると、アーチャーは瞳を細めた笑った。
「君のサーヴァントで良かったよ、凛。愛してるという言葉にも嘘はない」
「そんな事言って、置いてくつもりなんでしょ?」
鼻をすすりながら言うなんて格好悪いと思いながらも、凛は言葉を放つ。すると、アーチャーは凛の涙を唇で拭う。
「私のマスターは君だけだ。何度聖杯に召喚されても、私は君だけのサーヴァントで在り続ける」
それは英霊となり、世界に縛られる男の最大限の愛情表現なのだろう。それが解るからこそ、凛はそれ以上言葉を発する事は出来なかった。ただ、その言葉を信じてみようと言う気にはなった。
「……皮肉屋のアンタが、今日は素直ね」
精一杯強がって凛が言うと、アーチャーは笑って彼女の髪を撫でた。
「そんな夜があってもいいだろう」
「……そうね。月も綺麗だし、あってもいいかもね」
繰り返す箱庭の四日間。五日目を迎えた時に自分の隣に彼はいるのだろうか。そう思ったが、今はアーチャーの言葉だけでいいような気がして、凛は彼と同じように月を見上げた。
アーチャー召喚祭用
20120202