*雨奇晴好*
本屋を出て、しまったとと思った時は既に手遅れであった。午後からの雨予報を迂闊にも失念していた忍足はアスファルトを打つ雨に小さく溜息をつく。休日に暇だったのに近所の本屋に行ったものの、家に帰れなくなってしまった忍足は、雨が上がるまで本屋で更に時間を潰そうかと思案していたが、それは視界に入った見覚えの人物が手を振ってきた事で中断された。
「忍足さん!」
ピンク色の傘をさした青学一年である赤月巴がほてほてと歩み寄って来て満面の笑顔を向ける。それに釣られるように忍足は口元を綻ばせ、巴に視線を落とした。
「おつかいか?」
「お散歩です!」
元気よく返事をした巴に、驚いたような表情を忍足は向けた。わざわざ何故雨の中散歩などしているのだろうと不思議に思ったのだ。それに気が付いたのか、巴は満面の笑みを浮かべると、さしていた傘を少し傾ける。
「お父さんがプレゼントしてくれた傘なんです!桜の模様可愛いでしょ?」
遠目から見れば無地の傘に見えたが、よくよく傍で見ると、少し濃いピンク色の桜模様が描かれていた。それに気が付いた忍足は、瞳を細めて笑った。
「ええやん。おニューの傘で散歩なんやな」
「はい!忍足さんはお買い物ですか?」
「お買い物や。けど雨で帰れんようになってもーてな」
忍足の手に本屋の袋があるのに気が付いた巴がそういうと、彼は苦笑してそう返答した。すると、巴はぱっと表情を明るくして、傘を忍足に差し出す。
「どうぞ!入って下さい!」
予想外の展開に忍足がぽかんとすると、巴は満面の笑みを浮かべて、遠慮しないで下さい!と言葉を放った。入って下さいと言う事は、相傘で家まで送ってくれると言うことだろうかと思い、忍足は口元を緩めると、巴の手から傘を取り上げる。それに驚いたような顔をした巴に、忍足は俺が持つわ、と柔らかい微笑を浮かべた。
「でも、忍足さん荷物ありますし」
「ええねん。コレくらい荷物にならんわ。それに俺の方が背ぇ高いねんから」
そう云われ、巴は少し思案したような顔をするが、納得したように頷いた。
元々青学と氷帝という他校同士であるが、跡部が随分と巴の事を気に入ってちょっかいをかけているので、忍足も彼女と接する事は多かった。テニスをこの春から始めたというのに、既に青学のミクスドレギュラーの座を確保している巴にはきっとテニスの才能があり、本人も努力を続けていたのだろう。
「テニス。どないや?」
「面白いです!私はまだまだなんで一杯練習しないと駄目ですけど」
歩きながら共通の話題を忍足が振ると、巴は元気良くそう返事をする。人懐っこい笑顔は好感が持てるし、あの跡部にさえストレートに物を言う胆力は正直忍足も驚いたものだ。さよか、と笑って忍足は返事をすると、ふと視線に入ったケーキ屋の前で足を止めた。それに驚いた巴も同じ様に足を止めて忍足を見上げる。
「どうしたんですか?」
「傘に入れてもらったお礼にケーキご馳走したるわ」
「え!?」
「遠慮せんと、好きなん選び。それとも、知らん人の家に上がったらアカンってオトンに言われとるか?」
すると、巴はぽかんと忍足を見上げて首を振った。
「言われてませんし、忍足さん知らない人じゃないです」
「さよか」
巴の返事に満足そうに笑うと、忍足は巴を連れてケーキ屋に入る。店に並んだケーキを見ると、巴の心もぐらついたのか、それじゃぁ、と遠慮がちにケーキを選び出した。それを眺めていた忍足は、真剣にケーキを選ぶ巴の横顔を眺め瞳を細める。跡部が気に入ったのもなんとなく理解出来た。全てに全力投球で見ていて気持ちがいいし、人に媚びると言う事をしない。損得勘定より、己の気持ちに素直で、喜怒哀楽が激しいのも見ていて面白いと思ったのだ。
「桃!桃のケーキがいいです!」
ぱぁっと表情を明るくして巴が言ったので、忍足は店員にそれを注文する。すると、忍足さんは何にするんですか?と巴が聞くので、忍足は苦笑して口を開いた。
「自分が選んでくれるか?」
「え?だって忍足さんが食べるんですよ?」
不思議そうな顔をした巴を見て、忍足は瞳を細める。
「俺も桃にしようと思っとってん。せやから、半分こしような。もう一つ、好きなん選んでええで。それも半分こ」
「二つ分の味が楽しめますね!忍足さん賢い!」
わーい!と言わんばかりに巴が喜んだので、思わず忍足は吹き出す。すると巴は迷わずいちごのたっぷり乗ったケーキを選ぶ。先程最終的にその二つに絞って、巴が悩んできたのに気がついていた忍足は、予想通りの結果に満足そうに笑った。
会計を済ませた忍足がケーキを持つと、巴がぱっと手をだすので忍足は首を傾げる。
「なんや?」
「私が持ちます!」
「さよか」
大事そうにケーキを抱える巴を見て、忍足は、ほな落とさんようにな、と言い、傘を開いた。すると巴は少しだけ嬉しそうに笑い口を開く。
「その傘、雨に濡れると桜模様ですけど、乾いてたら無地なんですよ」
「ほんまか?」
「本当ですよ!」
得意気に言う巴の言葉を疑った訳ではないが、忍足が聞くと巴はぶーっと頬を膨らませて言葉を零した。その表情を見た忍足は可笑しそうに口元を歪めると、ほな、家で乾かしてみようかと言う。
「信じてませんね!」
不服そうな巴の頭を忍足は撫でると、見てみたいだけや、と言い瞳を細めた。
「おじゃましまーす」
忍足の家へ初めて入った巴は元気よく声を上げると、靴を脱いでほてほてと部屋の中へ入っていく。
「巴。キッチンの新聞紙取ってな」
「コレですか?」
キッチンの隅に積まれている新聞紙を手に取った巴はそれを持って玄関にいる忍足の元へ歩いてくる。すると忍足はそれをフローリングに広げて敷くと、その上に傘を広げたまま乗せた。傘を乾かすのだと気が付いた巴は、早く乾くといいですねと脳天気な言葉を零す。
「ほな珈琲入れるから巴は座っとき」
「はーい」
ケーキの入った箱を巴の手から取り上げると、忍足はそのまま湯を沸かす為にコンロに火を掛けた。台所を通り抜けた部屋には、ベッドや本棚、TV、そして小さなテーブルが置いてある。珍しそうに巴が部屋を眺めているのを見て、忍足は苦笑して台所から声を掛けた。
「珍しいか?」
「リョーマ君の部屋より片付いてます!」
「リョーマ?越前かいな」
「はい。ついでに私の部屋より綺麗です!」
胸を張って言う事ではないと思いながら、忍足は、さよか、と笑うと、沸騰を告げたヤカンの火を止める。
「越前の家にはよぉ遊びに行くんかいな」
珈琲とケーキを持って忍足が戻ってきた時吐いた言葉に、巴は一瞬驚いたような顔をした。その反応に忍足は首を傾げる。
「いえ。一緒に住んでるので。部屋にはたまーに行きますけど」
「一緒に住んどるって、親戚かなんかかいな」
忍足の言葉に、巴は漸く彼が他校生である事を思い出し、慌てて自分の身の上を話す。親同士が友人で、巴は父親の母校である青学に入るために上京してきたこと、越前家に下宿していること。その話を相槌を打ちながら聞いていた忍足は漸く納得したような顔をする。
「すみません。青学の人達は皆知ってるんで、ついそのノリで説明省いちゃって」
詫びる巴を見て忍足は笑うと、また彼女の頭を撫でる。
「ええよ。岐阜から一人で来たんかいな。偉いな」
「忍足さんも大阪から一人で来たんじゃないですか?」
巴に言葉に忍足は驚いたような顔をすると、笑って頷いた。
「まぁ、俺の場合は親の転勤多くてな。テニスは腰を据えてやりたかったし、氷帝はテニス強豪やったからなぁ。巴、珈琲冷めてまうで」
話に夢中になりすっかり巴の手が止まっているのに気が付いた忍足が促すと、慌てて巴は珈琲にたっぷりの砂糖とミルクを投入した。それを眺めていた忍足は、ケーキを半分に切り分けると、自分の皿と、巴の皿に乗せて食べるように促す。わーいと大喜びでケーキをほおばる姿を見て忍足が笑ったので、巴は首を傾げる。
「何で笑うんですか?」
「いや、めっちゃ美味そうに食べるから。ええこっちゃ」
珈琲に口を付けてそう言った忍足を見て、巴は目を丸くした。
「そんだけ美味しそうに食べるんやったら、また何か食べさしたいって思うわ」
「奢って貰ってばっかりだと悪いです」
「跡部かてよーさん自分に食べさしてるんと違うんか?」
忍足の言葉にぎくりとした巴を見て、あぁ、図星かと思い、忍足はニヤニヤ笑う。すると巴は目を逸らしながら、そりゃ跡部さんには良く奢ってもらってますけど……と小声で呟いた。
「心配せんでも、俺もよー跡部には奢ってもらってるわ。アイツはそーゆーの好きやねん」
「そうなんですかね?」
「せやら、俺も好きで巴に何か食わしたいねん。あかんか?」
忍足の言葉に巴はフォークを口にくわえたままうんうん悩んだ様子を見せる。小動物のようだと思った忍足は思わず笑い、ぽんぽんと巴の頭を軽く叩いた。
「こっちの懐具合に合わせてやから心配せんとき」
「うー。無理しないで下さいよ」
上目遣いに巴が言うので、忍足は笑いながら了解すると、ケーキを口に運んだ。余り甘いものを食べるクチではないが、こうやって美味しそうに食べる巴を目の前にすると、不思議と美味しく感じる。気分の問題だろうが、家での食事は一人に慣れていた分、新鮮で気分が良かった。
「何だか忍足さんに甘えてばっかりのような気がします」
「そうか?ケーキ食べさしただけやんか。それも傘のお礼やし」
怪訝そうな顔をした忍足を見て、巴は申し訳なさそうな顔をする。
「えっとですね。元々傘を誰かに見て欲しくってお散歩してたんです。褒めて欲しいって言うか何と言うか。だから、傘褒めて貰ったお礼に、おうちまで送ろうと思ったんです。だから、お礼ののお礼ってよく考えたらおかしいなぁって」
モニョモニョと言う巴とは逆に、忍足は少し驚いたような顔をした。まさか傘を褒めただけで、その事に喜んでお礼をしようと家までついてきたとは思わなかったのだ。随分と義理堅いと思うと同時に、素直すぎる性格も問題があるのではないかと一瞬考えた。人懐っこい性格で、警戒心が薄い。越前と言う同世代の異性と一緒に過ごしている所為か、異性に対しても無防備な所がある。だから跡部が他の男を牽制するように、熱心にちょっかいを掛けるのかと納得出来るところもあるのだが。そんな事を考えながら、巴の方を見ると、珈琲に口をつけて忍足の様子を伺っているようだったので、彼は反射的に笑う。
「せやったら、次は巴が俺を喜ばしてーな。ケーキのお礼に」
「え?」
「交代交代やったら公平やろ?」
忍足の言葉に巴はぱぁっと表情を明るくして大きく頷いた。
「ほな、今度映画でも見に行こうか。俺が好きなのに付き合ってくれたらええわ」
「はい!」
漸く全て納得出来たのか巴が嬉しそうに笑うので、忍足は瞳を細める。ふと、視線を玄関の方へ向けると、広げられた傘が視界に入り、忍足は立ち上がった。
「傘、乾いたみたいやな」
「無地でしょ?」
得意気に言う巴に言葉に笑って頷くと、忍足は傘を閉じて綺麗に巻いてやる。
「有難うございます!それじゃぁそろそろ帰りますね」
元気よくそう言った巴に忍足は困ったような情けないような顔をして笑った。傘が乾いた事に気がつかなければ良かったと少し後悔したのだ。もう少し引き止めておきたかったが、下宿である事を考えると、遅くなるのは気の毒だと忍足は思い、巴を送り出すことにした。
「あ、コップ!片付けないと」
「ええよ。俺がやっとく。あとな、携帯番号教えてな」
忍足の言葉に巴ははい、と言い携帯番号とメールアドレスを交換した。
「忍足さんって下の名前なんて言うんですか?」
「侑士」
電話帳に登録する為に聞いたのだろう巴の言葉に、忍足は彼女の携帯の画面を覗き込みながら漢字を教えてやる。
「格好良い名前ですね」
満面の笑みでそう言った巴に、忍足は苦笑すると、格好ええんは名前だけやないで?と零す。すると、巴はそうですね!良い人ですし!と能天気な返答した。跡部がいまだに落とせないのはきっと彼女のこの鈍さの所為だろうと納得した忍足は、苦笑すると自分の携帯もパタンと閉じる。
「ほな、気をつけてな。映画、チケット取れたら連絡するわ」
「はい!楽しみにしてす。ご馳走様でした!」
そう言って傘を握って出ていこうとした巴の腕を、忍足は慌てて掴む。それに驚いた巴が振り返ると、忍足が神妙な顔をしていたので、黙って巴は彼の言葉を待つ事にした。
「今日の事も、映画の事も跡部には内緒やで」
「え?はい」
「アイツ絡んだらややこしいよって。やれ巴が映画見るなら映画館貸切だ何やって言い出しそうやん」
忍足の言葉に思わずプッと吹き出した巴であったが、跡部なら映画館の貸切などやってのけそうなので、忍足の心配もなんとなく理解できた。金持ちの感覚は庶民である巴には理解できないものもあったし、忍足もそうなのだろうと勝手に納得して巴は頷いた。
「映画館貸切なんて他の人の迷惑になりますもんね!分かりました。こっそり二人で行きましょう!」
「ええ子や。ほな、また」
「はい」
元気よく手を振って帰って行く巴を見送り、忍足は部屋に戻る。すっかり冷めた珈琲は苦かったが、巴が齎した幸せな気持ちの余韻が心地よく残っている。
素直すぎて心配やなぁ。跡部に邪魔をされたくないが故に、適当にでっち上げた理由を巴は信じて帰っていた事に対してそんな事を考えながら忍足は携帯を開いた。すると、丁度巴からのメールが届いており、忍足は驚いたようにそれを開く。家に到着するには早すぎる。
『綺麗な虹が出てますよ!』
写真と共に添えられた言葉は短かったが、思わず忍足は口元を緩めた。雨であっても、晴れであっても、巴は嬉しいらしい。その幸せな気持をおすそ分けして貰った様な気がして、忍足はベランダに出ると、空にかかった虹を携帯で撮り、それを添付して巴にメールを送る。
『こっからも綺麗に見えてんで』
本当は自分ばかりが楽しかったような気がする。だから、少しでも巴に自分の幸せをおすそ分けできればと忍足は空を眺めて瞳を細めた。
忍足v巴も結構好き。
20100607 ハスマキ