*和風細雨*

 煌々と照る月に、全蔵は思わず舌打ちをすると、傷口を抑えながら疾走した。帰るまでが遠足だ等と聞いたのは子供の頃で、仕事もやはり帰るまでが仕事だと思いながら、物陰に身を潜める。
 ここで自分に何かあったとしても、依頼自体は問題なく終わっている。けれど、命を掛けるほどの依頼ではないと、全蔵は息を殺しながら辺りの様子を伺った。忍び込んだ屋敷の用心棒がバタバタと走りまわる。隠れ家まで逃げる事が出来れば一番いいのだが、そうもさせてくれないらしい。足を撃たれたのは失敗だった。そう思いながら、全蔵はまた、追っ手を巻くために走りだした。

 街灯の少ない河川敷を走りながら、全蔵は正面から歩いてくる人影に、思わず身を隠す。しかし、その相手は全蔵の姿に気がついたのか、まっすぐに彼の方へ歩いてきた。足音で追ってではないと言う事は解るが、一般人に見つかるのも厄介であると判断した全蔵は、気絶させるために相手が距離を縮めるのを息を殺して待つ。
 あと数歩。そう思ったと同時に、背後からバタバタと複数人の足音がして、思わず全蔵は舌打ちをした。追っ手がここまで来たのだ。逃げるべきかと一瞬迷ったその瞬間、全蔵は勢い良く正面から来た誰かに蹴り飛ばされて、ゴロゴロと土手を転がり落ちた。
「!?」
 受身をとりながら、全蔵は驚いて土手に身を潜めると同時に、上の様子を伺った。すると、追っ手は土手を転がり落ちた全蔵に気がつかなかったのか、地面に座り込んだ誰かに声をかけている様だった。
「女。どうした」
「いえ、急に来た男に突き飛ばされて……」
 その言葉に追っ手達は顔を見合わせると、女を立たせてやり、どちらに行ったか確認をする。
「あの橋の方に向かったと思います。暗かったので良くは分かりませんが」
 申し訳なさそうに言う女に視線を送ると、追っ手達はそのまま数メートル先の橋に向かって走りだした。
「……助かった……のか?」
 土手を転がり落ちたお陰で傷口は開いて酷い有様であるが、追っ手はかわせた。そして、聞き覚えのある女の声。全蔵は顔を顰めると、大きく息を吐き出して苦笑した。
「大雑把過ぎるんじゃねぇの?姫さん」
「生きてる?」
 土手を降りてきた女の顔を見て、全蔵が口を開くと、カグヤはそう短く言葉を零した。それに対して全蔵は小さく頷くが、僅かに顔を顰めた。
「もうちょっと頑張んなさい」
 そう言ったカグヤは、よいしょと小さく言うと、全蔵の体を支えて立たせる。それに驚いた全蔵が、体を離そうとするが、それを許さず、顔を顰めて不機嫌そうの言葉を零した。
「私の家が近い」
「迷惑かける訳に行かねぇ」
「私が好きでやってんだから、文句は受け付けません」
 足と、腹。二箇所の出血は多いし、一人では逃げられないだろう事は全蔵も分かっていたが、仲間に知らせて救助を待つつもりだっただけに、カグヤの申し出は突飛ではあったが、有難くもあった。けれど、迷惑がかかるということは事実で、全蔵は判断に迷う。
「あんまり文句言うなら、川に突き落とすわよ。面倒臭いから」
「……それは勘弁してくれ」
 まさかここで脅しに入ると思っていなかった全蔵は、思わずそう言葉を零すと、体をカグヤに預けた。

 

 のろのろと家に向かい、カグヤは勝手口を乱暴に開けると、一旦全蔵を座らせ、応急手当をする。病院に連れていくかと考えたが、足に関しては銃で撃たれたようであるし、腹は刀傷だ。理由を聞かれても困ると判断してその選択肢は削った。
「全さん」
 小さな声で名前を呼ぶと、彼が僅かに顔を上げたので、カグヤはほっとしたような顔をして、彼の服を破り、血を洗い流す。幸い弾丸は貫通しているようであるし、腹の傷も内蔵までは傷つけてはいないらしい。カグヤ自身も、汗と血で汚れながら、なんとか手当を終えると、彼女は私室に布団を敷いて、そこに全蔵を押し込めた。
「……生きてる?」
 思わずそう声をかけたカグヤは、全蔵の頬に手を伸ばそうとしてそれをやめた。血で汚れた手で触れるのが躊躇われたのだろう。少し迷った挙句に、全蔵に顔を近づけて、呼吸だけ確認すると、彼女は安心したように壁にもたれ掛かった。
 どっと疲れたカグヤは、壁にもたれかかったまま瞳を閉じて一つ深呼吸をする。着替えて、己についた血を洗い流すべきなのだろうと解ってはいたが、体が思うように動かない。漸くカグヤはゆっくり立ち上がると、篭った血の匂いを換気するために窓を開け、そのまま私室を後にした。
 風呂場へ向かい、血を洗い流し着替えると、彼女は勝手口からそっと外へ出る。先程まで煌々と闇夜を照らしていた月は、いつの間にか雲に隠れ、彼女に雨の前の独特の空気が纏わり付く。血の跡が心配であったが、これならば直ぐにでもやってくる雨が洗い流してくれるだろう。幸い追っ手は見当違いのところを探しているのか、家の周りは静まり返っている。カグヤは静寂の中、家の前を流れる川まで歩いてゆくと、手に持っていた全蔵の服を無造作に放り投げた。小さな水音と共に水面を流れてゆく血まみれの服。この闇世の中、追っ手が見つけるかどうかは微妙な所ではあるが、もしも見つければ諦めるなり、川の中を捜索するなりするであろう。
 踵を返すと、カグヤは小走りにその場を後にして闇夜に姿を消した。

 

 雨の音がすると思い、全蔵はうっすらと瞳を開ける。窓の外はまだ薄暗く、明け方であろう。
「目が覚めましたか若」
「……川の向こうで親父が手招きしてやがった」
 そう言って舌打ちをした全蔵を見て、枕元にいた男は安心したように瞳を細める。
「何でお前がここにいるんだ?」
 男は御庭番衆お抱えの医師であった。無論、幕府によって御庭番衆は解体されたので、現在は正式にお抱えという訳ではないが、いまだに忍の仕事をしている人間にとってはかかりつけの医師といえる。全蔵の家の傍で細々と診療所を開いているのだ。
「猿飛殿に呼ばれました。ここの家主が猿飛殿に連絡を入れて来たようでして」
 そう言うと、医師は窓を閉めて全蔵の傍へ再度座る。体を起こそうと全蔵がしたので、医師はそれを止めると呆れたような顔をした。
「無茶はなさらないでください」
「無茶しねぇと仕事になんねぇし。……で、姫さんは?」
「家主ですか?先程散歩に出られましたよ」
 こんな時間にか、と全蔵が呟くと、医師は渋い顔をして口を開く。恐らく家の近くに追っ手がかかっていないか確認しに行ったのであろうと。雨のおかげで追跡は恐らく免れているだろうと医師は言ったが、彼女は散歩のついでだと出ていってしまったようだ。
「……格好悪ィなぁ」
「ここの家主とお知り合いで?猿飛殿とも知己のようでしたが」
「別件の依頼主。鬼兵隊がらみの」
 その言葉に医師は納得したような顔をすると、改めて全蔵の怪我の塩梅を確認する。
「応急手当が良かったので失血死は免れました。一応血は足しておきましたが無茶はなさらないように」
 その言葉に全蔵は瞳を細めた。恐らく応急手当はカグヤがしたのであろう。そもそも、元攘夷浪士であるのだから、病ならともかくとして、怪我の応急手当なら慣れたものであろう。
「暫くは大人しくするさ。……これ以上姫さんに迷惑掛けるわけにも行かねぇしな」
 情けない、そう思い全蔵は思わずため息をついた。無論今回の仕事はカグヤとは全然関係の無い仕事であるが、忍として、雇い主に無様な姿を見せるのは今後のことを考えると非常に困る。
「そうなさってください。死なれても困ります」
「……俺も困る。来世まで姫さんと契約してるからな」
 全蔵の言葉に、医師が怪訝そうな顔をしたので全蔵は咽喉で笑う。例え生まれ変わったとしてもカグヤを追い続けるといった高杉と、逃げ続けるといったカグヤ。彼女は来世でも契約しようと笑いながら言ったのだ。無論冗談であろうが、全蔵にしてみれば、腕を認められたと言うことだ。その期待を裏切るわけには行かない。
「それでは私は失礼します。家主に宜しくお伝え下さい」
「もう帰るのか?まぁ、いてもすることねぇだろうけど」
「若の無事が確認できましたので。猿飛殿もじき参りましょう」
「猿飛が?」
「はい。家主に依頼されて、若の任務先に探りを入れにいったようです。家主は若につきっきりでほとんで寝ておりませんので、戻ったら少しでも寝るようにお伝え下さい」
「……俺、姫さんの下で一生ただ働きしねぇと借り返せなさそうだな」
「家主はそう思わないでしょうが、若がお望みならそうなされば宜しいのでは?」
 医師は荷物をまとめると、笑いながらそう返答した。無論、医師とてカグヤが全蔵の忍の仕事の後始末を、猿飛あやめの手を借りてとはいえさっさと片付けてしまうとは思っていなかっただけに、彼女の行動力には驚かされた。全蔵の事をよほど気に入っているか、人がいいのか。そこまでは判断できなったが、全蔵を助けたいという意志は強く感じられたので、彼女に全蔵を任せる事にしたのだ。本来なら己の病院に連れて帰りたいが、追手の心配もあるので一日ぐらいは身を隠していたほうがいい。そう判断してのことであった。
「明日には若の周りも落ち着きましょう。そうしたら迎をよこしますのでうちに来て下さい」
「解った」
 素直に全蔵が応じたので、医師は安心したような顔をすると部屋を出て行く。それを見送った全蔵は、体を起こすと、僅かに顔を顰めた。鈍い痛み。腹と足の塩梅はどうだろうか、そう思い布団を捲った全蔵は、思わず渋い顔をする。
 傷自体は医師が言うように出血が多かっただけで死ぬほどのことではない。けれど、布団がなんだかんだで血で汚れてしまっているのだ。
「……姫さんの服も汚れただろうし、これ、弁償だよなぁ」
 包帯を変えやすいように全裸にされているのも布団を血で汚した原因だろうが、もしかしたらカグヤの家に男物の着物がなかったのかもしれない。
「着替でも頼めばよかったなぁ。猿飛に頼むか……」
 医師が出て行った後に着替のことに思い至った事に後悔して全蔵が呟くと、ボフッと、顔面に何かを投げつけられて思わず面食らう。
「そう言うと思って持ってきてあげたわよ。その粗末なものさっさとしまって頂戴」
「粗末って言うなよ、粗末って」
「銀さんのモノ以外は全部粗末なのよ!」
 きぃ!と女性独特のヒステリックな声を上げた猿飛に、全蔵は呆れたような顔をすると、のろのろと着替え始める。
「随分派手にやられたわね」
「仕事自体は大した事なかったんだがなぁ、思った以上に護衛が多かった」
「とりあえず追っ手はないわ。川から忍者装束の切れ端が見つかった上に、この雨で増水。曲者は任務完了後に死んだって判断されたみたい。まぁ、向こうさんも後始末あるからアンタに時間割いてられなかったってのもあるだろうし」
「……俺の服?」
 そう言えば自分の着ていた服はどうしたのだろうか、そう思い思わず言葉にすると、猿飛は少しだけ首を傾げて口を開いた。
「カグヤさんがどうせもう使えないだろうから川に捨てたって言ってたわよ。雨で血痕が流れるまで様子も見てたし、なんなのあの子。私達と同業?」
 銀時と幼馴染で、商売相手の女だという事は万事屋に張り付いている猿飛は知っていたが、詳しく知っているわけではない。ただ、カグヤ自身は猿飛の話は銀時から聞いていたし、全蔵もそもそも、猿飛の紹介で依頼をしたのだ。猿飛の知る限りで一番優秀なのはやはり全蔵で、銀時の口添えもあって猿飛は全蔵への橋渡しを引き受けた。けれど、それ以外でカグヤと話すことは稀である。
「……今は三味線弾きの、元侍」
「侍ねぇ」
 腑に落ちない様子の猿飛を見て、全蔵は少しだけ困ったように笑うと、漸く着替を完了して再度布団に潜り込む。
「お前にも手間かけさせたな」
「別にイイわよ。カグヤさんから依頼料貰ってるし」
「な!?」
 猿飛の言葉に全蔵は飛び起きると、痛みの走る腹を抑えて、思わず言葉を零す。
「ちょっと待て。依頼として受けたのか?」
「そうよ。忍者にタダで働けってのも失礼だろうからって、向こうから言ってきたのよ」
「その依頼料俺が払う。元々俺の後始末だ」
 全蔵の言葉に猿飛は少し驚いたような顔をすると、瞳を細めた。
「やだ、全蔵……女の趣味変わったの?」
「ちげぇよ。そもそもその依頼は俺さえ仕事を完了してりゃ、姫さんがするべき依頼じゃねぇし」
「なんだ、つまらないわ。あの女銀さんと仲いいから、全蔵とくっついちゃえば邪魔者いなくなると思ったのに。まぁ、私としても仲間の後始末だもの、ただでもいいと思ったんだけどね」
 そう言うと、得意気に猿飛は懐から封筒を取り出す。一体いくらで引き受けたのかと、全蔵は封筒をひったくるように受け取ると、中を覗き込む。
「なんだこりゃ」
「銀さんの写真、5枚セット!しかも、浴衣・水着・女装・ホスト・通常バージョンの豪華バリエーション!」
「……これが依頼料?」
「お金はやっぱりね、受け取りにくいじゃない。そしたらそれくれたの。だから全蔵は何も心配しなくていいわよ」
 呆れたような顔をした全蔵から、写真を再度己の手に戻すと、しばしうっとりと眺めた後に、いそいそと封筒に戻して大事そうに懐にしまう。猿飛も気を使ったのだろう、写真程度で手を売ってくれた事には全蔵も感謝した。
「姫さんそれ直ぐに用意したのか?」
「前に全蔵紹介した時もつけてくれたのよねぇ。私への心付用に、何枚かストックはしてるみたい。侮れないわよね、幼馴染って。銀さんも警戒心薄いから、あんな写真や、こんな写真とり放題だもの!」
 悔しさを滲み出させて言う猿飛であるが、カグヤが割とあっさり写真を譲ってくれる点では有難いと思っているのだろう、銀時と付き合いのある女の中では比較的好意的である。
「姫さんに迷惑かけっぱなしだな」
「感心はしないけど、まぁ、カグヤさんも面倒見いいほうだし、気にしなくていいんじゃないの?」
「忍としても、男としても情けねぇって話」
 全蔵の言葉に、猿飛は驚いたような顔をすると、口を開きかける。しかしそれは帰ってきたカグヤの言葉でかき消された。
「おやまぁ、さっちゃんさん。来てたの?」
「お邪魔してるわ。追手の件は全蔵に報告したけど、何も心配要らないわ。医者のところに移動する段取りが出来るまで、全蔵預かってて」
 キリッと表情を改めた猿飛に、カグヤは柔らかく笑いかけると、丁寧に頭を下げる。
「有難う。助かったわ」
「……別にアンタのためじゃないわよ。全蔵と付き合い長いし、銀さんの写真くれるって言うから張り切っただけ」
 まるでツンデレみたいな言い回しだと全蔵は呆れたような顔をして猿飛を眺める。すると、それに気がついた猿飛は、恥ずかしそうに、それじゃぁ、帰るとバタバタと部屋を出て行った。それを見送ったカグヤは、全蔵の傍に寄り、口を開いた。
「大丈夫?朝ごはん食べる?」
 僅かに濡れたカグヤの髪を見て、全蔵は少し首を傾げると、すまなかったと一言詫びた。
「いいのよ。私が好きでやったんだから」
 そう言うと思ってはいたが、全蔵は困ったように笑うと、口を開く。
「情けねぇな。姫さんの前では最高の忍でいようと思ってたのに」
「……いいじゃないのさ、別に私の依頼でしくじったわけじゃないし、今回の依頼だって問題なく終わったじゃないの。生きてりゃ何度でも取り返せるし、やり直せるわよ」
 そこまで言って、カグヤはぽふんと頭を布団に押し付け、さらに言葉を続けた。
「……生きてて良かった……」
 泣いているのだろうか。そう思い、全蔵は彼女の頭に手を乗せて、瞳を細めた。元攘夷志士であったことを彼女は悔いた事はないだろう。己が選んだ道だと胸をはって言うだろうが、元攘夷志士であることが、彼女に大きな傷を残しているのもなんとなく全蔵は分かっていた。目が覚めたら仲間が死んでいるかもしれない、世界が変わっているかもしれないと言う恐怖は彼女の蝕んで、いまだに眠るのは苦手で、今回の件は彼女の中で過去を思い出させる嫌な夜だったのだろう。
 全蔵は彼女の肩に手をかけると、ゆっくり彼女の体を起こす。それに驚いたカグヤが顔を背けようとするが、それを許さず全蔵は彼女の涙を指で拭った。
「悪かった。姫さんとは来世まで契約してるしな。勝手には死なねぇようにする」
「……忍だから仕方ないって解ってるんだけどね。っていうか、不細工な泣き顔わざわざ見るとか、何考えてんのさ」
 不服そうなカグヤの表情に、全蔵は思わず口元を緩めると、俺はブス専だって良く言われると笑う。
「有難う姫さん」
「うん」
 そう言って、カグヤは朝食の支度を守るために部屋を出るのを見送ると、全蔵はまた布団に横になり瞳をとじた。

 

 数日後。勝手口のチャイムが鳴り、カグヤが勝手口に向かうとそこには全蔵がなにやら風呂敷包みを持って立っていた。普段はチャイムなど鳴らさずに入ってくるのに珍しいと思いながら、カグヤは口を開いた。
「元気そうね。良かった」
「明日からピザ屋のバイトは再開しようと思ってな」
 上がるように促すと、全蔵は遠慮せずに座敷にむかい、自分専用のドーナツ型座布団に腰をおろす。いつの間にかこの家に置かれていた訳だが、カグヤの知人で痔持ちは自分だけなので、勝手に自分専用だと全蔵は判断している。
「そう言えば、布団。どうだった?」
「どうもこう、何であんなにいい布団送りつけてきたのさ」
「姫さんの布団駄目にしたし。気に入らなかったか?」
「あんな上等なの来るとは思わなかったわよ」
 カグヤの家から引き上げるときに、全蔵が布団を駄目にした侘びに、新しいのを送ると言っていたが、翌日に届いた布団は見るからに上等でさすがのカグヤも驚いた。返そうかとも思ったのだが、持ってきた人間がきつく全蔵に言われていたらしく頑として返品を受け付けてくれなかったのだ。
「遅くなったけど、これも」
 そう言って全蔵は風呂敷包みをカグヤに差し出した。
「いや、布団で十分だし。これ以上悪いし」
 受け取るのを渋るカグヤに、全蔵は困ったように笑いかけると、口を開いた。
「俺が選んだ。だから受け取って欲しい」
 新品の着物は、鮮やかな藤の花が裾にあしらわれたもので、それを見たカグヤは瞳を細める。
「前に姫さんが言ってたろ?相手の好みが解らないのは仕方ないけど、せめて自分の気に入ったものを送れって。だから俺が一番気に入ったのを選んだ」
「……それじゃぁ、受け取らない訳にはいかないわね」
「そーゆー事」
 着物までもらうのは申し訳ないと思うが、相手が自分を思って選んだと言われれば断るのも失礼だとカグヤは判断して受け取ることにした。
「全さん、藤、好きなの?」
 以前もらったマフラーも藤だったと思いだしたカグヤが聞くと、全蔵は口元を緩める。
「姫さんが好きだって言ってた花の中では一番だな。急いで仕立てさせたから不都合あったらいってくれ」
「……仕立てさせたって……」
「これでもいいとこのボンボンだからな。使えるツテは何でも使う主義だし」
 呆れたような顔をしたカグヤであったが、着物に視線を落として直ぐに嬉しそうな表情を浮かべたので、全蔵は安心したように笑った。
「これでも足りないって、俺は思ってるけどな」
「仕事で返してくれればいいわよ。有難う。凄く嬉しい」
 柔らかく微笑んだカグヤを見て、全蔵は満足すると立ち上がる。
「もう行くの?」
「あぁ。明日から復職するってバイト先に言わなきゃなんねぇし」
「そう」
 見送るためにカグヤが勝手口まで付いて行くと、全蔵は困ったように笑う。
「ありがと、姫さん。今後も宜しく」
「こちらこそ」
 カグヤが嫌そうな顔をしなかったのに安心した全蔵はそのまま彼女の家を出ると、バイト先へ向かう。
 忍としても、男としても情けない姿を見せたが、彼女は失望した様子もなく今まで通りで安心した。けれどそれに甘えているわけにも行かない。早く完全復帰して、彼女の仕事も、別の忍の仕事こなしていこう。そう思い、全蔵は軽く地面を蹴ると、バイト先へ急いた。


さっちゃんさんと呼ぶことに対して全蔵はツッコミをいれるべき

20100901 ハスマキ

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