*満月*

 吉原の空に浮かぶ月を見上げて、阿伏兎は瞳を細めた。視察という名目で来てはいるが、鳳仙の支配から解き放たれた吉原での仕事は殆ど存在しない。監理を任された神威が放り出してしまったからだ。全く把握していないというのも春雨への報告に困るという理由で、阿伏兎は何度か吉原を訪れている。
 変わったといえば変わったのかも知れない。けれど、この街にいた女達は別の世界で生きることができない。だから、支配から放たれたが、この街にとどまり続ける者も多いのだという。そんな女達を守り、束ねているのは吉原の太陽と歌われた日輪。阿伏兎はこの女に会うことはないが、自治を相変わらず守っている月詠から話は時折聞く。彼女にとって日輪とは太陽であり、誇りであり、希望なのだろう。仏頂面の顔が僅かに緩むのを眺めながら、阿伏兎は吉原の話を聞く。
「……まぁ、問題は山積みだがなんとかなる。ちょっかいをかけるな」
「神威が興味なくしちまったからな。かけようにもかけられねぇよ。支配もしねぇが、保護もしねぇ」
 月詠の言葉に阿伏兎が返答すると、彼女は神妙な顔をして頷く。確かに吉原は鳳仙の支配を受けていたが、確かに加護も受けていたのだ。幕府からはほぼ治外法権と黙認され、自治も百華に任されていた。外の法より吉原の法を優先され、それが許されていた。今はまだ幕府も様子見であろうが、いずれ干渉してくるかも知れない。その時の盾がないのだ。無論、神威が興味を失ってはいるが、吉原の支配権はまだ春雨が握っているのは事実であるから、そうやすやすとは干渉してこないだろうが、中には吉原の利益を狙うものもいるかも知れない。仮定ばかりの話は阿伏兎自身好きではないのだが、念の為に釘を差しておくことにしたのだ。
「わっちらの街はわっちらで守る」
「そうか」
 阿伏兎はそう言うと立ち上がり、また空を眺めた。日は暮れて、月が姿をあらわし闇夜を照らす。
「……月が好きなのか?」
「いや。今日はやけに目立つと思ってな」
 怪訝そうな月詠の言葉に阿伏兎はそう返答する。すると彼女は、あぁ、と短く声を上げて言葉を続けた。
「何年かに一度のスーパーフルムーンらしいな」
「なんだそれ」
「詳しいことは知らん。ただ、月がこの星に一番近づく日だから、月がいつもより大きく見えると言っておった」
 テレビか何かで得た知識なのだろう、彼女の言葉を聞いた阿伏兎は、納得したように頷いた。月の軌道は楕円を描いている筈だ。多分その影響で地上から見える月の大きさが変わるのであろう。宇宙からこの星や月を見ることの方が多い阿伏兎には余り縁のない話ではあるが、運良くその一番月の大きく見える日に地上に降りてきたという事だと納得して阿伏兎は瞳を細めた。
「……運がいいって訳だ。次のスーパー何とかは見れねぇかも知れねぇしな」
「そんな歳でもないだろう」
 呆れたように言う彼女を見て、阿伏兎は情けない顔をして笑った。
「鳳仙みてぇに、誰かに殺されるかもしれねぇって事だよ」

 

 ターミナル経由で地上に降りた阿伏兎は、来たときと同じようにターミナルへ向かう。ここのところ船の入港規制が厳しく手続きが面倒なのだ。無論組織的に動いている春雨の第七師団なのだから、規制をくぐる方法はいくらでもある。けれどその手間と時間を考えれば、ただの視察など一人でターミナル経由で入った方が何かと面倒がない。別の星経由で船に戻る手筈になっている阿伏兎は、己のチケットを確認して舌打ちをした。まだ随分と搭乗まで時間があるのだ。
 どうしたものかと暫し考え込んだが、阿伏兎はそのままターミナルのエレベーターに乗り込み展望室へと向かった。休憩所があったのと、一面ガラス張りになっているそこならば月が見えると思ったからだ。
 しかし、いざ展望室へ向かった阿伏兎は、直ぐに回れ右をしたくなった。普段の客に加えて、おそらく同じように十何年に一度かの月を拝むために人が押し寄せていたのだ。家族連れ、カップルの多い中、一人で月を眺めるのは居心地が悪くなった阿伏兎は、一目散に椅子の設置されている休憩所の方へ向かった。
 皆、ガラス窓に張り付いて外をみている為か、椅子は思ったより空いており、阿伏兎は自動販売機に硬貨を投入すると、どの商品にしようか指を暫し彷徨わせる。しかし、阿伏兎がボタンを押すより早く、ガタンと音を立てて商品は吐き出され、唖然とした阿伏兎は、自分より先にボタンを押した指の持ち主に視線を向ける。編笠を深く被った男は口元を歪めて少し首を傾げた。その様子に呆れたような顔をして、阿伏兎は再び硬貨を投入する。そしてまた編笠の男によってボタンは押される。
「後何枚硬貨入れりゃいいんだ?高杉」
「おっさんの分」
 そう言われて、阿伏兎は漸く自分の分の商品を選ぶ。すると高杉は取り出し口から商品を全部拾い上げ、ひとつのペットボトルのキャップを緩めると、それを阿伏兎に手渡した。その行動に阿伏兎は少し驚いたような顔をする。片腕を無くした自分への気遣いなのだろうと思うと妙に可笑しくて口元を緩める。たかられているのに、礼を言うのも可笑しい様な気がしたが、阿伏兎は苦笑して口を開いた。
「どーも」
 腕を無くして随分経つので今のところ不便はない。キャップを開けるぐらいは造作もないのだがあえてその事には触れなかった。
「アンタの組織は狙い撃ちされて今規制厳しいって聞いたけどな」
「あぁ、少し間引きしたんだよ。組織もでかくなりすぎると不便も多い」
 椅子に座って高杉が飲料に口をつけるのを見て、阿伏兎はそれを見下ろした。年明けに鬼兵隊が大量検挙されたという話は春雨にも届いている。
「それに、あの天人を失脚させたのは春雨に褒められたぜ」
 咽喉で笑った高杉を見て、阿伏兎は呆れたような顔をした。鬼兵隊を匿っていたと幕府から権限を剥奪された天人は春雨と敵対していたのだ。恐らく組織の間引きついでに仕事もこなしたと言うことだろう。高杉にとっては痛くも痒くもなかったという事か。そう考えて、阿伏兎は高杉を見下ろした。
「左腕。どーした」
「解るのか?」
 阿伏兎の言葉に高杉は少しだけ驚いたような顔をして瞳を細めた。
「夜兎ってのは、身体能力に優れてるだけじゃねぇんだよ。相手の弱点を見抜く洞察力も優れてる。……多分な」
「多串君にやられた」
 つまらなさそうにそう言った高杉を見て、阿伏兎は多串君が誰だったか思い出そうとして直ぐに放棄した。多分聞いたことがない様な気がしたのだ。
「その上俺の可愛い迦具夜姫も取られた」
「ご愁傷さま」
 あぁ、きっとあの三味線屋の所に出入りしている真選組の誰かだろうとなんとなく思った阿伏兎は、思わずそんな言葉を零した。それを聞いて高杉は不快そうな顔はせずに、壁に凭れかかって阿伏兎を見上げた。
「おっさんは取られるなよ」
「既に取られてるっての」
 阿伏兎の返答に高杉は咽喉で笑うと、瞳を細めた。
「先に出会った方が有利だなんて嘘だ。御伽話でも迦具夜姫は一番最後に出会った男と相思相愛になったしな。まぁ、結局月に帰っちまう訳だけど」
 今日は随分高杉が喋るなと思いながら、阿伏兎は黙って話を聞いた。元々万斉よりは喋る方であるが、個人的に親しいわけでもない。あくまでレンという夜兎を介しての関係である。
「迦具夜姫が帰っちまうから満月は嫌いだって聞いたけどな。何で今日ここにいんだよ」
「……前の満月でもう帰っちまった。今は出戻り待ち」
 そう零すと、高杉は可笑しそうに口元を歪めた。
「そうだな……満月はずっとキレェだったよ。けど、そーだな……今はそうでもねぇんだ」
「心境の変化でもあったのか?」
「……多分な」
 困ったように笑った高杉を見て、阿伏兎は面食らう。その表情を見て、高杉は咽喉で笑っていつも通りの意地の悪い笑顔を向ける。
「時間の共有ってのは確かに有利かもしんねぇよ。けど、俺は後からきたやつに取られた。ってことは、おっさんも頑張れば取れるんじゃねぇの?」
 突然自分の方へ話を振られて、阿伏兎はしかめっ面をする。
「……アンタは自分から大事な迦具夜姫さらった男にどうしたよ」
「肩砕いてボコボコにした。この間退院したってのは聞いたけどな。思ったより頑丈だった」
「殴り合いで決めたのかよ」
「シンプルでいいだろ?夜兎には悪くねぇ選択だと思うけどな」
 そう言うと、高杉は煙管に火を入れて肺に煙を入れる。
「もっと平和的に決められねぇもんかねぇ」
 その言葉に高杉は不服そうに口を尖らせた。
「仕方ねぇだろ。可愛い迦具夜姫は俺の事を見捨てられないし、助けに来た男も守りたかったんだから。……俺が多串君殺しちまう前に、テメェの傍から離したってのに空気読めずにノコノコ来た多串君が悪い。だったら殴り合いしかねぇだろ」
 高杉の言葉に阿伏兎は思わず瞳を細めた。そんな選択もあるのかと。傍にいなくても、誰かが幸せであるようにあえて離れるという選択。高杉の悪意から守る為にあえて離れたのだろう。
「俺と万斉が殴り合いになったらお嬢が泣くとか思わねぇの?」
「……泣くだろうな。大泣きして、大暴れして、家出するかもな」
「それは困る」
 高杉の言葉に阿伏兎が大真面目に答えると、彼は可笑しそうに瞳を細めた。
「あぁ、きっとお前等は困って、喧嘩投げ出して、泣きながら探すんだろ」
「勝手に捏造すんなよ。万斉に叱られるぞ」
「いいんだよ。万斉は少しぐれェ困ったほうが世の中公平だ。年がら年中べったべったしてウザイ」
 それは完璧に八つ当たりではないのかと思ったが、それを口に出さず阿伏兎は困ったような、情けないような顔をして笑った。その様子を見て、高杉はほんの少しだけいつもの意地の悪い顔ではなく、子供のように笑う。
「世の中不公平だ。どうしようもなくな。おっさんがおっさんなのも仕方ねぇし、おっさんが万斉より先に雪兎に会えなかったのも仕方ねぇよ。けどな、そんなの、意外と気にしてんの本人だけだぜ。それ言い訳に逃げてるだけだ。違うか?」
「……あんまおっさん困らせるなよ」
「俺は万斉もおっさんも平等に困らせてるぜ。優しいからな」
 咽喉で笑った高杉を見て、阿伏兎は渋い顔をする。優しいなどどの面下げて言うのだろうか。
「優しい俺からプレゼント」
 咽喉で笑った高杉は顔を上げると視線を阿伏兎から外した。それに釣られて阿伏兎が視線を送ると、そこにはレンがぽかんとしたような顔をして立っていた。高杉の手元にある飲料は二本。一人でこんな所に来る筈がないと早く気がつくべきであったと阿伏兎は思い、困ったように笑った。
「……こりゃ、素敵なプレゼントだな」
「阿伏兎さん!」
 ほてほてと歩み寄ってきたレンは、いつものように阿伏兎にぼふっと抱きつくと、彼を見上げて笑った。
「よう。万斉は?」
「ここで待ち合わせなんよ!」
 そう言うと、レンは高杉の方に視線を送った。すると、彼は瞳を細めて笑い、持っていた飲料をレンに渡す。それを受け取ったレンは阿伏兎から離れて高杉の隣に座り、一気に飲み干した。
「ここで待ち合わせねぇ」
 人が多い場所であるのに、全国指名手配の一行が待ち合わせというのも随分気楽なものだと思いながら阿伏兎は辺りを見回した。しかし、ターミナルという場所は逆に人が多すぎて目立たないのかも知れない。実際編笠を被った人間も非常に多いし、人種も入り乱れている。
「今日はお月様が大きく見える日なんよ。滅多にないんよ」
「あぁ、十何年かに一度だって言ってたな」
「十八年だ」
 阿伏兎の言葉に高杉が言葉を添えると、レンは大きく頷いて休憩室の入り口に視線を送る。開け放たれた扉の向こうにはガラスの窓がみえ、そこには人だかりができている。
「月はみえたのか?」
「人いっぱいだったんよ」
 高杉の言葉に萎れてレンが言うと、阿伏兎は呆れたような顔をして口を開く。
「船から見りゃいいんじゃねぇの?」
「こっから見てぇんだと。テレビでやってたんだと。テレビっ子なのも大概にしねぇとな」
「こんなに人がいるとは思わなかったんよ」
 多分レンと同じテレビを見た人間が殺到したのであろう。萎れたレンを見て、阿伏兎は人だかりの方へ視線を送る。阿伏兎のように身長が高ければ、人だかりなど関係なく拝めるだろうが、レンは小さくとてもではないが無理なのだろう。そこまで考えて、阿伏兎は思わず天井を仰いだ。肩車すれば見えるんじゃないかと考えた自分に心の中で苦笑したのだ。
「そんじゃ、ちょっくら俺達も月拝むか」
「人いっぱいで前に行けないんよ」
「その為におっさんがいるんだろ?」
 瞳を細めて笑った高杉を見て、阿伏兎は思わずため息をついた。

 人が張り付くガラス。奇妙な光景だと思いながら、阿伏兎は、よいしょ、とレンを肩車する。幸い天井は非常に高く作られており、ぶつかる心配はない。それを見上げて高杉は可笑しそうに口元を緩めると、次は俺を肩車しろ、と笑った。
「莫迦言うな。流石に無理だ」
「ケチ臭ェ事言うなよ」
「いやいや、見た目考えろ見た目!」
 真顔で冗談を言うから恐ろしい。そう考えながら阿伏兎はレンの足をしっかり掴むと、彼女の声をかける。
「見えるか?」
「大丈夫なんよ!」
 弾んだ声を聞いて阿伏兎は安堵の表情を見せる。それをみて、高杉は咽喉で笑った。
「雪兎を肩車してる見た目は気にしねぇんだな」
「……さっき気にしてるのは本人だけだって言ったの誰だよ」
 呆れたように返答した阿伏兎を見て、高杉は、あぁ、と短く声を上げる。
「そーだな。仲良さそうに見える。万斉が見たら膝カックンかまされるかも知れねぇけどな」
「そりゃ怖ェな」
 高杉に釣られて思わず阿伏兎も笑った。アレは地味に効く。そう思ったが、阿伏兎は自分がレンを落とす危険があるので、万斉はそこまで無茶をしないような気がして思わず心の中で苦笑する。河上万斉という男はそんな男だと。己の憎悪も、妬みもレンのためにどこかにやってしまう。それで良いと思っているのだ。あの男からレンを取り上げたらどうなるのだろうか。そんな事に興味が湧いて、思わず阿伏兎は軽く頭を振った。
「……お嬢がいなかった頃の万斉ってのはどんなんだった?」
「忘れた。いつもつまらなさそうにはしてた気がするけどな。飽きて、飢えて、世界なんてどうでもいいって思ってたんじゃねぇの」
 ならば今万斉は満たされているのだろうか。レンという人間を手元において。レンから万斉を取り上げるのは可哀想だと思っていたが、もしかしたら逆なのかも知れない。そんな莫迦な事を考えて、阿伏兎は思わず口元を歪めた。
「お嬢」
「何?」
「このまま俺ん所来るか?」
 そう言われ、レンは驚いたように視線を落としたが、少し考えて言葉を放った。
「今日は万斉と待ち合わせしてるからダメなんよ。違う日の遊びに行くんよ」
 その返答に阿伏兎は思わず笑い、高杉も口元を歪めた。
「そりゃ残念だ。いつでも来いよ。待ってる」
「ありがとうなんよ」
 嬉しそうに笑ったレンを見て、阿伏兎は少しだけ肩を竦めた。

 万斉が来るまでまだ時間があるということで、高杉とレンは態々デッキまで見送りに来る。律儀なのか何なのかと思いながら、阿伏兎は苦笑して有難く申し出を受けた。名残惜しそうなレンの顔を見ていると、そのまま連れて帰りたくなるが、流石にそれは無理だと心の中で溜息をついて彼女の頭を撫でる。
「またね、阿伏兎さん」
「あぁ。お嬢も元気で」
「また、大きいお月様一緒に見れるといいね!」
 満面の笑顔を浮かべてそう言われた阿伏兎は、少しだけ困ったような顔をして笑った。
「あぁ、そーだな」
 否定はする気にはなれなくて、月詠に返した言葉とは別の言葉を吐いた。いつか、大人は嘘つきだ、とレンに泣かれるかも知れない。けれど、そんな約束も悪くないような気がした。
「……嘘つきは嫌われるぞ」
「肝に命じておくさ」
 高杉の言葉に阿伏兎は苦笑すると、軽く手を上げて船に乗り込んだ。
 座席から窓の外を見ると、まだ彼等は同じ場所にいて、阿伏兎が手を振ってみると、気がついたのかレンが大きく手を振る。夜兎なのだから当然なのだが、視力の良さは抜群なのだろう。阿伏兎は思わず笑ってそのまま窓の外を眺めた。
 高杉とレンが並んでいるのを見ると、不思議と兄妹の様に見えた。万斉ならどうであろう、自分ならどうであろう、そんな事を一瞬考えたが、結局結論は出さないまま、阿伏兎は椅子に深く座って船の発射を待った。


お嬢は珍しいものが大好き
20110401 ハスマキ

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