*休憩*
江戸の町を訪れたのは、数カ月ぶりであろうか。阿伏兎は隣を歩くレンに視線を落としぼんや
りとそんな事を考えた。吉原の一件は結局神威が鳳仙を粛清したという形で終わり、その後の吉原の支配に関しては、神威に丸投げするという春雨の判断に乗った神威は、事実上吉原を放置した。上納金云々さえ納めれば、春雨も煩く言わないのを見越しての事である。
鳳仙の死後、神威は興味を失ったかのように吉原には足を踏み入れず、細かい調整に関しては阿伏兎が一任されていたのだ。
その事後処理を終えた阿伏兎は、休暇と言う名の時間に別の仕事をしていた。
「阿伏兎さん」
隣を歩くレンが声をかけてきたので、阿伏兎は少しだけ顔を上げる。するとそこには見覚えのある家が佇んでいた。鬼兵隊の筆頭である高杉が贔屓にする女の家。正確には店なのかもしれないが、目的地についた阿伏兎は、レンに案内されるままに、裏手に回り呼び鈴を押した。
「おやまぁ。どうしたのさ」
顔をだした女は【三味線屋・迦具夜姫】という名を冠した芸妓。本当の名前は阿伏兎も知らず、聞く機会もないのでそのままとなっている。
「よぉ。悪ぃな。ちょっと時間あるか?」
「別にいいけど。あがんなさい」
嫌な顔一つせずに上がるのを促した三味線屋の顔を見て、阿伏兎は安心したような顔をすると、レンに手を引かれたまま座敷へ足を運んだ。茶でもいれているのだろう、三味線屋が戻ってくるのを待っていた阿伏兎は、隣に座ったレンに視線を落として、小さく礼を言う。
レンに頼んだのは三味線屋への仲介であった。無論万斉や高杉もそれを承知している。高杉のお気に入りの女の所へ無断で出入し、あらぬ疑いをかけられるのを回避するために、一度鬼兵隊へ連絡を入れた所、レンを使っての仲介を勧められたのだ。万斉も仕事さえなければ一緒について来ただろうが、運悪く彼は表の仕事が立て込んでおり同行は叶わなかった。鬼兵隊が何をしているのは詳しくは聞いていないが、高杉も万斉も忙しいとなると、自動的に暇なレンにその役割が回ってきたという形になる。レンに関しては阿伏兎と出かけられると言う事で、深い考えも持たずに了解し、上機嫌でこの家まで案内してきたのだ。
「で。珍しいわね」
前に並べられた茶と茶菓子。自分の分の茶菓子はレンに譲り、熱い茶に口を付けると、阿伏兎は苦笑しながら突然の訪問に侘びを入れた。
「別に構いはしないけどさ。阿伏さんが私に用事ってなにさ」
世間話より要件を、と言う三味線屋の態度に、阿伏兎は数枚の写真を卓に並べた。
「この女を探してる」
三味線屋はその写真を手に取ると、僅かに瞳を細めて首を傾げた。
「今もこの顔?」
「……どーゆー事だ」
予想外の言葉に阿伏兎は驚いたように声を上げた。すると三味線屋は困ったように笑って、地球人によく似た天人でしょ?と口を開く。
「よく似た骨格の女は知ってる。けど顔が違う。ただ単に同種の天人だから骨格が似てるのかもしれないし、判断し兼ねるわ」
写真を卓に戻して三味線屋は淡く微笑んだ。
「骨格ねぇ。違いが分かるのかぃ?」
「まぁ、地球人と違うのは一目でわかるわ。骨格見れば、地球人と夜兎の区別ぐらい付くって言ったら信用する?」
咽喉で笑った三味線屋を見て、阿伏兎は驚いたような顔をする。そういえば彼女は初対面の時に自分に対してレンの友達かと聞いてきた。同族だと判断してそう言ったのなら大したものだと思うし、にわかには信じられないのは事実である。
「正直アテもねぇんだ。その似てる女ってのがどこにいるか教えて欲しい」
元々手がかりらしい手がかりもない。だったら彼女の言う似た女を当たるのが無難だろうと判断した阿伏兎がそう言うと、彼女は笑って首を傾げた。
「阿伏さんのイイ女?」
「違ぇよ。春雨の指名手配だ」
きっぱりと阿伏兎は否定したが、三味線屋はまた咽喉で笑い、紙に何かを書き付けた。人を食った態度はどこか高杉に似ていて落ち着かないとぼんやりと考え、阿伏兎は困ったように笑う。
「賭場で直接会うのは、まぁ無理なんじゃない?よっぽど大勝ちでもしない限りは」
「だったらこっそり会いにいくさ」
「晋兄みたいな事言うのね」
瞳を細めて笑った三味線屋を見て、阿伏兎は思わず顔を顰める。いまいち掴み所のない彼女は扱いにくいと漠然と思ったのだ。口の悪さは高杉に似ているが、
何を考えているのかわからない所は万斉に似ていた。
「今から行くの?」
「いや、日を改める。今日はお嬢連れてるしな」
「邪魔はしないんよ」
阿伏兎の言葉にすっかり茶菓子を平らげ、部屋の片隅に置いてあるウサギのぬいぐるみを撫でていたレンが声を上げるが、阿伏兎は困ったように笑った。
「休暇中に仕事するのもなぁ。折角だし散歩でもして帰るかお嬢」
「ええの?」
「時間はあるさ」
嬉しそうに笑ったレンを見て、阿伏兎は彼女の頭を撫でた。
三味線屋を出て二人はブラブラと歩き出した。一応探し人と思われる女のいるという賭場の前も通ったが、三味線屋の言うとおり普通に入って行くには躊躇われる雰囲気だったので素通りをする。
レンは少し気にした様であるが、阿伏兎は構わずにそのまま通りを直進して歩き出した。
暫く歩くと、正面から悲鳴とも鳴き声とも判断つかない声がして、思わず阿伏兎とレンは足を止めた。
「なんやろね」
レンの声に阿伏兎が返事をしようとしたが、それは正面から駆けてくる大きな犬の鳴き声によって遮られた。
「ワン!」
「ストップ!駄目!駄目だって定春!」
どこかで聞き覚えのある声だと阿伏兎が思った瞬間、その定春と呼ばれた犬は、二人の前へ踊りでて大きく口を開けた。
慌ててレンを己の後ろへ隠そうとした阿伏兎であったが、それよりも早く、レンはその己の小さな拳を犬の鼻に叩きつける。怯んだ犬は一瞬声を上げるが、めげずにまたレンに向かって口を開け、その拳をぱっくりとくわえこむ。
「さーだーはーるー!駄目!口を開けて!本当すみません。すみません」
レンと阿伏兎に頭を下げながら犬を叱る男を見て、阿伏兎は、あぁ、と小さく声を上げた。
「眼鏡の坊主か」
そう言われ、今まで犬……定春に気を取られていた少年は、驚いたように顔を上げて、さぁっと顔を青くした。
「アンタ……神楽ちゃんのお兄さんの……」
「そんな怖ぇ顔すんな。とって食わねぇよ」
「阿伏兎さん。この犬離れないんよ」
ブンブンと定春に噛み付かれた腕を振り回すレンを見て、阿伏兎は苦笑すると、瞳を細めた。
「その犬は頑丈だから多少無茶しても大丈夫だ」
「ほんま?」
「死にやしねぇよ」
阿伏兎にそう言われ、レンは恐る恐る定春の口元に手を当てると、無理やりこじ開け腕を抜く。その様子を唖然としたような顔をして眺める少年に視線を送って、阿伏兎は呆れたような顔をした。
「なんだってこんな犬飼ってんだ。地球人には手に余るだろうよ」
「あ、いや、僕じゃなくて神楽ちゃんの犬で。でも、散歩サボるから僕と銀さんで交代で……って、アンタこんな所でなにしてんだ!」
途中までは普通に喋っていたのに、突然ツッコミに変わったことに思わず阿伏兎は口元を緩めると、休暇、とだけ短く言い、目の前の眼鏡の少年の名前を記憶の底から探した。
「新八……だったか?」
「……そうですけど。休暇ってなんですか。また吉原にちょっかいかけるんじゃないでしょうね」
警戒しながらも睨みつける新八を見て、阿伏兎は肩を竦めた。あれだけボコボコにしてしまったのだから警戒されるのも仕方ない。
「何で休暇中に仕事しなきゃなんねぇんだよ。おじさんはそんなに仕事好きじゃねぇし」
視線を隣におくると、レンは定春が気に入ったのか、首輪をガシッと持ち、噛まれないようにしながらワシャワシャと長い毛を撫でたり、顔を埋めたりしてい
た。
「大きいワンコやねぇ」
「そーだな。もっとデカくなるぞそれ」
「ほんま?」
期待に顔を輝かせたレンを見て、新八は慌てて声を上げた。
「なるけど、大きくなったら家で飼えないから!大きくならないように注意してるから!」
以前定春が大きくなってしまい、近所を巻き込んで大騒動になったのを思い出して、新八は顔を青くした。もしも阿伏兎が定春を大きくする方法を知っていて、うっかり彼女の期待に答えてしまったら収集がつかないと思ったのだ。
「まぁ、これでも大概でかいしな」
「そーやね。ええねぇ。モフモフやし、頑丈やし」
その言葉を聞いて、新八は改めてレンに視線を送った。阿伏兎にばかり気を取られていたが、定春に景気よく噛まれたがなんともない上に、明らかに力で定春を押さえつけている様子は異様である。
「……彼女、阿伏兎さんの子供ですか?」
「そこまでおっさんに見られるのも複雑だなオイ。やんごとなき所から預かってるんだよ」
まさか鬼兵隊の事を口に出すこともできずに、濁した阿伏兎の発言を聞いて、新八は腑に落ちない様な顔をしたが、突っ込んで己の身に危険が振りかかるのを避けてその話題は終了にした。
「神楽ちゃんと同じくらいに見えたんで」
そう言われ、阿伏兎は首を傾げて、レンの方を見た。そこまで若く見えない……と思うが、定春と戯れてる姿は確かに幼い。そして、喋り方も独特の訛りがあり、幼く聞こえるというのもあるだろう。
「お嬢。年幾つになったんだ?」
「20までは数えてたんよ。お誕生日は分からへんから、春がきたらひとつずつ数えてやけど」
「20歳ぃぃぃぃぃ!?」
声を上げたのは新八で、まじまじとレンの顔を見る。小柄で自分より小さい彼女は、驚いたように新八を見上げた。
「あかんかった?」
年齢の数えたを間違えているのだろうかと思ったレンがそう言うと、新八は首を振る。それを見て阿伏兎は苦笑すると、口を開いた。
「駄目って事はねぇよ。誕生日分からねぇってそういえば言ってたな」
「そうなんよ。春になったらお父さんとお母さんがひとつ年を取ったねって言っとったから、その辺りなんやとは思うんよ」
その言葉に新八より阿伏兎の方が驚いたような顔をした。そういえばレンの親の話など聞いたことがなかったのだ。稀少種の白兎であるレンの親も、やはり白兎だったのだろうか。しかしながら、万斉が連れだしたということは、親はもう彼女の傍にはいなかったのだろう。捨てられたにしろ、死に別れたにしろ、そう
考えると親のことを聞くのはためらわれ、阿伏兎は少しだけ口元を歪めた。
「このワンコと遊びたいんやけど。あかん?お散歩の途中?」
首を傾げたレンを見て、新八は返答に迷った。休暇中だと言う阿伏兎の言葉を信じていいのだろうかと思ったのだ。命のやりとりをした相手上に、己自身が逆立ちしても勝てないことは分かっている。ただ、こののんびりした二人の雰囲気を見ていると、急に殴り合いと言う事はない気もして、視線を彷徨わせた。
「あかんかったらええんよ」
「……本当に休暇中なんでしょうね」
「あえて言うなら、お嬢の相手が今の俺のお仕事」
「この先に公園がありますから、そこでだったら」
新八の言葉に、レンはぱぁっと表情を明るくする。すると、阿伏兎は小さく頷いて、レンと一緒に歩き出した。
定春のリードを握りながら、新八は複雑な表情を浮かべて二人についていく。例えば神楽も常に夜兎としてのスイッチが入っているわけではない。多少力に訴えることはあるが、普段は自分たちと同じように生活をしているわけであるし、彼らも無論、普通の生活があるというのも納得出来る。けれど、一度あの圧倒的な力を見せつけられると、それが容易に思いつかないのだ。
「公園!」
目の前に目的地を見つけ、レンがかけ出すと、定春も釣られて駆ける。思わずリードを放した新八は、情けない声を上げてすっ転んだ。
「……まぁ、神威の妹が飼ってるとはいえ、地球人には難儀だろアレ」
「えぇ、まぁ。でもうちの家族みたいなもんですから」
「家族ねぇ」
情けない顔をして笑った新八を見て、阿伏兎は怪訝そうな顔をした。家族というのは夜兎には若干縁が薄い。親殺しも厭わない種であるせいであろうか。
公園を駆けまわるレンと定春を眺めながら、新八と阿伏兎はベンチへ座る。やることがないのだ。奇妙な緊張感に新八は冷や汗を流すが、ちらりと阿伏兎の表情を伺うと、口元を緩めて走りまわる一人と一匹に視線を送っている。
「……彼女の名前、聞いてないんですけど」
「聞かねぇ方がいい。いずれ敵対するかもしんねぇしな」
「春雨の一員って事ですか」
思わずそうこぼし、新八はしまったと言う顔をする。彼女の素性に関して阿伏兎が言葉を濁していたのを思い出したのだ。思わず身構えた新八であったが、阿伏兎は、少しだけ困ったような顔をすると、口を開いた。
「……だったら、良かったんだけどな」
そう今でも望んでいるが、環境がそれを許さない。万斉という檻から出られないレンは、恐らくこのまま己の元に来ることはないであろう。女は手に余る方が好みだが、レンは規格外である。夜兎という規格からも半ば外れかかっている。そう考えると、彼女を眺めていたいという気持ちと、手元に置いておきたいという気持ちが葛藤して、阿伏兎は思わず空を仰いだ。
「もう少し早く出会ってりゃぁ、出し抜けだだろうけどな」
万斉が早く出会った。それだけの差のはずが、大きい壁となって立ちふさがる。ただ、レンという規格が万斉の手によって育ってるというもの事実で、早く出会っていれば良かったとは一概には言えない気もして、阿伏兎は困ったように笑った。
「……複雑なんですね」
「おっさんは若いのと違って思慮深いんだよ」
言葉に迷った新八の反応に阿伏兎は笑うと、そう、短く返答した。
満足したのか、レンが定春のリードを引いて戻ってきたので、阿伏兎は立ち上がりリードを受け取ると、新八に握らせる。
「悪かったな」
「いえ」
どう反応していいのか分からないのだろう、新八が言葉を濁して返答したので、阿伏兎は苦笑する。
「ありがとうなんよ」
レンの言葉に新八は目を丸くすると、彼女の顔を覗き込んだ。満足そうな顔は好戦的な夜兎に見えないし、人懐っこい笑顔は思わず新八の顔を綻ばせた。
「あっさり返しちまうんだな」
阿伏兎の言葉にレンは驚いたような顔をすると、小さく頷いた。
「楽しかったけど、このワンコは眼鏡のお兄さんのワンコなんよ。返さないとお兄さんが困るんよ」
「そーだな」
その会話に思わず新八はぎょっとする。もしもレンが定春を欲しがったら、阿伏兎が力づくで持って行ってしまうのではないかと危惧したのだ。それを察したのか、阿伏兎は苦笑すると口を開いた。
「お嬢は躾がいいから人のものは欲しがらねぇみてぇだ。心配すんなよ」
「……そ、そうですか」
ほっとしたような新八の顔を見て、レンは首を傾げると、再度新八に礼を言う。帰る前にお茶を飲みたいという言うレンに小銭を握らせ、自動販売機へ向かわせた阿伏兎は、新八に視線を送って、意地悪く笑う。
「悪いことは言わねぇ。今日の事は忘れるんだな。お嬢は躾がいいけど、お嬢の飼い主は躾が悪い」
「え!?」
「お嬢が喜ぶことは何でもするって事だよ。知らぬ存ぜぬを通すほうが身のためだ」
阿伏兎の言葉に新八は思わず頭を抱えた。見事なまでに厄介事だ。ともかく、阿伏兎の忠告は有難く受け取ることにし、定春を連れて公園を後にした。十分な運動を取れた定春も満足しただろう。
戻ってきたレンは、定春がいないことに残念そうな顔をしたが、お茶を一本阿伏兎に差し出して並んでベンチに座った。
少し風が冷たくなってきているが大丈夫だろうかと一寸考えたが、レンは満足そうに飲料を口にしているのであえて言葉にはしなかった。
「人のものはとっちゃいけねぇって誰に教えて貰ったんだ?」
つまらない疑問だった。鬼兵隊や春雨の方針はまるで逆であるし、万斉も搾取する側である。
「迦具夜ちゃん」
「へぇ」
「自分の大事なもの力で取られたら困るんよ。けど、大事なモノを取られそうになったら、力で守ればええって迦具夜ちゃん言うてたよ」
意外な答えに阿伏兎は思わずレンの顔を見る。三味線屋とどれほど親しいかは知らないが、その話を聞いて納得したレンはそれに従っているのだろう。
「迦具夜ちゃんは力が無かったから沢山の物なくしたって言ってたんよ。守れる力があるのはいいことだって。だから、上手に力使いなさいって言われたんよ」
恐らくレンの圧倒的な力に嫌悪感も恐怖も抱かず、三味線屋は力を使う方向性を間違えるなと教えたのだろう。否定のない教えはすんなりとレンに受け入れられた。それは奇妙でもあり、不思議でもあった。力による支配を肯定しながらも、搾取よりも守ることに重点を置く。夜兎は強さで優劣を決めるのだから、力の支配自体は、全く見当違いな訳ではない。けれど、どこか保守的で、レンに良く合う考えであると思い、阿伏兎は思わず苦笑した。
思わず脳裏に浮かんだのは、あの意地の悪い三味線屋の顔。詳しい素性など全く知らないが、ほんの少しの会話からも彼女の一本筋の通った考え方は解る。だからこそ、高杉と相容れる事もないのだろうと。
「そろそろ帰るか」
「うん」
並んで歩く姿は新八が言う様に親子であろうか。けれど、レンは日々色々なものに触れて成長していっている。
いつか万斉の檻をでたいと言うだろうか。
そんな希望的観測を頭に浮かべながら、阿伏兎はレンの手を握った。
寒くても元気
20101101 ハスマキ