*箱庭*
扇風機の前に陣取るレンを見て、万斉は呆れた様な顔をすると傍に座る。するとレンは万斉の顔を見上げて首を傾げた。
「万斉は暑くないん?」
「少し暑いでござるが、そこまでではない」
その言葉にレンは、そっか、と言い、もそもそと万斉の膝へ収まった。扇風機の風で冷えたレンの体を抱えて万斉が背を丸めると、レンはぶーっふくれっ面をする。
「阿伏兎さんとお花見した時は丁度良かったのに、急に暑くなったんよ」
先日阿伏兎と江戸城の桜を見に行った日は気候が良かったが、それ以降雨が続き、湿度が急激に上がったのが気に入らないのかレンは不服そうな声を上げる。今年は猛暑になるだろうか、そんな事を考えながら万斉はレンの髪を撫でた。
「雨でも出掛けられる所に行こうか」
その言葉にレンは驚いたように万斉の顔を見上げて嬉しそうに笑った。
「ほんま?」
「最近阿伏兎殿や晋助にレンの事を任せっきりでござったからな」
無論万斉は不本意であるが、仕事を放り出すとレンが気に病むので、渋々預けていただけである。出来る事ならばずっと傍に置いておきたいが仕方がない。久しぶりに万斉と出かけることが出来ると喜んだレンは、いそいそと部屋の隅に置いてある傘を握ると満面の笑みを浮かべた。
その嬉しそうな様子を見た万斉は、瞳を細めると満足そうに口元を緩める。
連れてこられたのは大江戸水族館で、レンは傘を持ちながらその建物を見上げた。
「ここは?」
「魚が見られるでござる。食べられないでござるがな」
茶化す様に万斉が言ったので、レンは淡く微笑むと、万斉の手をとってその建物へ足を進めた。
平日であるせいか、人も少なく万斉はホッとする。元々余りTVへの露出は殆どしていないのでファンが押し寄せる心配はないが、仕事関係の知人に会うのは面倒であると思ったのだ。これだけ人がまばらならば問題もないだろうと思った万斉は、チケットを一枚レンに渡すと、入り口へ行くように促した。
大きな水槽で泳ぐ魚を見上げたレンは、ぽかんと口を開けて暫し無言であったが、万斉が、どうでござる?と感想を聞くと、嬉しそうに瞳を細めた。
「お魚一杯なんよ。すごいね」
キラキラと腹を見せて泳ぐ魚に釘付けのレンは、大きな水槽に張り付いて魚の名前を万斉に確認する。水槽の端に貼られたパネルと見比べ、丁寧に返答する万斉は満足そうに彼女の隣に佇んで口元を緩めた。恐らくレンはこの様な施設に来た事がないのだろう。
「これは?」
レンが興味を一番示した小さな水槽には、白い物がふわふわと浮いており、彼女は首を傾げると、お魚?と万斉に聞く。
「クラゲでござるな」
魚に分類していいのかプランクトンなのか判断に迷った万斉はそう言うと、少し体を屈めてレンと一緒に小さな水葬を覗き込む。薄暗い館内で水槽に当てられる光が白い体を照らす。何種類もクラゲの水槽はあったが、レンが張り付いたのは一番シンプルな小さなクラゲであった。
そもそもクラゲの種類など万斉は詳しくないのだが、随分レンが興味を示したので、水槽の横に貼ってある説明書きに視線を走らる。どうやら日本にも住んでるタイプのクラゲらしい。
「夏に海に行けば見れるでござるよ」
「海に住んでるの?触れる?」
レンの言葉に万斉は少し困ったような顔をした。触れるだろうが、クラゲは総じて毒を持っていることが多い。盆の後に海水浴行ったらクラゲに刺されたという話もよく聞く。
「触れるでござるが、毒を持っている事も多い」
そっか、と少し残念そうな顔をレンはしたが、万斉としてはレンがクラゲに刺される方が大問題である。少なくとも地球人は少し腫れる程度であるが、夜兎であるレンはそれだけで済まないかもしれない。無論、逆に全く持って平気かもしれないが。
「折角広い海で泳いでるのに捕まえたら可哀想やしね」
そう言うと、レンはまた視線をクラゲに移した。
──夜兎は飼えないからやめておけ。
どうしてそう言われた事を思い出したのかは万斉には解らなかった。けれど、こうやって水槽に閉じ込められている魚を見ると、その言葉ばかり思い出す。閉じ込めて、己の望むままに愛でる。それは閉じ込めた側の都合で、閉じ込められた側の都合は全く関係ない。
這い上がる不快感を振り払うように、万斉は繋がれた手を思わずぎゅっと握った。すると、それに気が付いたレンは、万斉を見上げて不思議そうな顔をする。
「どないしたん?次行く?」
「そうでござるな」
促されるままに万斉は歩き出し、考える事を放棄した。今ここで考えなければならないことではない。そう自分に言い聞かせるように、万斉は小さく笑う。
「次はどこへ行こう、レン」
空調の効いた館内は思いの外心地良く、レンは元気にあちこちの水槽に張り付き魚を見上げた。陽の光を避ける為の長袖も苦痛ではないし、どれを見ても珍しかったのだ。海は船のアジトにいる時に厭というほどみるが、その中に魚がこんなにも沢山の種類存在している事を知らなかったレンは、水槽を見上げながら瞳を細めた。
「大きい魚もいるんやね」
「それは魚ではなく哺乳類でござるよ」
イルカの水槽に来た時に上げたレンの言葉に、万斉は苦笑しながら返答する。
「魚とどう違うん?」
「イルカは卵から生まれないでござる」
物凄く大雑把な万斉の説明に、レンは少しだけ驚いたような顔をすると更に質問を続ける。
「ほな、何で魚と一緒に泳いどるん?」
「陸には上がれなかったからでござるかね」
進化論など専門外で詳しいことは万斉にも解らない。こんな事なら予習でもしておけば良かったと、心の中で万斉は小さく舌打ちをし水槽を見上げた。
「水の中が居心地がいいのでござろう」
水槽の冷たい硝子に触れて万斉は小さくそう言葉を零した。すると、イルカが硝子を擦るように体を近づけてきたので、反射的に硝子から手をのけた万斉はその手を眺めて瞳を細める。
「広い海ならともかく、こんな水槽の中では窮屈かもしれないでござるがな」
その言葉にレンは驚いたように顔を上げ、不安そうな表情を万斉に向ける。それに気が付いた万斉は、困ったように笑うと、言葉を零した。
「まぁ、拙者はイルカではないから気持ちは理解できないでござるがな」
「……でも、ここの子達は外では生きられないんよ」
言葉を零したレンの顔を見て、万斉は驚いたような顔をした。
「さっきご飯貰ってるの見たんよ。多分この子達を、窮屈そうで可哀想だからって元の場所に戻してあげても、もう自分でご飯取れないんよ」
黙ってレンの言葉を万斉は聞く。人以上に弱肉強食の世界を構築している生き物の中に放った所で、確かに生き残る事は困難であろう。一度飼われたモノは二度と元の世界には戻る事は出来ない。嘗ての自由はもう手に入らない。
空調が効いている筈なのに、じっとしと掌に汗をかいているのに気が付き、万斉はレンの手を放す。
「万斉?」
困惑したような顔をレンが向けたので、万斉は淡く笑うと、少し休憩していいでござるか?と短く聞く。するとレンは辺りを見回し、設置されている休憩所を見つけると、万斉の手を引いてそこへ向かった。
飲み物を買って来るようにとレンに小銭を渡した万斉は、設置された椅子に座るとじっと掌を見つめる。水族館に今まで何度も来る機会はあったが、こんな事は初めてで、思わず溜息を零した。体調を崩したのかとも思ったが、どうにも精神的な所から来ているような気がした万斉は、休憩室置いてある水槽に視線を送る。
ふわりと漂う白いクラゲ。
狭い箱の中でただ漂っているその生き物に、窮屈かどうか問う等莫迦げているのは十分に理解している。
「大丈夫?」
唐突に声をかけられ、万斉が驚いて顔をあげると、そこには不安そうなレンの表情が見えて、思わず口端を無理矢理上げる。受け取った飲料はひんやりと指先を冷やし、それと同時に万斉の思考も少しずつクリアになってくる。
「少し疲れたみたいでござる」
「そっか」
ストンと万斉の隣に座ると、レンは飲み物を喉に流し込んだ。万斉の様子がおかしいのはわかるが、なんと声をかけていいのか解らないのだろう。言葉を発する事なく、黙って傍に座っているだけであった。
「レン」
「何?」
「……窮屈でござるか?」
唐突に発せられた言葉にレンは目を丸くすると、万斉の顔を凝視した。それに対して万斉は、困ったように淡く微笑んだ。
己の都合で閉じ込めて、己の好きなように愛でて。けれどレンはここのモノ達とは違うと頭では理解している。否、理解しているからこそ、今度は別の誰かが愛でた女を思い出すのだ。
──選んだだけよ。選んだら、晋兄とは違う道だっただけ。
迦具夜姫の名を冠する女は、高杉の檻が窮屈だと己の意思でその元を離れた。その誇り高さ故に。その優しさ故に。
自分は大丈夫だと過信をしていたのではないか。そう思い零れた言葉であった。外の世界を見せれば見せるほど、レンは己のいる世界が箱庭だと気がつくのではないかと恐怖。
「大きい施設だから窮屈じゃないんよ」
首を傾げ不思議そうな顔し、見当違いな返答をしたレンの頭を撫でると、万斉は少しだけ口元を緩めた。余りにも唐突な質問であった事を自覚したのだ。
「そうでござるか」
「うん」
瞳を細めた笑ったレンは、手元に残った飲料を飲み干すと、空き缶をゴミ箱へ捨てに行く。ほてほてと歩く姿を眺めながら、万斉は小さく首を振ると、缶を握る手に力を込めた。
「……随分と気弱な」
思わず零れた言葉は自嘲気味で、万斉は壁に体重を預けると天井を仰いた。阿伏兎にどれだけ言われようとも、高杉に笑われようとも揺るがなかった己の考えが、急激に不安定になっているのはこの施設のせいであろうか。
元々レンの世界はとても小さかった。そこから連れ出して己の檻に閉じ込めた事に多分レンは気がついていない。檻だということにも気がつかず、ほんの少し広がった世界に満足して過ごしているのだろう。そう考えると、また気分が沈んで来た万斉は、立ち上がると、戻ったレンの顔を見上げた。
「帰る?」
そうレンが零したのは、己を気遣っての事だと思った万斉は、少しだけ口端をあげると立ち上がり、無造作に缶をゴミ箱へ放り込んだ。缶同士のぶつかる音を確認し、瞳を細めてレンの手を取る。
「折角でござるから土産物も見て行くでござる」
「ええの?」
「好きなものを選ぶといい」
嬉しそうな顔をしたレンを見て万斉は少しだけほっとしたような顔をした。
施設の最後の方に設置された土産物を扱う店には、この施設にいる生き物を型どったぬいぐるみなどが所狭しと並んでいる。レンはそれを見上げると、小さく感嘆の声を上げた。
「一杯あるんやね」
ほてほてと店の中へ入ったレンが一番最初に抱いたのは、クラゲのぬいぐるみであった。デフォルメされた真っ白なクラゲは点のような目がかかれており、レンは首を傾げる。
「クラゲに目はあるん?」
「どうでござるろうな」
ないような気がした万斉はそのクラゲのぬいぐるみを手に取ると、しげしげと眺めた。丸っこいフォルムはおそらくレンの好む形であろう。うさぎもレンは丸くデフォルメされたものを好む事が多い。そう思った万斉は、これにするかどうかをレンに確認する。すると彼女は、もう少し見てええ?と首を傾げた。
「ゆっくり選ぶでござるよ」
欲しいと言うならば全部買い与えても良いと思っていたが、謙虚にレンはひとつだけ選ぶのだろう。イルカやエイなどのぬいぐるみや小物を一通り見たレンは、硝子で作られた小さな置物を見つけてそれをじっと眺める。青や水色の涼し気な色をつけられたその置物。触れようと手を伸ばしたが、レンは少し躊躇ってやめた。
「レン?」
「硝子でできてるん?」
「そうでござるな」
言われて万斉は置物に視線を落とした。沢山並んだ置物は、大きさも様々で、照明に照らされ鮮やかな色彩を見せている。レンが触るのを控えたのは、力加減が難しいと判断したからであろう。夜兎は外見こそ人と同じであるが、力は総じて強い。レン自身いつも力加減に気をつけて生活していることには万斉も気がついていた。
「硝子はあかんねぇ。割れてまうし。綺麗やけど」
残念そうにそういうレンを見て、万斉は思わず彼女の頭を撫でる。柔らかな彼女の髪が指先に触れて心地いい。
「クラゲの人形にするんよ」
そう言うとレンは先程の棚からクラゲを引っ張り出し、万斉に差し出す。
「そんな小さなのでいいのでござるか?」
大きさも多様にあるなか、レンは一番小さなクラゲを持ってきたのだ。
「他のはお高いんよ」
困ったようにレンは笑う。鬼兵隊と一緒に行動するようになって、値段の概念が出てきたのだろう。遠慮がちな姿に万斉は苦笑すると、そのぬいぐるみを手にとってレジへ向かった。
「……で、何ででかいクラゲがここにあるんだ?」
自分の隣りに座るレンの抱えている莫迦でかいぬいぐるみに視線を落としながら高杉が言うと、レンは困ったように笑う。水族館で買ったのは小さなぬいぐるみであったのだが、後日に万斉が今レンの抱えているぬいぐるみを持って帰ってきたのだ。
「よー解からんのよ。万斉が買ってくれたんやけど」
「邪魔だな」
「枕に丁度ええんよ」
ぎゅーっと抱く姿を見て、高杉は呆れた様な表情をすると、煙管に火を入れる。
「ヨダレでベタベタになるんじゃねぇか?」
「……タオルかけておくんよ」
否定しなかったのは彼女に心当たりがあるからだろうか。そう考えると可笑しかった高杉は口端を上げると、瞳を細める。
「でも万斉はあんまり水族館好きじゃなかったみたいなんよ。あんまり元気なかった」
レンの言葉に、高杉はそりゃそうだ、と言葉を零した。
「自己嫌悪に陥るんだろうよ」
「意味が解らないんよ」
彼女には理解しがたい言葉だったのだろう。しかし高杉はそれを詳しく説明する事はせずに、煙管の煙を吐き出す。
「テメェは窮屈じゃねぇか?」
「?水族館?」
質問の意図が解らず首を傾げるレンを見て、高杉は笑うと、彼女の頬に触れる。
「万斉の傍にいる事……がだ」
驚いたようにレンが首を振ったので、高杉は瞳を細め、彼女の輪郭線に指を滑らせる。
「テメェのいた世界より多少広いだろーが、結局テメェは万斉の檻の中だ。水槽の魚と同じな」
水槽で飼われている生き物と、どう違うと言うのだ。高杉はそう思いながら、レンの反応を待った。しばらくぽかんとしたようにレンは高杉の顔を眺めていたが、少し考え込んだ後口を開いた。
「でも、ここがええんよ」
「……外に出たくはねぇか?」
「皆がいるなら檻でも外でもええんよ」
瞳を細めて笑ったレンを見て、高杉は少しだけ驚いたような顔をすると、彼女抱き寄せて背中を小さく叩く。困惑したレンが高杉を見上げると、彼は口元を緩めた。
「レンから離れるでござる」
向けられた切先に視線を送ると、高杉は苦笑して両手をホールドアップする。珈琲を淹れるために席を立っていた万斉が戻ってきたのだ。
「怖ぇ顔すんなよ。雪兎にどうこうなんざぁ、考えてねぇよ」
茶化すように放たれた言葉に、万斉は僅かに眉を上げると刀を大人しくしまう。無論万斉とて威嚇しただけであって、本気で斬るつもりもなかったし、高杉が己の寵愛している幼馴染以外の女に興味を示さないのも知っている。単なる自分への嫌がらせであろうと判断して刀を向けただけだ。
万斉が定位置に座ると、レンは高杉の横からほてほてと移動して、すぽんと万斉の膝に収まる。
「暑苦しいな。べったりくっつきやがって」
「迦具夜姫にべったりなヌシに言われる筋合いはない」
女の元へ行けば厭がられる位に触れたがる高杉は、それを自覚しているのか咽喉で笑うと、違いねぇと言葉を零して瞳を細めた。
「俺達がいるならどこでもいいんだとよ。鬼兵隊の下っ端にでも聞かせてやりてぇ台詞だな」
結局はどんな世界にいようとレンにとっては同じなのだろう。水槽だろうが檻だろうが、レンは己を取り巻く人が好きなのだ。
「安心して地獄まで連れ回してやれ」
「レンをそんな所に連れて行く訳にはいかないでござるよ」
高杉の言葉に呆れたように返答をした万斉は、レンを抱く手に力を込めた。するとレンは万斉の顔を見上げて笑う。
「大丈夫なんよ。どこでも一緒に行ければ楽しいんよ」
幸せな言葉だと思い、万斉はレンの柔らかい髪に顔を埋めた。その様子を見て、高杉はつまらななそうに口元を歪めると、卓の隅にあった小箱をレンに渡す。それを受け取ったレンが首を傾げると、開けるように彼は促した。
中から出てきたのは、硝子のイルカ。それはプラスチックの箱に入っており、並んだイルカは小さなジオラマのようになっている。
「イルカー」
「壊しちまうのが心配だったら、はなっから触れねぇようにしてりゃいいんだよ。気に入ったか?」
満足そうに頷いたレンを見て、高杉は笑うと煙管の煙を吐き出した。
「ありがとうなんよ」
「ただでけぇだけのプレゼントってのも芸がねぇからな」
「それに数年前に気がついていればヌシも失敗しなかったかもしれないでござるな」
「テメェは今、気がついてよかったな。感謝しろよ」
いつもの憎まれ口に戻った万斉を見て、高杉は満足そうに笑うと瞳を細めた。互いにあるのは同族嫌悪。けれど似ているからこそ理解できる感情もあるのだろうとぼんやり考えながら、万斉は箱に閉じ込められたイルカを眺め瞳を細めた。
二人でいるならばどこでも良いと真剣に思っているのは万斉だと思う。
201007 ハスマキ