*雪兎*
鬼兵隊がアジトとしている船の一室に男は居た。派手な着物に身を包み、煙管を吹かす彼の膝の上ではすっぽりと納まる様に女が抱き抱えられており、彼女は小さな寝息を立てている。
女の柔らかい髪を撫でていた男はもぞもぞと女が身じろぎしたのに気がつき、瞳を細めて声をかけた。
「どうした雪兎」
「シンスケ。良い匂いがしとる」
雪兎と呼ばれた女は目を擦りながら晋助…高杉の膝の上で小さな声を上げた。
色素の薄い肌、白髪、そして赤い瞳。とある辺鄙な土地に住んでいた彼女を連れて帰ったのは河上万斉であったが、後でよくよく調べてみると彼女は最強種・夜兎である事が判明し、彼女にちゃんと名前があるのにも関わらずその容姿の色彩、日を嫌う体質から高杉は彼女の事を勝手に『雪兎』と呼んでいる。
夜兎の特性について問い合わせをした際、飼うのは無理だからこちらに渡せと春雨の夜兎に言われたが、万斉はそれを一蹴し今まで面倒を見ている。
「厨房か?甘ったるい匂いがしてきやがるな」
高杉が言うと彼女は立上がりほてほてと扉に向かう。恐らく厨房を覗きに行くのだろう事を察した高杉は淡く微笑むと、俺も行くと彼女の後ろに続いた。
「レン。どうしたっスか?」
厨房の扉から雪兎…レンが顔を覗かせると、何やら作業をしていた来島が手を止めて声をかけてきた。
「何作っとるん?」
「クッキーっス!バレンタイン用の」
「あぁ。そんな時期か」
「晋助様!」
レンの背後に高杉の姿を確認した来島は驚いた様に声を上げる。渡すつもりの本人が来てしまったのが気まずいのか、少し顔を赤らめ視線を泳がせた。
「バレンタイン?」
「女が好きな男にプレゼント渡す日だ。菓子が多いがな」
レンの疑問に丁寧に答えたのは意外にも高杉であった。辺鄙な土地にいた彼女は特に江戸特有のイベントに疎い傾向にある。その返答を聞いたレンが来島にほんま?と確認をしたのは、今まで度々嘘を高杉が吹き込んでいたからであろう。万斉からの忠告もあり、最近は他の人間に必ず確認するようになったのだ。
「本当っス!」
信用されてねーな、と呟き苦笑した高杉をフォローするように来島が返答したのでレンは信じる気になったのか、頷くと興味深げに作業台を覗きこんだ。
「レンも作る?河上先輩喜ぶと思うっス」
そう言われレンが顔を上げたので高杉は喉で笑うと、俺の分も作れ雪兎、と言う。
「材料余っとる?邪魔やない?」
心配そうに聞くレンに来島は頷くとエプロンを彼女につけてやる。粉を扱うので服が汚れるのを心配してくれたのだろう。
それを眺めていた高杉は煙管の煙を吐き出すと、興味を失ったかの様についと自室に戻ろうとする。粉を捏ねると言う様な単調作業を眺めていてもつまらないと思ったのだろう。
「シンスケ」
「何だ?」
「春雨にコレ届けられる?あかん?」
呼び止められ、振り返った高杉はレンの言葉の意味が咄嗟に理解できず怪訝そうな顔をする。
「無理ならええねん」
少ししょぼくれた顔を暫く高杉は眺めていたが、漸く彼女のしたい事を察して高杉は煙を勢い良く吐き出すと口許を歪めた。
「夕方に春雨から荷が届くからその返し便に乗せてやる」
春雨に所属している夜兎にレンは届けたいのだろう。彼女を引き入れたい春雨の夜兎と手放したくない万斉とで水面下では牽制が続いているが、数少ない同種としてレンは彼等の事を仲間だと認識している様である。高杉自身はどちらでも構わないと思っていたので、どちらの肩を持つ訳でもなくレンのしたい様にと便宜を計る事にしたのだ。
高杉の言葉にレンは嬉しそうに微笑むと、早速来島と菓子作りを始めた。
出来上がったクッキーを袋に詰めながら、レンは終始上機嫌であった。来島との作業が楽しかったのだろう。その日の光を嫌う体質から、外に出る事が余り出来ない彼女の娯楽は少ないのだ。
「もう少し可愛いリボンがあれば良かったっスね」
元々準備のあった来島のモノはともかく、レンのプレゼント包装は間に合わせとなってしまい華やかさに欠ける。しかしレンはリボンをかけながら首を振ると有難うと笑った。
「楽しかったんよ」
その言葉に来島は驚いた様な顔をすると彼女の頭を撫でた。初めこそは高杉が随分彼女を気に入っていたので面白くなかったが、付き合ってみればレンに対する印象も随分変わったとぼんやり来島は考える。
自分達に似ているが明らかに異形の色彩で構成されている彼女は、外見は成人女性に見えるけれど精神的には幼い。人里離れて暮らしていた為であると万斉に言われたが、それは彼女をみていれば何となく察する事ができる。好奇心旺盛で、仲間だと認識されれば懐くという明確な線引き。外見との差に戸惑う事も多かったが、今となってはそれも可愛いと来島は感じていた。手のかかる妹分ができた様に感じているのであろう。
「ほなシンスケに渡して来るわ」
エプロンを外したレンは出来上がった包みを抱えてほてほてと厨房を後にする。先程春雨からの荷物が届いた知らせがあったので、急がないと返し便に乗せられないと思ったのだろう。折角作ったのだから夜兎の仲間にも食べてもらいたいと、レンは大急ぎで高杉の部屋に向かった。
「山程作ったんだな」
部屋に入って来たレンに呆れた様に高杉が言うと彼女は笑って頷いた。卓に乗せた包みの中で二つの黄色いリボンのモノを高杉の手に乗せると、レンはこれがアブトさんとダンチョーの分と言った。
「残りは俺のか?」
「シンスケはこれ」
赤いリボンの包みを渡すとレンは更に言葉を続ける。
「そんで、残りはタケチーとニゾーと万斉の分」
満足げに笑うレンを見て高杉は口許を緩めた。まさか武市や似蔵の分まで作っているとは思わなかったのだ。平等に好きだと言う事だろう。
「オメーもマメだな」
そう言うと高杉は手招きをしレンを膝に座らせると紙と筆を
引き寄せる。
「手紙もつけとけ。夜兎宛だって解るよーにな」
無論荷物を運ぶ者には高杉から一言言うつもりだが、春雨内で荷物が迷子にならない保証はない。レンは頷くと高杉の膝の上でせっせと手紙を書き始めた。
お世辞にも巧いと言えない字を添削しながら、高杉はレンの肩に顎を乗せるとつまらなさそうに言葉を発した。
「相変わらず字が下手だなオメーは。来た頃よかましだがちゃんと練習してんのかよ」
その言葉にレンは不服そうな顔をすると、ちゃんと毎日しとると口を尖らせた。事実外に出る事が少ない彼女はちゃんと字の練習をしていたし、此処に来た時は文字が書けなかった事を考えると手紙が書ける様になったというのは大きな進歩だ。
「もう少し字の大きさ揃えろ。見栄えが悪ぃ」
高杉に指摘されレンは素直に頷くと又筆を動かし始めた。手紙の内容は、江戸のイベントに倣ってプレゼントを贈ると言うシンプルなモノで程なく書き終わる。
宛名を高杉が丁寧に書いてやるとレンは満足げに笑い、これでええ?と首をかしげた。
「ああ。こんなもんだろ」
レンを膝から下ろした高杉が手紙とプレゼントを持ち立ち上がったので、彼女も同じ様に荷物を抱える。今から他の面子にプレゼントを配りに行くのだろう。
「ありがと。シンスケ」
嬉しそうに笑うレンを見て高杉は僅かに瞳を細めた。
プレゼントを配る為に船内を歩き回っていたレン、は万斉の部屋の明かりが点いている事に気がつき表情を明るくした。朝から表の仕事の為に出かけていた彼が帰って来たのだろう。
鍵の掛かっていない扉を開けると背を向けた万斉が三味線の調整をしていたので、邪魔にならない様にレンはそっと部屋に入ると隅に膝を抱えて座る。
「レン。ただいまでござる」
「おかえりなさい」
直ぐに彼女が来た事に気がついたのか、万斉が声を掛けて来たのでレンはいつもどおり言葉を放った。どんなにレンが気を付けて静かに入っても彼はそれに気が付く。ヘッドホンから音漏れする位の大音量で音楽をいつも聞いているのにとレンはそれが不思議であったので以前聞いてみたが、明確な回答は彼から得られた事はない。
じっとしていたレンは、ふと朝方部屋に来た時はなかった大量の荷物に気が付き口を開いた。
「万斉。よーさん荷物増えとるね」
「ああ。事務所に届いてたプレゼントを引き上げて来たでござる」
今までも万斉はファンからのプレゼントを持って帰って来た事がある。手作りなどは処分するが、既製品などは鬼兵隊内でばらまく事が多いのだ。贈った人達が聞いたら激怒しそうだが、実は万斉の手元には余程気に入ったモノしか残らないのだ。しかしいつもより量が多いと思ったレンは、ほてほてと荷物の側に移動し一つ手に取る。
「欲しいものがあれば食べて構わないでござるよ。拙者は暫く菓子はいいでござる」
その言葉にレンは弾かれた様に顔を上げた。このプレゼントがバレンタインの物だと気が付いたのだ。
綺麗な包装をされた箱を元の位置に戻すと、レンは脱兎の如く部屋を飛び出した。
とぼとぼと船内を歩くレンの姿を見つけた高杉は眉を顰めて彼女に声を掛けた。丁度春雨への荷物の手配が終わって部屋に戻る所だったのだ。
「何しょぼくれてんだ。万斉帰ってたろ」
先程、万斉のいつも乗っているバイクがあったのを確認していたのだ。
「万斉よーさんプレゼント貰ってたんよ」
「渡したらいらねぇって言われたのかよ」
「菓子は暫くいいってゆーたから渡せんかった」
俯いたレンを見て、高杉は自分より背の低い彼女に視線を合わせる為に屈むと瞳を細めて笑う。
「俺が代わりに貰ってやる」
その言葉にレンは驚いた様に顔を上げると高杉の顔を凝視した。
「せやけどシンスケにはもう渡した」
「俺の懐は広いんだよ。オメーからのプレゼントだったらいくらでも抱えてやる」
「ウソツキ」
そう言ってレンは高杉に抱き付いて泣き出した。すると高杉は彼女の髪を撫でそのまま彼女を抱き上げる。
「万斉の言う事は何でも信じるのに何で俺の言葉は信じねーかなオメーは。餓鬼みてーに泣くなよ」
レンの背中を撫でてやると、彼女はしっかり高杉にしがみついて来る。
「…俺の懐は今ん所スカスカなのは本当なんだぜ。逃げられちまったからな」
そう言うと高杉は瞳を細めた。心底惚れた女を甘やかして可愛がって手元に置いていたのに、彼女は空に憧れた男に惚れて自分の手元から居なくなった。面差しは少しも似てないのに、レン甘やかしていると手元に置いていて幸せだった頃を思い出す。
あの女にもよくウソツキだと言われた。だから本当の事を言っても何一つ信用されなかった。
そんな事を考えながら、高杉はレンを抱えたまま自室に向かって歩き出した。
「レン。ここっスか?」
ガチャリと万斉の部屋の扉を開けた来島は、部屋の主の姿を視界に捕らえて、しまったと言う様な顔をする。
「レンならさっきまでいたが…」
突然部屋を出て行ってしまったと続けようとしたが、来島が露骨にがったりした様な表情をしたので万斉は言葉を一旦切ることにした。
「ちょっと間に合わなかったみたいっスね」
「何に?」
万斉は三味線を調整する手を止めて来島に視線を送った。すると彼女は肩を竦めて可愛らしい形をした赤色のリボンを万斉に差し出した。
「河上先輩へのバレンタインプレゼントにつけれたらと思って探したっス。レンに渡したリボンはありあわせだったんで」
「…」
暫く無言でそのリボンを眺めていた万斉は小さく溜息を吐くと立ち上がり、リボンを受け取るとレンに渡して来ると言い部屋を出て行った。それを見た来島は意味が解らないと言うような顔をして首を傾げる。もうレンが万斉にプレゼントを渡したものだと思っていたのだ。
万斉が真っ先に足を向けたのは高杉の部屋であった。自分がない時はレンは大概此処に入り浸っている。高杉がレンを側に置いておきたがるのもあるし、レン自体が高杉に比較的懐いている事もある。
「入るでござるよ」
「声をかけると同時に入ってきたら意味ねーだろう万斉」
高杉は不機嫌そうな顔をすると煙を吐き出す。ちらりと万斉が室内に視線を巡らすと、案の定高杉の側でレンが毛布を被って丸くなっていた。静かな所を見ると眠っているのだろう。
「レンを迎えに来たでござる」
「今寝たところだ。ピーピー泣いて煩せぇのが終わったと思ったら次から次へと…」
舌打ちする高杉を無視して万斉は遠慮なく室内に入り高杉の目の前の卓に並べられている二つの包みを手に取るとどちらが拙者の分でござると聞いた。すると高杉は咽喉で笑う。
「両方俺んのだ」
「質問を変える。元拙者の分はどっちでござる」
「…ピンクの方だ」
赤い方は元々高杉が彼女に貰った分である。中身が一緒かどうかは開けていないので確認できていないが、態々レンが違う色のリボンをつけている所を見ると、もしかしたらそれぞれ違うのかもしれない。
すると万斉は赤いリボンの包みだけを卓に戻す。それを見た高杉は不服そうに瞳を細め、両方俺のだと再度念を押した。
「拙者は生憎自分のモノを他人が持っているのを許せるほど寛大ではないでござる」
「…俺も自分のモノを譲ってやるほど寛大じゃないんでな」
「いい加減月に帰った迦具夜姫の代替にレンを使うのは止めたらどうでござるか?」
そう言われ、高杉は煙管の煙を吐き出すと不機嫌そうに口元を歪めた。逃げられた女の話をされたのが不快だったのだろう。しかし高杉は直ぐに表情を緩めると、煙管の煙を吸い込みゆっくり瞳を閉じた。
「アイツの代替なんて誰にもつとまらねぇよ」
高杉の言葉に万斉は僅かに瞳を細めた。空に憧れた男に惚れて高杉の元を去った女に万斉がつけたあだ名が迦具夜姫。当然地上の男を振り続け遠い所に行った物語にあやかってつけたものである。
「これとレンのプレゼントを交換でござる」
沈黙を破る様に万斉は懐から小さな箱を取り出すと、高杉に投げてよこす。ラッピングからしてバレンタイン用の品である事は解るが、高杉は万斉の意図が解らず不機嫌そうな顔をする。
「なんだこりゃ」
「迦具夜姫からでござるよ。晋助にと拙者の事務所に届いてたでござる」
その言葉に高杉は一瞬驚いた様な顔をしたが、小さく溜息を吐くと笑った。
「こりゃ雪兎からのプレゼントと雪兎本人をテメーに渡しても足りねぇな」
「釣りは取っておけばいい」
憮然と万斉が言ったので高杉は愉快そうに口元を歪めると、自分の側で寝息を立てているレンに声をかける。
「雪兎起きろ。迎えだ」
「…えぇ。なに?」
むにゃむにゃと目を擦り起き上がったレン、は部屋に佇む万斉の姿を見て驚いた様に瞳を見開いた。まさか万斉が迎えに来ると思っていなかったのだ。そもそも高杉の部屋で眠りこけるつもりも無かったのに、グズグズと泣いているうちにうっかり寝てしまったらしい。
動かないレンを見て痺れを切らしたのか、万斉はレンの側に歩み寄ると彼女の顔を覗き込み頬を撫でる。
「部屋に戻るでござる」
「…万斉それ」
彼の手の中に自分が高杉にあげてしまった包みを見つけレンは困った様な顔をした。すると高杉は咽喉で笑い、万斉に取り上げられちまったと両手をワザとらしく挙げてみせる。
「でも万斉お菓子はいらんて…」
「レン」
万斉が彼女の言葉を遮ったのでレンは驚いて口を噤む。どこか不機嫌そうな雰囲気を万斉から感じて萎縮したのであろうが、それを察して万斉は小さく溜息を吐くと彼女の頭を撫でる。
「ありがとう。レンからプレゼントがあるとは思わなかったでござる。先程の発言は拙者が悪かった」
その言葉にレンは表情を明るくするとぎゅうっと万斉の首に手を回し抱きついたので、万斉は彼女の背中をぽんぽんと軽く叩くとそのまま抱き上げる。突然の事にレンは驚いた様な顔をするが、直ぐに高杉に視線を送ると、ばいばいーと柔らかく笑って手を振る。
先程までのへこみようが嘘の様なレンの表情に高杉はいささか呆れたような顔をする。しかし高杉も機嫌は悪くなかったので少しだけ首を傾げて瞳を細めると、もう来んなよ泣き虫と言って淡く微笑んだ。
万斉はレンを自室に連れて行くとクッションに座らせ、その手に包みと来島の持ってきたリボンを握らせる。
「来島殿が持ってきたでござる。拙者へのプレゼントに付けれるようにと」
「キジマちゃんが?」
一緒にクッキーを作った時に、来島が包装が地味だと随分気にしてくれていた事を思い出してレンは納得する。態々彼女が自分の為に綺麗なリボンを探してくれていた事が嬉しいのかレンは柔らかく微笑んだ。
「えっと、逆になってもーたけど、つけてええ?」
無言で万斉が頷いたのでレンは早速ピンクのリボンを解き、来島の持ってきたリボンを付け直す。花の形をあしらっており随分と見た目が華やかになったのに満足したレン、はそのプレゼントを万斉に差し出す。
「はい、万斉!」
その様子を眺めていた万斉は苦笑すると、レンの頬に口づけてそれを受けとった。
「ありがとう、レン」
「うれしい?」
「嬉しいでござるよ」
万斉の言葉にレンは満足したのか、ぎゅっと体を伸ばして万斉に再度抱きつく。沢山のプレゼントを貰っているのに自分のプレゼントにも喜んでくれた万斉がレンはとても好きだった。
すると万斉はレンの体を少し離すと、自分がクッションに座り、膝にレンを乗せ頭を撫でる。くすぐったいのかレンは僅かに身を捩じらせたが、素直に万斉の膝に収まると万斉にもたれかかる。
「なぁ万斉」
「なんでござる」
「月に兎がいるってほんま?兎はいつか月に帰るん?」
それはグズグズ泣いている時に高杉が彼女にした法螺話。月にいつか兎は帰るから、きっとお前もいつかは万斉から離れて月に帰るんだろうよ、と彼女に言ったのだ。その話を聞いて万斉は呆れたような顔をすると、彼女を後ろから抱きしめる。
「月に帰るのは迦具夜姫でござるよ。月に兎が住んでるというのは…まぁそんな伝説がある事にはあるでござる」
「シンスケの迦具夜姫は帰ってこないねんて。シンスケちょっと寂しそうやったんよ」
「レンも月に行きたいでござるか?」
万斉の言葉にレンは首を振ると、万斉の側がええんよと短く言って笑った。
「月から迎えが来ても?」
「万斉が私の事要らん言わないなら行かないんよ」
辺境の土地で一人ぼっちだった夜兎は、今の生活が随分気に入っているようで万斉は淡く微笑んだ。夜兎の仲間が迎えに来て帰りたいと言っても万斉は手放す気は一切なかったし、高杉の様に月を眺めて幸せだった頃を思い出す生き方も御免だと思っていた。
甘やかして、可愛がって手元に置いておくまでは高杉と同じだが、彼の様にみすみす逃がすつもりは万斉には無い。無論高杉とて逃がすつもりは無かったのだろうが。そんな事をぼんやりと考えていると、自分が抱いているレンの体温がポカポカと感じられたので、彼女に視線を落とすとうとうととしだしているのに気がつく。アレだけ昼間に寝ているのにまだ眠いらしい。
「レン」
名前を呼ぶと彼女が少しだけ顔を上げたので万斉は微笑むと彼女を抱き上げベッドへ連れて行き布団を被せる。すると彼女はうとうととしながら万斉に手を伸ばした。その手を握り万斉は彼女の温かい体温を感じながら彼女が眠るまで側に寄りそう。
「ありがとうレン」
万斉は眠ったレンの手に口づけると、布団をかけなおし部屋を静かに出て行った。
甲板から見える月は残念ながら満月では無かったが、それを眺める男の姿を見つけて万斉はゆっくりと歩いて行く。この船で寒い中月を眺める趣味があるのは高杉だけであるのを知っている万斉は、彼の隣に立って同じ様に月を見上げた。
「オメーもいい加減、雪兎を手前ぇのモノにしとかねーと月に逃げられんぞ」
「ぬしの様にか?」
万斉の返答に高杉は少しだけ瞳を細めると、そうだと笑った。あっさり肯定したのはそれが事実であったからだ。
「レンはまだ幼い」
「良い体してんだろうよ。全体的に小振りに出来てるけどな」
咽喉で笑った高杉を眺めて万斉は呆れたような顔をすると、精神的な問題だと言う。そんな事は高杉も承知しているのでからかっただけであろう。
「レンの中には好きか嫌いか無関心しかないでござる」
仲間だから好き。敵だから嫌い。自分に関わりが無いから無関心。大雑把だが明確に彼女の中ではそのような線引きがされている。敵に対して何処までも冷酷に一方的な蹂躙を行えるのは、その精神的な幼さ故とも言える。それが可能な戦闘能力を抱えた夜兎。日の光という致命的な弱点が無ければ、夜兎は宇宙を統べていたかもしれない。
「好かれてるんだろうよ、オメーは」
「…晋助に対してと同じベクトルの好きでは意味がないのでござるよ」
「意味が無いねぇ…のんびりしてたら春雨の夜兎が迎えに来るんじゃねぇのかよ」
その言葉に、万斉は僅かに口元を歪めるとまた月を仰いだ。万斉が無言の返答を返した事に高杉は僅かに眉を顰めると、同じ様に月を眺める。どんなに恋焦がれても迦具夜姫は帰ってこないのを知っていて、それでも何処かで縋っている自分と、別の方向に万斉は向かおうとしているのだろうとぼんやりと感じてはいた。何処で自分は間違えたのだろうかとも。
「義理でも迦具夜姫からプレゼントもらえて良かったでござるな」
「義理も義理だ。失礼な事に『誰にももらえてなかったら可哀想だから送る』って手紙まで付けやがってあの女…銀時にもヅラにも配ってるなありゃ」
それこそ万斉が言う意味のない同じベクトルの好きで括られている。
「…直接渡しにくりゃぁ監禁でも何でもして放さねぇのによ」
「それが厭だから拙者の所に送ったのでござろう」
「違いねぇ…前に捕まえた時は一月で逃げられたしな」
自嘲気味に高杉が笑ったので、万斉は呆れた様に肩を竦める。何度も同じ様に捕まえて逃げられるの繰り返しである。それに懲りない高杉も高杉であるが、そんな相手に義理とは言えプレゼントを贈る方も贈る方だと万斉は思ったが口には出さなかった。高杉を心底嫌う事もないが、永遠に特別に好きになる事も彼女はないのかもしれない。永遠に交わらない平行線。
「ウソツキは嫌いなんだと。俺の言う事は何一つ信用しやしねぇんだよあの女」
煙を吐きながらそう言うと、高杉は甲板の手摺にもたれかかり瞳を細めた。愛してると何度言っても信用しない。好きだと抱きしめてもするりとかわされる。何度繰り返しても結果は同じで、それでも諦めきれない自分を女々しいとは自覚していたが、どうしても諦め切れなかった。
「だから手前ェが少し羨ましい」
ポツリと吐き出した高杉の言葉に万斉は少し驚いた様な顔をしたが、直ぐに表情を戻し、興味が失せたかの様に月を眺めた。
「兎も迦具夜姫と同じ様に月に帰るぜ」
「拙者の幸運は…ぬしという大失策男が側にいる事でござるな」
高杉の嫌味をさらりと返すと万斉は口端をあげて笑った。失敗の手本が目の前にいるから自分は失敗しないと言いたげな顔に高杉は不快そうに顔を顰めると、煙管の火を海に落とし自室に戻る為に万斉に背を向ける。
「…せーぜー頑張れよ。逃げられて泣いても俺は慰めねぇからな」
「ぬしに慰められるぐらいなら自決するでござるよ」
背からかかる万斉の言葉に高杉は笑うと、投げやりに手を振り船内に戻っていった。
それを見送った万斉はサングラスの下で瞳を細めると、月を煽り眠る自分の夜兎を思い描く。純粋で孤高の音楽を奏でる彼女を手放す気はなかった。自分無しでは生きていけない位にドロドロに甘やかして、可愛がって、いつかは己のモノにする。
──だがまだ早い。
手折るのを躊躇った高杉は迦具夜姫に逃げられたが、自分はどうだろうか。そんな事を考えながら万斉は踵を返した。
シルバーシート2009に投稿した夜兎ヒロインと同設定
ちょっと気に入ってるので好評ならシリーズにします
うちの万斉と高杉はこんな感じ
200902 ハスマキ