*物足りねぇんだけど・後編*

──手を取るなら救済を。
──くちづけるなら幸福を。
──肌を合わせるなら安寧を。

 脳を掻き回される様な苦痛、胃の内容物を全て吐きだしてなお男は抗い続ける。
 甘露の声音は脳を、魂を、身体を揺さぶった。

「……俺が望むのはそんなモンじゃねぇよ」

 差し出された綺麗な手を振り払い男は嗤った。

「傷だらけになっても、血塗れになっても、己を削っても、守るのを止めないアイツの手がいい。俺のヒーローはアイツだけだ」

 蹴り上げられ無様に床に転がった男は、咳き込みながらなお嗤う。

***

「と言うわけで、愛断香を見廻組にも分けていただきたい。無論お金は払いますので」

 そう言い放ったのは見廻組の佐々木異三郎。隣に座る信女の表情は変わらないのだが、逆に真選組の近藤と土方は深刻そうな表情を作った。
 料亭での騒動の後、愛染香を持ち込んだ番頭に話を聞けば、飲み屋で意気投合した男から買った言う。それに関しては飲み屋の店主を含め目撃者も多く、他にも数名買っていた人間もいたので真選組で物品の回収も手配した。
 妓女に人気の香らしい、そんな話だったのだが、結局それを渡した男は以降店に現れていないらしく、監察が行方を追っている状態。
 そんな停滞した状況の中、見廻組から持ち込まれたのは愛染香に対する共同捜査。
 攘夷浪士の資金源の疑いがあって真選組は捜査をしていたのだが、見廻組は見廻組で、幕府中枢における情報漏洩の件で内密に捜査をしていた。
 その延長で浮かび上がってきたのが吉原にて嘗て流行したご禁制の香。
 情報漏洩の疑いがある幕臣の事情聴取をしたところ、記憶が曖昧な部分が多く、結局しっかりと裏が取れなかったのだ。
 愛染香の効果を打ち消す愛断香を使えばあるいは、そんな流れで見廻組は先日の騒動に対応した真選組へ足を運んだ。

「……情報漏洩かぁ。そりゃ難儀ですなぁ」
「ええ。誰に漏らしたのかわからない、そもそも漏らしたのかすら本人が分からないという非常にあやふやな状態でしてね」

 幕臣である真選組としては見廻組に協力を求められれば断るわけにもいかない。そう考えて土方は近藤と佐々木の会話に耳を傾けていたが、小さく舌打ちをした後にそばに控えていた山崎に声をかけた。

「おい。愛断香の在庫どんだけ残ってんだ」
「先日使ってしまいましたから余りないですよ。とりあえずある分だけ持ってきましょうか?」
「頼む。あと吉原に再度在庫問い合わせてくれ」
「はい」

 土方の指示に山崎が部屋を退出すると、佐々木は瞳を細めて口を開いた。

「先日の料亭での件は片付きましたか?」
「……結局まだ番頭に愛染香を渡した奴は捕まえてねぇよ。飲み屋で配られた分に関しては回収できたけどよ」
「一つ。提案があるのですが」
「何だ」
「芸妓の組合、協会。この両方の人間に一度愛断香をかがせたいのですが」

 佐々木の提案に近藤は瞳を丸くする。何故その様な事を提案されたのかわからなかったのだろう。けれど土方は僅かに考え込んだ後に口を開いた。

「芸妓だけか?事務員含めてか?」
「できれば全員ですかね。吉原以外ですと、芸妓の間で流行っているという話ですので。そしてその芸妓すらも別の誰かに愛染香をかがされている可能性があります」
「となるとかなり大掛かりなものになるな」
「ええ。ですから見廻組が協会、そちらが組合。愛断香を関係者にかがせた後に事情聴取という形になりますかね」

 それでも人数が多すぎると土方は渋い顔をしたのだが、近藤があっと声を上げたのでそちらに視線が集まる。

「あ、いや。愛染香を吸った人間が愛断香をすったら身体上手く動かなくなるって話トシにしたっけ?」
「あぁ、山崎がそんな話してたな。前の料亭程度だったら怠くなる位だっつってたけど、たっぷりかがされた場合だとぶっ倒れる奴もいるとか何とか」
「そうそう!まぁ個人差はあるんだけどね!けど、愛染香をすったことない人だったら全然影響ないんだよ。だから、こう、全員に一応はすわせるけど聴取に関しては体調不良起こした人間だけでいいんじゃない?やっぱ全員の方がいいかな?」

 近藤の提案に佐々木も少し考え込んだが、小さく頷いた。

「それで行きましょうか。とりあえず協会と組合の長に話を通して……まぁ、彼らにも愛断香はかいでもらいますが、その後芸妓や事務員にもという話ですかね。愛断香の在庫が溜まり次第足並み揃えて行きましょう」

 そして戻った山崎。やはり吉原にはまだ余り在庫がないらしく、大急ぎで調香師に制作してもらっているという返事を近藤や佐々木に伝えた。

「そうですか。まぁ、料亭での事故は向こうに取ってはイレギュラーな事でしょうし、しばらくは警戒して大人しいかもしれません。その間に在庫を溜め込んでおければいいのですが。フリーの芸妓に関しては……協会と組合が完了してからですかね。余り数も多くありませんし」
「あ、そうなんですね」

 近藤は芸妓周りの細かい事を知らないのだろう素直に頷く。

「あぁ、カグヤさんとお弟子さんは問題ないので外しましょうか。愛断香嗅いでますよね。不審な点は?」
「ねぇな。完全に巻き込まれだ」
「でしょうね。カグヤさんはたっぷりハーレムプレイを楽しんだようですし、お弟子さんはしっかり真選組の事情聴取を受けていたと聞きました」
「……女狐か」
「メル友でしてね」

 しらっとそう言い放つ佐々木を睨みつけた土方であるが、その間に入るように近藤が口を開いた。

「ともかく!!愛染香の件に関しては見廻組、真選組共に情報交換をしながらと言うことで」

 折り合いがもともと良くないのを知っている近藤の焦ったような表情に土方は小さくため息を付いてから頷き、佐々木も僅かに瞳を細めて頷いた。

***

 組合、協会の組織ぐるみであれば対応も変えなければならないと、とりあえず見廻組及び真選組の密偵が先に組合長、協会長、その秘書など上層部に愛断香を秘密裏にかがせたのだが変化はなく、予定通り彼らの協力の元計画を進めることになった。
 近藤と土方が組合を訪れたのは吉原から追加の愛染香納品の予定日が漸く確定した日。
 真選組が突然事務所にやってきた事に組合長は驚いたようであったが、料亭での愛染香騒動は聞いていたので深刻そうな表情で二人の話を聞いていた。

「ご禁制の香でしてね。芸妓の方が既に被害に合っている恐れもありますので……」

 情報漏洩云々は伏せておき、あくまで被害者救済を全面に押し出して近藤は話を進める。その様に言われれば、芸妓を守るためにと協力が得やすいだろうと佐々木が台本を書いたのだ。

「そうですね。芸妓が一同に集まる事は少ないのですが……なにか理由をつけて集めてみましょうか?」
「できそうならお願いしたいのですが。あ、フリーの芸妓の方もできれば声をかけていただければ……」
「フリーの方ですか?」
「ええ。無理ならこう……名簿のようなモノだけでも……あ、万事屋の方は把握してますので大丈夫です」
「ああ、銀さんの所は二人だけですけどね。少々お待ち下さい。うちの子と一緒になったフリーの子のリストも一年位は保管していますので……」

 組合長は傍に控える秘書にリストを持ってくるように言付ける。トラブル防止の為にどの座敷に、どの芸妓が行ったのか、一緒になった芸妓は誰かと言うような日報が存在するのだ。

「しかし愛染香とは……大昔に吉原で流行ったアレですよね」
「ええ。先日吉原で大量に使われる事件がありましてね。どうもそれが上にも流れてきているようでして」

 すっかり冷めたお茶を飲みながら近藤が返事をすると、組合長は顔を顰める。彼も嘗て禁止された愛染香の話を聞いたことがあったのだ。使いすぎると廃人になるとまで言われたのを思い出し、深刻そうな表情を作る。

「芸妓も恋愛禁止と言うわけではないので、我々が気が付かないうちにという事もあるのかもしれませんね。協会の方にも?」
「そちらは見廻組が。芸妓は殆ど組合か協会に所属していると聞いていますので」
「ええ。迦具夜姫の様に実質フリーで三美姫に上り詰めるなんて稀ですよ。何の後ろ盾もなく、己の腕一本でっていうんですから本当に大したものです。うちの嫦娥も三味線は組合イチですが、流石に彼女には敵わない」

 よその所属である迦具夜姫をべた褒めする組合長に近藤は少しだけ驚いたような顔をする。組合長と言う立場ならば所属する芸妓を推しそうなものだと思ったのだ。

「……だからこそ引退も惜しまれているんですけどねぇ」
「え!?引退するんですか!?」
「噂ですよ。今まで弟子なんて取ったことない子が、嘗ての己の銘を渡して育成してますからね。銀さんの所に所属なのが残念ですよ君菊も」

 あ、そんじゃ昔使ってた名前あげるわね!と山崎が名付けに困っていた時に能天気にカグヤがそう言い放ったのを聞いている土方は思わず渋い顔をする。しかも知らない間に君菊は迦具夜姫の後継者という様に周りは見ているらしい。
 山崎大丈夫か?と仕事のために放り込んだ土方は若干嫌な汗をかく。あくまで監察業務の一環で芸妓になっているだけで本職ではないのだ。本職にされても困るのだが。
 そして近藤も君菊が山崎だと知っているので、表情が引きつっている。

「まぁ、三味線の腕ってのは年齢関係ありませんからね。この業界をもりたてる為にも迦具夜姫には是非続けて欲しいものですが」

 そういう組合長がチラチラと己に視線を送ってくるので土方は思わず顔を顰める。先日妲己から聞かされた話を思い出したのだ。いい人ができたから引退する。一体どこからそんな噂が流れたのか。恐らくそんな噂を組合長も聞いていて、迦具夜姫の引退を引き止めるためにわざわざ雑談にこんな話を混ぜたのだろうと土方は察した。

「本人次第じゃねーのそんなの」
「……そうですねぇ」

 土方の言葉に曖昧に笑う組合長に彼は一瞬ムッとしたような表情をするが、直ぐに応接室の扉を叩く音が聞こえ意識をそちらに向ける。

「来客中だよ」
「申し訳ありません組合長。真選組の副長さんにお客様が……」
「俺に?」

 嗜める様な組合長の言葉に、若い芸妓は申し訳無さそうに眉を下げる。

「はい。至急お耳に入れたいことがと……あの……別のお部屋にご案内したので」
「ここ呼んでくれていいけど」
「えっと……」

 土方がここに呼べと言い放つと芸妓は更に困ったように眉を下げてチラチラと組合長の方に視線をしきりに送る。
 すると組合長は苦笑しながら言葉を添えた。

「職業柄外に漏らせないお話もあるでしょう。どうぞ別室はご自由にお使い下さい。君、副長さんだけでいいのかい?局長さんは?」
「副長さんだけとお伺いしています」

 そう言われれば仕方ないというように土方は立ち上がる。実際見廻組とのやり取りは、情報漏洩捜査の件もあるので組合の人間には聞かせられない。同じ様に協会に行っている向こうでなにかトラブルか進展があったのかもしれないと判断した土方は、その場は近藤に任せて芸妓について応接室を後にした。

「こちらです。私はお茶をお持ちしますので」

 扉の前まで案内されると芸妓は早足でその場を離れてゆく。別に茶などいらないのだが、そんな事を考えながら土方は扉を開けた。

「……しまっ……」

 ぐらりと意識を揺さぶられて土方は思わず部屋に入った途端膝をつく。それと同時に控えていた男が素早く扉を閉めた。

「お久しぶり。土方十四郎。大人しくしてね」
「手前ェ……」

 備え付けられたソファーに座るのは三美姫が一人嫦娥。そばに男を侍らせて彼女は妖艶に笑う。
 むせ返る程の甘ったるい香りは愛染香。
 土方は吸い込まないようにと腕を上げようとするが、それは扉を閉めた男に妨げられる。身体が上手く動かないのは大人しくしろと命令されたからだろう、それに苛立ちながら土方は嫦娥を睨みつけた。

「……愛染香をこれだけ吸って睨みつけてくるなんて……大したモノね」

 その時見たものに心を奪われる。そんな効果だと聞いていたのを思い出した土方は嫦娥から視線を逸らそうとしたが、歩み寄ってきた彼女に顔を掴まれ無理矢理覗き込まれる。

「莫迦が愛染香を持ち出したせいで色々台無しだわ。だからね、欲しいものを全部持って行く事にしたの」
「意味がわからねぇよ」
「……迦具夜姫は貴方を奪ったらどんな顔をするのかしらね」

 瞳を細めて嫦娥が笑えば、土方は忌々しそうに口元を歪める。

「私を愛しなさい土方十四郎。あの女よりも」

 顔を寄せてきた嫦娥。それに対して土方は混濁する意識の中嗤った。

「女に溺れて誇りや志を捨てる位ェなら俺に死ねってアイツは言うだろうよ」

 そう言い放ち勢いよく己の頭を嫦娥の頭に打ち付けた。

「嫦娥様!!」

 頭突きを食らった嫦娥に慌てて男たちが駆け寄る。土方はそのまま意識を失ったのか床に這いつくばった。
 わなわなと唇を震わせた嫦娥は、一つ深呼吸をすると言葉を放つ。

「予定通りに運び出しなさい」

 狐が嗤う。いてもいなくてもお前の手には入らないと。
 狐が嗤う。お前の恋い焦がれた男は侍なのだからと。

──あの男は御伽噺史上最悪の悪女に焦がれて獣の檻をこじ開けたんやで?誇りも志も抱えたまま。血まみれになりながらそれでもなお諦めず。

 瞳を細めて嗤う狐の言葉を振り払うように、嫦娥は忌々しそうに舌打ちをした。

***

「うっそマジで?兄さん行方不明なの?」

 河川敷にある三味線教室。そこに集まるは見廻組の佐々木異三郎、今井信女、そして真選組の山崎退。
 普段ではありえない組み合わせの面子を迎え入れたカグヤは話を聞いて思わずそう声を上げる。

「ええ。真選組副長ともあろうものが情けない話ですがね」

 しれっと茶をすすりながら佐々木が言い放つので山崎は彼を睨む。しかしながら、まさか白昼堂々と真選組副長を攫うとは誰も予測できなかったのも事実で、悔しそうに山崎は俯いた。
 結局見廻組の方が担当した芸妓協会で愛染香をかがされていたのは片手以下だったのだが、芸妓組合に関しては予想以上に侵食されていた。
 帰ってこない土方を不審に思い、近藤が様子を見に行った所で発覚した拉致。
 慌てて真選組の面々を呼び寄せ、とりあえず在庫の愛断香を事務所内の面々にかがせたところ、土方を呼びに来た芸妓含め、複数名の侵食が発覚し、その後組合長の協力で早急に登録芸妓を集めた。そして上がった嫦娥の名前。
 まさか組合の看板とも言える芸妓がと組合長は頭を抱えた訳なのだが、以降組合の芸妓への事情聴取は真選組だけではなく見廻組も一緒に行うこととなる。
 幕府内部の情報漏洩が嫦娥主導で行われていた事も明白になった。
 ただ、彼女自身が攘夷浪士の仲間であるというわけではなく、その情報で荒稼ぎしていたというのが見廻組の見解だった。

「情報を売っぱらって金を稼いでたってのはわかったんだけど、何で兄さん攫われたの?兄さんの情報抜く為?」

 真選組は松平傘下の組織で、幕府内でも独立性が高い。そして攘夷浪士を狩るのが彼らの仕事であるのなら土方の持つ情報にも値打ちはあるだろう。
 ただ、今までの情報漏洩は拉致という形ではなく、愛染香で思うがままに操るというパターンが多く、寧ろ通常通りに仕事はさせて、更に情報を抜くという形が多かったのだ。

「……これを」

 佐々木が差し出したリストに視線を落としたカグヤは、思わず眉を寄せる。見覚えのある名前。

「芸妓とは別に発覚した愛染香の被害者リストです」
「えぇ?何で?この人たち幕府要人じゃないわよ?商売やってる人ばっかだし」
「そうですね。嘗て迦具夜姫を贔屓にしていた太客ってやつですか。最近迦具夜姫から嫦娥に乗り換えたと言われる客をあたってみたのですが、ほぼヒットしましたね。最近指名がないことに気が付きませんでしたか?」
「いや、太客って言ってもそんな頻繁に呼ばれるわけじゃないし。何かのお祝いごととか節目にって感じだから」

 そもそもカグヤは芸妓の仕事自体昔なじみの客以外は断る事が多いし、そのなじみ客も呼べば迦具夜姫は来るのだが、出し惜しみをする傾向にあった。ここぞという時に呼んで招待客に披露するのだ。
 その露出の低さが逆に値打ちを上げていった。
 最近でこそ愛弟子のためにと一曲だけを条件に座敷に上がることはあったが、はじめから最後まで迦具夜姫が侍るなじみ客の座敷の値打ちは相変わらず高い。

「カグヤさんは嫦娥とは折り合いが悪かったそうですね」
「そもそも一緒に座敷に上がることすら稀だしなんとも……」

 困惑したようなカグヤの反応に佐々木は僅かに瞳を細めたが、小さくため息をついた。

「迦具夜姫の銘も、江戸一番の名妓の座も、惚れた男も全て貴方が持っている」
「え!?あの子兄さんの事好きだったの!?兄さんからあの子の話聞いたことないわよ!?」
「あー、土方さんはそもそも嫦娥さんの顔も名前も全然覚えてないんで……最近漸く妲己さんは覚えたみたいですよ」
「それも酷い!!え?え?じゃぁ、侍らすために攫った的な?兄さんハーレムに入れられちゃう感じ?」

 驚いたように声を上げるカグヤに山崎が小声で耳打ちをしたのだが、更に彼女は目を丸くする。
 そんな反応を眺めながら佐々木は小さく肩を竦めた。

「私怨ですよ。欲しいものをすべて持っている貴方への。恐らくじわじわ貴方の顧客も食っていく予定だったのでしょうが、先日の事故で足がついた。それもあって土方さんを攫うという行動に出たのでしょう」
「えぇ?私のせいってこと?」

 眉を下げるカグヤを眺め、今までモソモソとドーナツを黙って食べていた信女が突然口を開く。

「カグヤは悪くない。悪いのは人のものを欲しがる蟇蛙」
「蟇蛙?」

 人のものを欲しがるのが悪いと言いながらアンタさっきから先生の皿からドーナツ食ってるじゃないですか!!と突っ込みたいのを我慢して、山崎は彼女の言葉を反芻した。
 すると信女は小さくうなづいてカグヤの顔をじっと眺める。

「カグヤがいてもいなくても一緒。アレは何も手に入れられない。不老長寿の妙薬を掠め取った仙女は所詮醜い蟇蛙だって妲己が言ってた」
「信女さん」

 佐々木が彼女の名を呼べば、信女は口を閉ざしまたドーナツを食べだす。

「妲己さんが?あぁ、佐々木さんは彼女を贔屓にしてましたね。彼女から何か?」
「大したことじゃありませんよ。嫦娥からの迦具夜姫への憎悪と、彼女からの迦具夜姫への情熱を延々メールにしたためられただけです」
「うっわ。めっちゃ長そう」

 突っ込んで聞いておきながらげんなりした顔をする山崎であったが、表情を引き締めて再度口を開く。

「とりあえずですね先生。嫦娥の先生への敵意が半端ないのはなんとなくわかってもらえたと思うんですけど」
「知りたくなかったわぁ」
「身辺警護の許可を下さい」
「……何で?え?兄さんもう攫ったんだから私に用はないわよね?」

 顧客は戻ってしまった訳なのだが、恐らく嫦娥はもう芸妓としての仕事はできないだろう。情報を売って得た金と焦がれた男を抱えて高跳びでもするのかとぼんやりと思っていたカグヤは驚いたように山崎の言葉に声を上げた。
 それに対し残念そうに佐々木は小さく首を振る。

「こちらとしても流石に真選組副長を抱えたまま高跳びされたら困ります。警察の機密情報の塊ですからね」
「そりゃわかるけどさ……」
「ですので、貴方はいつも通り行動して下さい」
「はぁ?」
「顧客を取られようが、男を掠め取られようが、全く気にしないというスタンスでお願いします。まぁ、顧客を取られたことにすら気がついていらっしゃらなかったようですからそう難しくないと思いますけど」
「えぇ?」
「……それが気に食わないと食付くでしょうね嫦娥は」
「煽っていくスタイルなの!?そんなんで煽られるとか煽り耐性低くない!?」

 結局今まで迦具夜姫は嫦娥など歯牙にもかけていなかった。そもそもそんな発想もなかった。それが更に嫦娥の憎悪を煽っていたのは妲己からの話で察せられると言う話を佐々木はする。

「妬む者というのは自分を相手の視界に入れたいんですよ。そのうち愛染香漬けにされた土方さんを侍らせて貴方の所に来るんじゃないですかね。そこを我々は狙い撃ちしたい」

 土方奪還と言うよりは嫦娥の捕縛が目的なのだろう。佐々木の言葉に山崎がやや渋い顔をしているのは、恐らくカグヤを言ってしまえば囮にするという事への心情的な抵抗からである。
 ただ、カグヤ自身の安全は確保したいと山崎が身辺護衛を言い出した理由もなんとなく理解した彼女は小さく首を傾げる。

「寧ろ身辺警護なんてしたらあの子警戒して出てこないんじゃないの?」
「愛弟子2号ノブたすというのを考えているのですが」
「いやいやいやいや。ノブたす三味線できんの!?え!?大丈夫!?前にノブたす人斬り以外不器用って言ってたわよね!?」
「そんな話をしたんですか信女さん」
「ドーナツ奢ってくれた時に少し話した」

 相変わらずモキュモキュとドーナツを食べながら信女が返事をすると、佐々木は困ったように眉を下げる。
 このカグヤの反応では恐らく愛弟子2号計画は了承しないだろうと思ったのか、小さくため息をつくとちらりと山崎に視線を送った。
 君菊も侍っているが、残念ながらカグヤの身の安全を保証できるほどの腕がない。どうしたものかと考え込んだ佐々木を眺め、カグヤは口を開く。

「まぁ、愛弟子2号計画はともかく協力はするわよ。兄さん心配だし」
「ありがとうございます。愛染香漬けで廃人になってるかもしれませんが。まぁ、下手に情報漏洩されるよりそちらの方がこちらとしては有難いのですが」
「そんなにヤバいのアレ!?」
「だからご禁制なんですよ。あの性格ですから無駄に抵抗するでしょうし、そうなれば愛染香もどんどん追加されるの悪循環でしょう。まぁ、迦具夜姫贔屓が有名ですし、一発目からキツめに投入されてるんじゃないですか」

 佐々木の話を聞きながら、小さくカグヤが声を上げたので彼は不思議そうな顔をして彼女の方に視線を送る。

「話の途中にごめんなさいね。その、兄さんが迦具夜姫贔屓ってどっからきてんの?」

 以前からずっとカグヤが不思議に思っていた部分。カグヤ自身土方のいる座敷に上がったのは先日の座敷が初めてなのだ。以前の将軍の座敷では、外での警護に当たっていたので土方はいなかったし、そもそもその時点で少なくとも松平は土方が迦具夜姫贔屓だと思って依頼を彼に持ち込んでいた。
 その質問に佐々木は少しだけ考え込んだのだが首を傾げて言葉を放つ。

「私は妲己さんから聞きましたね。土方さんの弱点はないかと探っていた時に贔屓にしている芸妓がいると。調べてみれば元婚約者だった訳ですが」
「とんでもないことを暴露したなオイ!!!弱点探るってなんですか!!」
「仕事相手を知ることも重要ですからね」
「弱点って思いっきり言いましたよね!!」

 思わず山崎は突っ込むのだが、逆に佐々木は彼に問いかける。

「では貴方はどこで?やはり妲己さん経由ですか?芸妓とは親しいのでしょうに」
「……えっと……」

 あ、これは自分が君菊だと知っているなと苦々しく山崎は思ったのだが、言葉に詰まる。情報源を言ってしまっていいのかと迷ったのは、アレの存在をここで話さなければならないのを躊躇ったからだ。

「いいにくいならいいのよザキさん。仕事柄情報源伏せるってのも仕方ないし」

 眉を下げてカグヤが言うので、山崎は結局全部喋ることにした。

「ここなんですけど」

 そう言って山崎が差し出した携帯画面。一同それを覗き込むと暫し沈黙したのだが、カグヤは驚いたように声を上げる。

「兄さんファンクラブなんてあるの!?」
「非公式ですけど……特に副長や沖田隊長はメディア露出も多いですし、あの顔面偏差値ですから」

 ここで近藤の名前が上がらないのが残酷だなと信女はドーナツを食べながら思ったのだが、隣に座る佐々木が自分の携帯を取り出して何かを検索しだしたのでその画面を覗き込む。

「信女さんもファンクラブがあるようですね」
「そうなんだ。気持ち悪いから斬ってきていい?」
「ダメですよ。私のはありませんねぇ……エリートだから遠慮してるんでしょうか」

 ポジティブだなオイ!!と思わず山崎は心の中で突っ込んだのだが、とりあえず話を続けようといくつかその非公式ファンクラブのページを開く。

「大元の発生源はここなんですよ。土方さんが私服で出入りしてるって話から始まってですね……誰の家だ!!ってなるわけですよ」
「まぁ、うちは看板下げてるしねぇ。調べるまでもなかった訳だ」
「はい」
「……え?私兄さんのファンに刺されない?大丈夫??いや、今まで兄さんのファンにいちゃもんつけられた事ないけど」
「流石に江戸一番の名妓相手じゃ文句もつけられなかったみたいですねぇ。寧ろ美男美女同士絵になるとか、まぁ、割と好意的ですかね。それでこのファンクラブ内には芸妓なんかもいる訳で……」

 付き合い出したのは鬼兵隊からカグヤを奪還して以降ではあるのだが、それ以前から土方は遠慮なく堂々と出入りしていたし朝帰りもしていたので、鬼の副長が迦具夜姫を贔屓にしているという話は一気に広がった。
 最近はネット等も一般的になったので、攘夷浪士がネットを通して武器売買などをしていないかの監視も真選組はしているのだ。その延長で山崎はこの非公式ファンクラブの存在を知り、不都合な情報が流れていないか監視をしていた。

「ネット社会怖い!」
「本当ですよねぇ」
「いやいやいやいや!!え!?これとか完全に隠し撮りよね!?こんなのネットにあげられるの!?芸能人なの真選組!?」
「カグヤさんの写真はありませんね」
「削除申請全部俺が出してますから。あくまで土方さんのファンクラブであるっていう建前なんで他に迷惑をかけるのはタブーといいはれますからね。先生の名前も一応伏せられてますし。まぁ、満月って隠語は隠語にすらなってませんけど」

 地味ながらいい仕事をしているなと佐々木は思い山崎に視線を送る。それこそ土方や沖田ほど露出はないが、真選組の要であるのだろうと。
 その上土方やカグヤからの信頼も厚い。
 これでもう少し剣術が達者ならばといささか残念な気分に佐々木はなる。

「……えー。飲み友達だったんだけどそん時は」
「それはもちろん俺は承知してますけど、まぁ、一般的に見ればあんだけ堂々と朝帰りしてればご贔屓って言われるのも仕方ないと思いますよ。万事屋の旦那も先生の家には出入りしてますけど、芸妓の仕事が旦那経由ですから仕事と思われたんでしょうし」
「そっかーまじかー。え、あの子この話を真に受けて君菊ちゃんや私につっかかってきてたの?結構前から当たり強かったわよね」
「多分……まぁ、結局その後実際お付き合いには至ってるわけですから見当違いではないんでしょうけど。迦具夜姫の銘の件もありますし……元々先生に対して辛辣でしたしね」
「あんな名前嫌がらせじゃないのさ。御伽噺史上最悪の悪女の名前なのに。言ってくれりゃ譲ったわよ」
「……そういう所ですよカグヤさん」
「え?」

 驚いたように口を挟んできた佐々木にカグヤは視線を送る。すると彼は苦笑しながら口を開いた。

「彼女が欲しくて欲しくてしょうがなかったものに貴方は執着しない。そこが彼女の神経を逆撫でするんです」
「どうしろってのさ」
「どうにもなりませんよ。絶望的に相性が悪いとしか言いようがありませんね。現に土方さんが攫われたと聞いても貴方は動揺すらしない」
「心配してるわよ。けど、私が下手に動いて足引っ張るより真選組なり見廻組に任せたほうが安心じゃないの。兄さんが自力で逃げてくる可能性だってあるし。人を冷血漢みたいに言わないで欲しいわ。兄さん奪還に必要なら協力だってするって言ってるじゃないのさ」
「では愛弟子2号ノブたすを……」
「他考えてよ。エリートなんでしょ。頑張って」

 その提案は却下だと言うように冷ややかにカグヤが言い放つと、佐々木は口元を歪めた。

「ではエリートの私から別の提案を。カグヤさんには負担になるかもしれませんが」
「そんなヤワにできてないわよ」
「知ってますよ。貴方はいつでも真っすぐで、折れない。だからこそ値打ちがある」
「褒め言葉として受け取っておくわ」

***

 芸妓の仕事を終えたカグヤは料亭の呼んでくれた車に乗り込む。
 山崎は嫦娥捕縛と土方奪還の為に新選組の仕事が忙しく座敷に一緒には上がっていない。
 流れる外の景色を眺めながらカグヤは小さく笑った。エリートの言うとおりだと。己の指にはめている指輪に視線を落としながらカグヤは口を開いた。

「この車禁煙車かしら?」
「……いえ。大丈夫です。どうぞ」

 懐から煙管一式を取り出したカグヤはくるりと一回転させた後に、それに刻み煙草をを詰めて火をつける。
 細く吐き出される煙。

「仙女様の所までは遠いの?」
「ご心配なく。貴方を安全に送り届けるのが私の任務です」
「以降の保証はナシって事ね」

 咽喉でカグヤが笑う姿をルームミラーで確認した運転手は僅かに困惑したような表情を浮かべる。
 普通なら外部との連絡を取ろうとするか、騒ぎ出すか。明らかに拉致だとわかっているのに落ち着いた様子であるのが逆に不気味に感じたのだ。

「副長さんは元気?」
「……」

 沈黙の返答にカグヤは瞳を細めると、また煙を吐き出して鮮やかに笑った。


 郊外の別荘だろう。以前監禁された挙げ句半焼となった天人の別荘もこんな作りだったと思いながらカグヤは車を降りてその建物を見上げる。
 運転手はカグヤが逃げ出さないか警戒をしていたようだが、彼女が空を見上げて笑ったのに気が付き思わず身震いした。
 満月。
 迦具夜姫の象徴とも言える月夜。

「……いい夜ね。こんな日に呼びつけたことは褒めてあげるわ。館内は禁煙?」
「私にはお答えしかねます」

 愛染香を焚くことが多いので煙草を吸うものがいなかったのだ。それもあって禁煙かどうか運転手は返答に迷ったのだろう。

「そう。まぁいいわ。車の中で吸えたし。悪かったわね。変わった匂いだったでしょ?」
「……」


 そして案内されたのは洋風の応接室。
 一人がけのソファーに座ったカグヤは、煙管を手遊びのように回しながら己を呼びつけた女を待った。
 普通なら女が待っている部屋に案内されそうなものなのだが、逃げにくいように上座へ押し込みたかったのだろうかとぼんやりと考えた。これではまるで己がこの屋敷の主人のようではないかと。

「本当に腹立たしい。拉致されても顔色一つ変えないのね」
「拉致だったの?招待されたのかと思ってたわ。あぁでも拉致ならこの位置はよろしくないわね。上座、譲ろうか?」

 忌々しそうにカグヤを睨みつけるのは嫦娥。そしてその隣には土方。
 手当されているが暴行の跡が身体には見えるし生気もない。瞳孔が開いているのはいつものことだが。佐々木の言う通り散々抵抗したのだろう。

「兄さんは余り元気そうじゃないわね。ちゃんとマヨネーズと煙草与えてる?燃料よその人の」

 笑いながらカグヤが放った言葉が癇に障ったのだろう、嫦娥は瞳を釣り上げた。

「アンタは!!いつもそうやって上から私を見下ろす!!」
「自惚れないで。アンタなんかに興味ないわよ。くっそどうでもいい」
「はぁ!?強がってんじゃないわよ!!」
「……で、なんでわざわざ私呼びつけたのさ。明日君菊ちゃんの稽古あるから早く帰りたいんだけど」
「土方十四郎より君菊なの?」
「ハニーとの約束は破りたくないわねぇ。あの子可愛いでしょ?三十超えてあの容姿とか吃驚よね」

 咽喉でカグヤが笑うと嫦娥は唖然としたように彼女に視線を送る。そして湧き上がるは憎悪。
 己が欲しくて欲しくて仕方なかったものを全て持っているくせに執着しない。
 この女がいる限り己の安寧はない。そんな脅迫概念に似た感情に支配された嫦娥は静かに言葉を放った。

「その女を殺して」

 ゆっくりと刀を引き抜く土方を眺めながら、カグヤは煙管の回転を止める。

「迦具夜姫の名前も、顧客も欲しけりゃくれてやるわ。女に溺れて志と誇りを折られたその人もね」
「殺しなさい!!土方!!」
「アンタが全部引き受けてくれるなら、私は何も持たずにソラに帰るだけよ」

 振り下ろされた刀。

「……何で……」

 けれど土方が斬ったのはカグヤの煙管。嫦娥は狼狽えたように言葉を零し、カグヤは鮮やかに笑って瞳を細めた。

「おかえり、兄さん」
「……何がおかえりだくそったれ。その煙草の匂いを纏って、よくも俺の前でソラに帰るなんざほざきやがったな三味線屋。あとな……女に溺れて志も誇りも折ってねぇ。折るぐらいなら死んだ方がマシだ。つーかその指輪なんだ!!俺が渡した指輪以外つけるとかいい度胸してんな手前ェ!!シスコン兄貴か!?ザキか!?ピザ屋か!?薔薇ガキか!?」

 正気に戻ったと思ったらカグヤに向かって怒涛のごとく喋りだした挙げ句、彼女の右手を取って土方は指輪を速攻で外そうとする。

「いやまって!?指輪!?そこ気になるの!痛い!!痛いってば!!無理矢理引っ張らない!!指もげる!!」

 何とか指輪を外した土方は、それを床に叩きつけると満足したのか振り返り刀を嫦娥に翳した。

「ご禁制の愛染香の使用及び、スパイ容疑で捕縛する。大人しくお縄につけ」

 アレだけ愛染香をかがせたのにと嫦娥は震える。結局抵抗を続けた土方は嫦娥の手を取ることはなかったのだ。これ以上は廃人になるというギリギリまで使用して、漸く大人しくなったのでカグヤを呼びつけた。流石にこれ以上の江戸での潜伏は難しいと判断しての事だったが、嫦娥の迦具夜姫への憎悪が結局己を破綻させた。

「……嘘……うそ。何で?なんでだめなの?こんなに焦がれたのに?その女より愛してって命令したのに?」

 狐が嗤う。いてもいなくてもお前の手には入らないと。
 狐が嗤う。お前の恋い焦がれた男は侍なのだからと。

「そんなの兄さんにとって私が三番目だからに決まってるじゃないの」
「……は?」

 呆然とカグヤを眺める嫦娥とは逆に彼女は嗤う。

「一番目は近藤さんで二番目は真選組。この人は女に溺れて志と誇りを折るぐらいなら腹を切るわよ。そこは近藤さんより愛してって言わないと」
「いや、別に大事だけど愛してはねぇよ近藤さん。誤解を招く発言すんな」

 心底嫌そうに土方は言葉を放ったが、嫦娥は直ぐに声を上げた。

「迦具夜姫と土方十四郎を殺して!!今直ぐ!!」

 それと同時に部屋の扉が開く。土方は反射的に刀を握りなおしたが、部屋に入ってきた男の顔を見て驚いたような表情を作った。

「土方さんがカグヤさんを斬ってくれれば合法的に始末できたのですが非常に残念です」
「みまわりぐみ?なんで?」

 呆然と佐々木を嫦娥は見上げたが、それと同時に信女が動き彼女を拘束する。

「殺さないで下さいよ信女さん。あぁ、貴方に侍ってた者は全員愛断香をかがせて拘束しましたよ。よくもまぁあれだけ侍らせていたものですね」
「佐々木手前ェ……三味線屋囮にしやがったのか」
「同意の上です」

 そう言いながら佐々木が床に叩きつけられた指輪を拾い上げカグヤの手を取ろうとしたので、土方は慌てて彼女を引き寄せた。
 それに佐々木はむっとしたような表情をしたが、カグヤに伺うように声をかける。

「以前も言いましたが石は本物ですよカグヤさん。サイズもピッタリでしたし、土方さんのものより良いと思いますが」
「発信機付きの指輪なんていらないわよ」

 愛弟子2号ノブたす計画を却下された佐々木は、カグヤに発信機を持たせることにしたのだ。事前の行動予定から外れれば真選組と見廻組が追跡する。そんな計画。
 それではカグヤの身の安全が確保できないと真選組側からの反対もあったのだが、カグヤ自身が了承したので結局それが押し通った。

「ありゃ。土方さん生きてるじゃないですかぃ。つまんねーの」

 ぞろぞろと部屋に入ってきたのは、嫦娥配下を拘束し終えた真選組と見廻組。
 早々に物騒な事を口走った沖田総悟は信女の拘束する嫦娥に視線を落とし、瞳を細めた。

「そんで殺さないんですか?」
「いやいやいやいや!!事情聴取あるからね総悟!!」
「事情ったって、土方の野郎に惚れて結局相手にもされなかったって話じゃないですかい。どこにでもある話でさぁ」
「他にも情報漏洩とかね!!色々あるからね!!あ、三味線屋さん!!お怪我はありませんか?」

 沖田を慌てて止めながらも近藤は今回の捕縛に協力したカグヤを気遣うように声をかける。すると彼女は真っ二つに折れた煙管を差し出した。

「兄さんが真っ二つにしたんだけど」
「あ、それじゃ弁償はうちで……」
「しなくていい。つーか煙草吸わねぇだろ手前ェ。なんでわざわざアイツの刻み煙草吸ったんだ」
「兄さんへの嫌がらせ」
「はったおすぞ!!!」

 するとカグヤは小さく首を傾げて笑った。

「私は兄さんの煙草の匂いかいで正気に戻ったから」
「は?」
「匂いって記憶と連結してる部分多いじゃない?だからこの煙草の匂いをかいだら、兄さんがあの人のこと思い出して正気に戻るかなって。実際どうだった?愛染香よりキツイ一発だったんじゃない?」
「……最悪な方法選びやがって」

 それでもぼんやりとした自分を一気に正気に引き戻したのはかの男の煙草の匂いだった。それをカグヤが纏うのに苛ついた。何も持たずにソラに帰るのが許せなかった。
 己を引き戻したのが甘い記憶などでなく苦い記憶なのが非常に腹立たしかったが、それでもカグヤは確実に引き戻せるようにと丁寧に神経を逆撫でしてきた。君菊をハニーと呼んだのもわざとだろう。そんな男どうでもいいと突き放したのも。全て土方のトラウマにも似た不快感を引き起こした。
 嫦娥を煽りながら、顔色一つ変えずにそれをやってのけた。
 一歩間違えば己の命すら危ういのも顧みず。
 それが彼女らしいと思ったし、だからこそみすみす己のせいで危険にさらす羽目になったのが土方は腹立たしかった。

「それではとりあえず嫦娥はこちらで拘束して聴取します。攘夷浪士に関する情報も出るでしょうからその時は真選組へ報告するという形で構いませんか」
「お手数かけます。館の後始末に関してはこちらでひきうけますので」

 信女の拘束から逃れようと暴れる嫦娥に視線を落としながら佐々木が言い放つと、近藤はにこやかに後始末を引き受けた。嫦娥の捕縛、土方の奪還が終わり、後始末はあるものの近藤の肩の荷が降りたのだろう晴れやかな表情をしている。

「いや!いや!土方!!助けて!!」

 上がる悲鳴に土方は眉一つ動かさない。冷ややかな視線は愛染香をねじ伏せた事を嫌でも嫦娥に知らしめた。

「……蟇蛙」
「信女さん」

 思わず信女の零した言葉を佐々木が嗜めると、土方は不思議そうな顔をした。意味がわからなかったのだろう。

「カエルがどうしたって?」
「人のもの欲しがった子にはバチが当たるって話よ。兄さん大丈夫?愛断香かがせて貰ったほうがいいんじゃない?」
「どうぞ。心置きなくぶっ倒れてくだせぇ」

 突然沖田が己の眼の前に突き出してきた香炉に驚いた土方は目を丸くするが、一気に身体の力が抜けてよろける。

「倒れた所で俺が楽にしてやりまさぁ」
「……総悟……手前ェ……」

 身体だけではなく意識も刈り取られそうになるのを堪えて土方が声を絞り出すと、倒れるのを支えるようにカグヤが手を伸ばしてきたので、それをつかみ土方は彼女を正面から抱きしめた。そしてずるずると沈んでゆく土方の身体を支えながらカグヤもゆっくりと座り込む。

「くっそ……三味線屋も総悟も目ェ覚めたらはったおす……」

 そして一気に意識を手放した土方の背を宥めるようにカグヤは撫でた。

「はいはい。お疲れ様。っていうか!!これ私動けない!!」
「先生!!」

 慌てて山崎が駆け寄り土方を引き剥がそうとするが、ガッツリとカグヤを抱き込んでしまったまま気絶しているので苦戦する。

「兄さん!!兄さん腕外して!!」
「動かねぇで下だせぇ三味線屋の姐さん。俺が土方の腕ぶった切って解放しやす」
「ちょっと!!可愛い顔してめっちゃ物騒な事言ってるわよこの子!!噂のドS王子!?サドっ子クラブの頂点なの!?」
「お、万事屋の旦那似の良いツッコミじゃねぇですか。はじめまして姐さん。次に会うのは土方の葬式って事で」

 ニンマリと笑った沖田を眺めカグヤは苦笑すると土方の髪を撫でた。

「兄さんも頑張ったんだから労ってあげなさい。いいわ。私が運ぶから。……運べるわよね??めっちゃ変な姿勢になりそう……ザキさん手伝って」
「はい。え、どうしましょう、俺が足持てばいいですかね?海老反りみたいになりますかね」
「そのままへし折っちまえば良いんじゃないですかぃ?」
「沖田隊長ぉぉぉぉぉ!!!」

 やいのやいの言い合う面々を眺め近藤は困ったような、けれど安心したように笑った。

***

 見覚えのある天井は真選組のそばにある病院のもの。煙草が吸いたいと腕を動かそうとしたが上手く動かず途中で力尽きた土方は舌打ちをしてぼんやりと小汚い天井を眺めた。

「……兄さん?」

 こんな場所にいるはずはないと思いながら視線を巡らせればカグヤの顔が視界に入り土方は思わず瞳を細めて手を伸ばす。やはり上手く動かなくて途中で力尽きそうになるが、それをカグヤが受け止めてゆるりと握り込んだ。

「煙草吸いてぇ」
「愛染香が抜けたらね」

 部屋を満たすのは愛断香。ガッツリと愛染香を投入された土方は病院に担ぎ込まれてなお念の為にと愛断香をかがされ続けていた。

「一本だけ」
「もう」

 そう言うとカグヤは仕方ないと言うように一度部屋を出ると煙草の箱を持って戻ってきた。そして再度土方の横たわるベッドの横に座り、一本箱から煙草を引っ張り出すとそれをくわえる。
 目を丸くした土方に気が付かないのか、彼女はそのまま火をつけて一度吸い込むと細く煙を吐き出して、その煙草を土方の口元に差し出した。
 肺を満たす煙と、疑似貧血を起こしたようなクラクラとする感覚。確かに匂いというのは記憶と連結するな、そんな事を考えながら土方が次の一服を催促するようにカグヤに視線を送ったのだが、彼女はそれを無視して煙草をもみ消した。

「……何で消すんだよ」

 身体が起こせないのでそれを止めることもできない。恨みがましそうに土方が言葉を放てば彼女は呆れたように煙草の代わりに香炉を土方の側に寄せた。愛染香が抜けるまでと言うことだろう。そう察した土方はつまらなさそうに口を開く。

「物足りねぇんだけど」
「今はこれで我慢しなさい」

 そう言うとカグヤは土方に短くくちづけたが、直ぐに離れてしまった感覚に思わず彼は顔をしかめた。
 けれどそれを黙殺してカグヤは、お大事に、そう言葉を残してさっさと部屋を出ていってしまう。

「……両方物足りねぇんだよ」

 己の煙草の匂いとカグヤに触れれば漸く戻ってきたと土方は感じる。暴行を加えられた身体は軋むし、愛断香の影響で身体も上手く動かない。
 早く回復させたいと考えながら土方はゆっくりと瞳を閉じた。


次回後日談
202404 ハスマキ

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