*物足りねぇんだけど*

──アレがいなければその銘を得られた。
──アレがいなければその地位を得られた。
──アレがいなければその人を得られた。

 呪詛のように呟く蟇蛙を眺めて狐が嗤う。

──あほやねぇ。いてもおらんでも一緒やで。
──それはぜーんぶあの人だから得られたんよ。
──そんなんやからアンタはその銘を貰ったんやね。

 嗤う狐は蟇蛙に銘を与えた男の顔を思い浮かべた。
 隻眼の色男はこの女の性根を見透かしていたのだろう。
 きっとあの男も己と同じ様に迦具夜姫に魂を灼かれ焦がれた。
 そんな事を考えながら狐はうっとりと満月を眺めて、地べたを這いずる蟇蛙のことは忘れた。

***

 松平片栗虎主催の宴会には真選組だけではなく見廻組、幕府高官、そして将軍が集まっていた。真選組や見廻組は幹部クラスのみであるが、それでも規模は大きく、座敷では組合、協会からかき集められた芸妓が接客をしている。
 開始早々江戸の三美姫のうち、舞を得意とする嫦娥、歌を得意とする妲己がその芸を披露して大いに盛り上がり、その後は段々と交流があるもの同士で盃を交わしてゆく流れになっていた。

「土方さんも一献いかが?」

 眼の前に酒を持って現れた妓女に一瞬だけ土方は視線を向けたが、直ぐに興味が失せたかのように煙草に火をつけて煙を細く吐き出す。

「他のやつの酌してやってくれ」

 そもそも土方は酒にあまり強くない。ただでさえ局長である近藤がこの様な場で酒を勧められれば断ることが叶わない中、己まで前後不覚になるわけにはいかないと控えることが多いのだ。
 この手の宴会によく呼ばれる芸妓などは、土方に限らず様々な理由で酒を抑え気味にする面々を承知しているので無理に勧めることは少ないのだが、その芸妓は土方の隣に座ると妖艶に笑った。

「そうおっしゃらず」
「原田、代わりに受けてくれ」

 眉間にシワを寄せた土方の言葉に、隣に座っていた原田が盃を差し出せば、芸妓はその盃を酒で満たした。
 用は済んだだろう、そんな表情を土方は作ったのだがその妓女が離れようとしないのでイライラとしたように彼は口を開く。

「間に合ってっからよそ行け」
「あらつれない」

 すると、ぐっと原田に腕を引っ張られたので、土方は不機嫌そうに声を放つ。

「何だよ?」
「土方さん!!嫦娥ですよ!!嫦娥!!」
「ジョウガ?」
「さっき踊ってたでしょ!!三美姫の一人!!お酌してもらえるなんて光栄でしょうに!!」
「あぁ?じゃぁ手前ェが受けとけ。光栄なんだろ?」

 面倒臭そうに土方はそう言い放つと席を立つ。その反応に原田は目を丸くし、嫦娥は驚いたように土方を見上げた。

「便所」

 周りもまさかの土方の反応に唖然として彼を見送ったのだが、座敷を出て後ろ手で障子を土方が閉めた所でクスクスと小さな笑い声が聞こえ、彼は僅かに眉を上げる。

「嫦娥ちゃん振るなんてよぅやるわぁ、副長さん」
「しつけーんだよあの女。知るか」

 心底嫌そうな顔をした土方を眺め、その芸妓は瞳を細める。

「迦具夜ちゃん贔屓やったら、嫦娥ちゃん振るのも仕方ないとは思うんやけどね」
「関係あんのかよ」
「あるわよぅ。嫦娥ちゃんは迦具夜ちゃん目の敵にしとるし。まぁ、迦具夜ちゃんはあの性格やから関わらん様にってしとるけどねぇ」

 そしてその芸妓が話し出したのは、とある座敷での話。
 某有名プロデューサーに嫦娥を紹介しようとお大尽は宴を催したのだが、結局プロデューサーに気に入られ銘を貰ったのは、たまたま頼まれ代打で座敷に上がっていたフリーの芸妓・君菊。
 踊り、歌、三味線、全てにおいて江戸一番と謳われた嫦娥よりも三味線の腕が良いと、無名の芸妓は迦具夜姫の銘を得た。

「ずーっと根に持っとるんよ。迦具夜姫の名前貰えんかったの」
「つまんねー事を……」

 心底呆れた様な表情を土方が作ったので、妓女はおかしそうに口元を緩める。

「その上田舎から出てきたうちに歌姫の称号まで取り上げられて、嫦娥ちゃん心中穏やかやないんよ。まぁ、うちはまだ舐められてるんやけど、迦具夜ちゃんや君菊ちゃんには当たり強いんよ。最近は迦具夜ちゃんの太客にも粉かけてるみたいやし」
「そんなのアイツ喜ばせるだけじゃねぇの」

 そもそもカグヤは芸妓の仕事を余りやりたがらない。昔なじみの依頼と万事屋が干上がらないようにと言う理由で続けているだけで、昔なじみの客を引き取ってくれて、やめて良いのなら両手を上げてやめるだろうと思った土方がそう言うと、芸妓は声を上げて笑った。

「ほんまそれ。ちらっと迦具夜ちゃんにその話したら、いっそのこと全部引き受けてくれればいいのにとか言うとったわぁ。君菊ちゃんが微妙な顔しとったけど。でも最近君菊ちゃんに経験積ませるってちょこちょこ一曲だけの条件でお座敷出とるやろ?そろそろ引退考えてるんかなぁって言われとるんよ。ええ人見つかったんかなって」
「いい人がいようがいなかろうが、アイツは辞めたきゃ辞めるし、続けたきゃ続けるんじゃねぇの」
「……ええ人副長さんやないの?」
「手前ェには関係ねーだろ」
「あるわよぅ!!君菊ちゃん!!君菊ちゃんとも仲ええ??迦具夜ちゃん引退したら君菊ちゃんうちの協会来るように言ぅてくれん!?」

 怒涛の勢いで詰め寄られた土方は驚いて芸妓の顔を眺める。そして思い出したのは以前カグヤの引き抜きに来た組合だか協会だかの芸妓。

「手前ェあん時の芸妓か」
「覚えてへんかったん!?」
「仕事以外であんま人の顔覚えねぇんだよ。攘夷浪士は覚えてっけど」
「江戸の三美姫が一人・妲己ちゃんやで。覚えといて」
「多分忘れる」
「つれなぃぃぃぃぃぃ!!迦具夜ちゃん男見る目ないぃぃぃぃぃ!こんな男やめてずっと芸妓続けててほしぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」

 失礼な女だと思いながら土方は呆れたように妲己に視線を落とす。するとそっと障子が開いて中から若い芸妓が顔を出した。

「妲己姉さん。見廻組の佐々木さんがお呼びですけど……」
「はぁい。すぐ行くわぁ」
「手前ェ佐々木に贔屓にされてんのか」
「サブちゃんはメル友やねぇ。そもそもサブちゃんも迦具夜ちゃん贔屓にしとるんちゃうん?よぅ話聞かれるし……あ、もしかしてええ人ってサブちゃん?」
「ねぇよ」

 心底嫌そうな表情を土方がしたので、妲己は意地悪く笑うと小さく手を振りながら座敷へ戻っていった。おそらく佐々木の酌をするのだろう。
 とりあえず厠へ行った後にまた席に戻った土方は原田に声をかける。

「面倒臭ェの押し付けて悪かったな」
「それは良いんですけど……」

 まさか三美姫の相手を面倒臭いと雑に括るとは思わなかったのだろう原田は苦笑しながら土方に相槌を打った。
 ふと、座敷に視線を巡らせ佐々木の姿を土方は探したが彼の隣には誰も侍っていない。ポチポチと携帯をいじる姿は失礼極まりないのだが、周りはいつもの事だと言うように気に留めていない様子であるし、その佐々木の隣では信女が黙々と食事を取っている。
 そして視界に入ったのは順番に真選組の面々に酌をしてゆく妲己の姿。
 原田がそわそわとしているのに気が付き土方は顔を顰める。

「うっとーしい」
「何言ってるんですか!!歌姫ですよ!みんなのアイドル妲己ちゃんですよ!?」
「アイドルって何だよ」

 呆れたように土方は煙草の煙を吐き出すが、原田だけではなく他の幹部も熱く妲己の話をしだす。
 三美姫の中で一番若い歌姫。器量良し、愛想よし。人懐っこい雰囲気でハートを鷲掴み。高嶺の花である三美姫の中では抜群に親しみやすいと言うのだ。
 土方にしてみれば寧ろ親しみやすいというよりは馴れ馴れしいと感じたのだが、デレデレと妲己について語る面々の顔を見れば客捌きも上手いのだろうと感心する。
 寧ろ接客をほぼしないカグヤがよくもまぁ芸妓としてやっていけているもんだと土方は不思議に思う。

「妲己ちゃんが来ましたよぅ」

 甘ったるい声に満面の笑みを浮かべて酒を片手に妲己が言葉を放てば、土方の周りに集まっていた面々は我先にと酒をねだった。

「順番ですよぅ。副長さん、他の方先でええ?」
「俺はいい。そいつらにふるまってやってくれ」
「ほな遠慮なく」

 にこにこと笑顔を浮かべて酌をする妲己から興味が失せたのか土方は新しい煙草に火をつける。
 嫦娥の様にしつこく酒を勧めない所は悪くないなと思いながら土方は細く煙を吐き出したのだが、酌を終えた妲己が隣に座ったのでぎょっとした。

「もう終わったならどっか行けよ」
「副長さんには悪いねんけど、ちょっとおらして。ここええ席やねん」
「はぁ?」
「もう直ぐ迦具夜ちゃん来るやろ?ここやったらよぅ迦具夜ちゃん見えるし」
「アイツ今日座敷上がんのか」
「ほんま迦具夜ちゃんのお仕事に関心ないんやね。江戸三美姫が集まる座敷なんてレアやから、大枚はたいても来たがるお大尽も多いんやで?今日は松平様が迦具夜ちゃん引っ張ってきはったらしいけど……副長さんそっちからも聞いてへんかったん?」
「聞いてねぇな」
「なんでも真選組さんにお世話になったからとかで、一曲だけ弾きに来るんよ。楽しみやわぁ」

 満面の笑みを浮かべて喜ぶ妲己に対し、意外そうな顔を土方は向ける。嫦娥と迦具夜姫の折り合いの悪さは有名なようだが、妲己の立ち位置としては迦具夜姫寄りに見えたのだ。

「手前ェ座ってていいのかよ。三味線に合わせて歌わねぇの」
「……ほんま意地悪やねぇ副長さん。迦具夜ちゃんの三味線はそれ一本で聞くのが一番ええってよぅ知っとる癖に。踊りも歌も邪魔。あぁ、でも一回だけ合わせてくれた事あったんよ」

 原田に勧められた盃を素直に受けた妲己はうっとりとしたような表情を浮かべて昔話をする。
 それは田舎から出てきた小娘の話。
 踊りも三味線も人並み。けれど歌は抜群に上手かったその娘は直ぐに座敷に上がれるようになったのだが、いざ上がってみれば緊張の余り実力を発揮できなかった。
 失敗が続き、座敷に上がるのが怖いと震えていた小娘の背中を迦具夜姫は叩いたのだという。しゃんと背を伸ばせと。

「もっと元気よく歌いなさいよって言うんよ迦具夜ちゃん。そんで、今日だけは三味線合わせてあげるって」

 懐かしむような妲己の表情を眺めながら、アイツらしいと土方はぼんやりと考える。

「あの孤高の音が私の為に緩むんよ。最高に気持ち良かったわぁ。迦具夜ちゃんが私に合わせてくれたお陰でええ歌奏でられて、お大尽に気に入られて、あっという間に三美姫の仲間入り」

 ほぅっと艶っぽいため息を妲己がつけば、側にいた面々は思わず赤面する。そんな中土方は相変わらずの表情で口を開いた。

「そんで手前ェはアイツに入れ込んでんのか」
「……入れ込んどるよ。ほんま迦具夜ちゃんのお陰で漸く実力出せたって芸妓も多いし。弟子入り志願も多いんやけど、結局迦具夜ちゃんのお気に入りの芸妓は愛弟子の君菊ちゃんだけ。妬けるわぁ」

 実はその君菊うちの監察ですとも言えずに土方は思わず微妙な顔をする。それに気がついた妲己は瞳を細めて口元を歪めた。

「ほんま、迦具夜ちゃん独り占めとか腹立つわぁ」
「急に殺意向けんな。怖ェよ」

 何故カグヤに執着する人間はこんな奴ばかりなのかと土方はげんなりする。筆頭高杉、次点妲己及び佐々木で容赦なく殺意を向けられるこっちの身にもなって欲しいと心底嫌そうな顔を土方はした。
 そんな中。
 一同の注目を浴びてゆるゆると迦具夜姫が座敷へ入ってくる。側に侍るのは、愛弟子・君菊。休みだと聞いていたがこっちについてたのかと思わず土方が舌打ちをすると、妲己は目を丸くした。

「迦具夜ちゃんの座敷やで?嬉しないん?」
「別に。家でダラダラ弾いてる方が楽しそうだろアイツ」
「他所で言ぅたら刺されるで副長さん。迦具夜ちゃんの三味線聞きたくても聞けへん人多いんやから」

 呆れたような妲己の声に土方はそんなもんかと意外そうな顔をする。三味線教室を開いているのだから生徒になれば嫌というほど聞けるのではないかと思ったのだ。けれど妲己が言うには教えるために弾くのとは全然違うのだと怒ったように言い放たれ土方は困惑する。

 ニコリとも笑わず迦具夜姫は座敷の空気を一瞬で変えた。
 響く音は孤高の音色。
 それ一つで完成されたモノ。
 人の魂を彼岸へ送る静謐の美音。

 一曲終わり迦具夜姫が将軍へ深々と頭を下げれば拍手が沸き起こる。そして将軍に呼ばれた彼女は側へ寄っていった。

「相変わらずの音色だな」
「ありがとうございます」
「松平が無理を言った」
「いえ。真選組や松平様にはお世話になりましたので」

 小声で交わされる言葉は周りには聞こえない。けれど嫌そうな顔をカグヤがしていなかったので、将軍は安心したように表情を緩めた。

「……草履は買い替えた?将ちゃん」

 ささやく様なカグヤの声に将軍は僅かに瞳を見開いた後におかしそうに言葉を放つ。

「左右非対称はおしゃれの最先端だと妹が言うのでな。そのままにしてある」

 それにカグヤは少しだけ驚いたような表情を浮かべたが、その後控えめに笑った。
 そしてそのまま松平に軽く挨拶をしたカグヤが座敷から下がろうとしたので、慌てたように妲己が駆け寄る。

「迦具夜ちゃん。副長さん来とるで。挨拶ええん?」
「あらそうなの?別に話す事ないんだけど」
「えぇ?ほな君菊ちゃんちょっと貸してな。副長さん全然芸妓寄せ付けへんから空気悪いんよ。見てなあれ!!周りの真選組の人可哀想やん!!私は他回らなあかんし」

 拝むように小声でささやく妲己を眺めカグヤが困ったように眉を寄せたので、君菊は小さく頷いて了承した。

「君菊ちゃん!!好き!!」
「妲己さんは私の事ずるいずるい言うじゃないですか」
「迦具夜ちゃんの寵愛受けとるのはずるい!けど、君菊ちゃんの気配りできるところは好きなんよぅ」
「じゃぁ先に帰るわね」
「はい。お疲れ様です先生」
「あ、一人つけるから着替え手伝わせてな」
「いいわよ別に」
「君菊ちゃん借りるから交換」

 そう言うと妲己は側にいた芸妓に声をかける。そこまでされれば断るのも失礼かとカグヤは君菊ではなくその芸妓を連れて座敷を出ていった。
 そして満面の笑みを浮かべて妲己は土方のところへ戻る。

「君菊ちゃん連れてきたで」
「何でだよ」
「副長さんがそんな空気やったら他の芸妓が仕事しにくいんよぅ。ほな頼むで君菊ちゃん」
「はい」

 そして別の所へ酌をしに行く妲己の背中を眺め土方は、うるせぇ女、と呟いた。

「妲己さんは座敷全体見れるんで優秀ですよ」
「だろーな。三味線屋とは逆ベクトルだろ。つーか手前ェ何してんだよ」
「先生一人で行くって言ってたんですけど、流石に将軍様の座敷に上がるのには準備やらなんやら手間ですから。お手伝い申し出たんですよ」

 実際いつもより派手に着飾っていたので準備にも時間がかかった。髪結いや化粧も君菊が手伝ったのにも関わらずだ。
 そんな話を聞けば、土方は僅かに瞳を細めた。

「とっつあんが呼んだって聞いた」
「……まぁ、鬼兵隊の件、松平様に根回し頼んだりしましたからね。その辺り気にして引き受けたんだと思いますよ」

 囁く様に君菊が返事をすれば土方は反射的に顔を顰める。鬼兵隊狩りは言ってしまえば土方の私怨に近かった。カグヤを取り戻すための口実。それを彼女が気に病む必要などないと土方自身は思うのだが、カグヤはその性格から無視もできなかったのだろう。

「そう言えば嫦娥さん振ったんですって?」
「話早ェよ。手前ェいなかったろ」
「控え室に先生呼びに来た芸妓が言ってましたよ。手ひどく振ったって」
「話盛られ過ぎだろ。酌断っただけだよ」

 うんざりしたように土方が言えば君菊は咽喉で笑った。それにイラッとしたのか土方は煙草の煙を吐き出す。

「すみません。嫦娥さんちょっと先生につっかかるんで好きじゃないんですよ」
「女狐がそんな事言ってたな。手前ェも目ェつけられてるんじゃねぇの」
「ええ。毎度毎度副長さんがお酌断るのに腹が立つみたいで。師弟揃ってたらしこみが上手いと褒められましたよ」
「褒めてねぇだろそれ。つーか、毎回って程会ってねぇんじゃねぇか?」

 褒めてないのは承知で君菊は嫌味を受け流しているのだろう。しかしながら嫦娥の顔をはっきり覚えていない土方が首を傾げたので、君菊は呆れたような表情を作る。

「接待の座敷だと毎回嫦娥さんに狙い撃ちされてるじゃないですか」
「まじかよ」

 適当にあしらった芸妓の中の一人程度の認識であるのを察した君菊は、胡乱な表情をする。仲間内だけで飲むならば土方もそこそこ飲むのだが、接待系だと余り飲まない。近藤を気遣ってのことでもあるし、周りが羽目を外しすぎないように監視する意味もあると知ってはいたが、流石に三美姫が一人をその他大勢と一緒にしているとは思わず君菊も呆れる。

「気がついてなかったんですか」
「いちいち顔覚えてねぇよ。流石に図々しいから女狐は覚えたけどよ」
「あぁ、妲己さんにいじめられましたか」
「殺意向けられたわ。怖ェよ」
「先生強火担なんですよ」
「んだよそれ」

 少しだけ笑った土方が席を立ったので君菊は首を傾げる。

「ちょっと外す。手前ェも適当に切り上げて構わねぇよ」
「あ、それじゃ【仕事】してきます」

 ニコリと笑った君菊は、いそいそと幕府高官の席へ移動する。恐らく監察としての仕事もついでにしようと言う魂胆なのだろう。休みだというのに御苦労なこったと思いながら、土方はぶらぶらと座敷を出ていった。



 そして料亭の玄関。
 そこに見知った姿を見つけて土方は声をかけた。

「三味線屋」
「あら兄さん。接待はいいの?」
「よくはねぇけど、ずっといんのも怠い」

 息抜きだと言わんばかりの土方の様子にカグヤは苦笑すると小首を傾げた。

「悪かった」
「何が?」
「とっつあんに義理立てしたんだろ」
「……兄さんが気にすることじゃないわよ。一曲だけだしね」

 浅く笑ったカグヤを眺めて土方は瞳を細める。恐らくそう言うだろうとは予測していたのだ。けれどどうしても詫ておきたかったのは単なる自己満足だろうかとぼんやりと彼は考えた。
 派手な衣装は帰宅の為に既に着替えていたが、化粧は座敷用に派手なままである。元々顔の造形は綺麗な部類であろうが、更に洗練された美しさが見え隠れしており、確かに三美姫と謳われるのも納得だろう。
 残念なのは長い黒髪が今は短くなってしまった事だ。かの男が切り落とした髪は多少伸びたがそれでもまだ以前よりかなり短い。
 そんな事を考えながら、無意識に土方は手を伸ばしカグヤの髪を撫でた。

「荷物多いな。君菊いなくて大丈夫か」
「車よんでくれてるから大丈夫よ」
「そうか。気をつけて帰れ。また時間できたら寄る」
「はいはい。お仕事頑張ってね」

 笑ったカグヤに釣られて土方も思わず表情を緩めた。

***

「うっそまじで!?見たかった!!あの鬼の副長が迦具夜ちゃんに甘い顔してんの!?座敷では俺興味ねーしみたいな顔してたのに!?なんなんよぅあの男!!」

 控室で泣き崩れる妲己を慰めるようにカグヤの手伝いをした芸妓が彼女の背を優しく擦る。
 カグヤの荷物を抱えて玄関に彼女と一緒に立っていた芸妓は、その二人の短いやり取りをそのまま妲己に話したのだが、妲己の脳内では甘い会話に脚色されたらしい。
 そしてガバっと顔を上げると、退出の挨拶をしに来た君菊に詰め寄る。

「ほんま!!何なんあの男!!迦具夜ちゃんとラブラブやん!!座敷ではお互いに素通りなのに!!」
「私に言われましても……」

 本当に困ると言うように君菊は眉を下げる。というか、早く帰りたいのだがこの面倒臭い絡み方をしてくる妲己にほとほと困り果てていた。
 将軍様の座敷は一旦お開きとなり、一部お気に入りの芸妓を侍らせて飲み続ける者、河岸を変える者がいる中で、真選組は将軍護衛のために見廻組と一緒に引き上げていったのだ。
 そして芸妓達は松平からの心付けだと軽い食事を振る舞われている。

「あ、せや。君菊ちゃん。愛染香って知っとる?」

 急に話が変わったなと思いながら君菊は僅かに瞳を細めて考え込む仕草をする。

「ちょっと前に吉原で出回ったと万事屋さんが仰ってた気がしますけど……」

 気がするではなく、吉原で大量に出回った愛染香騒動に局長である近藤が巻き込まれ、真選組がその後始末を手伝ったのは君菊の記憶に新しい。自治が強い吉原主導だったので、一部隊士が吉原の外に愛染香が出回ってないか現在進行系で調査していると言った所だ。
 けれど妲己はその曖昧な君菊の返事に納得したのか小さく頷いた後に手招きをして呼び寄せたので、すすっと君菊は彼女に寄ってゆく。

「なんや、出回ってるらしいで」
「え!?でも、あれって……香を嗅いだ時に見た人を好きになるとかですよね?個室対応が基本の吉原ならともかく、芸妓相手にですか?」
「まぁ、大部屋仕事が多いけど、お大尽は個室にお気に入りの芸妓呼んだりするやろ?どうもそこで使われとるって話あるんよ。気ィつけてな」
「怖いですね。先生にも伝えておきます」

 わざと怯えた表情を作れば妲己も満足したのか頷いて君菊を解放してくれたので部屋を辞して君菊は息を吐き出した。
 まだ真選組に愛染香云々の報告は上がっていなかったが、妲己の話を聞いていた他の芸妓の表情を見るに、それなりに芸妓達の間で噂になっているのだろう。処分前に持ち出されたのか、あの騒動のどさくさで持ち出されたか。
 余計な仕事が増えると思わず君菊が顔を顰めると、突然声をかけられて顔を上げる。

「まだいたの」
「ええ。もう帰りますのでお気になさらず」

 思わず心の中で君菊が舌打ちをしたのは相手が嫦娥だったからだ。控室が狭く、組合、協会分かれて食事を取っていたのであの部屋に組合の芸妓である嫦娥はいなかった。これ幸いとカグヤへ人を貸してくれた妲己に礼だけ言って帰ろうと思っていたのだが、嫌な相手に見つかったとげんなりする。

「随分土方さんと仲がいいのね」
「そうですか?あの方いつもあんな感じでしょうに」

 座敷で土方の隣で相手をしていた時に君菊は彼女からの視線は感じていた。恐らく自分を手ひどく振った相手に侍っていたのが気に入らないのだろう。

「……よほど気に入られてるのね」
「しつこい女は好きじゃないそうですよ、副長さん」
「アンタはあの人にとってしょせん迦具夜姫のスペアでしょうに」

 だからいい気になるな。そんな空気を出してきた嫦娥に君菊は小さく笑って口を開いた。

「あの人にとって先生の代わりなんていませんよ。まぁ、私がおまけ程度なのは否定しませんけど」

 そのおまけ以下ですけどねアンタは、そんな事を考えながら君菊は踵を返すと真選組監察としての方向へ思考を切り替えた。

***

 そしてその後も君菊……真選組監察・山崎退は愛染香の噂を集め続けた。あの手の商品はご禁制なのもあり値が張る。攘夷浪士の資金源になっていればコトだと近藤や土方が考えたからだ。
 山崎以外の監察も探って入るのだが決定的なものは出てこず、ため息をつきながら彼は料亭の廊下を歩く。
 今日も今日とてお仕事である。
 君菊の格好をした山崎に芸妓は警戒心を抱かない。今日の座敷自体はカグヤの昔なじみの太客であるので彼らに探りをいれる必要はなく、寧ろ控室等での芸妓達の噂を拾うためにカグヤに同行したのだ。
 名目上は昔なじみへの弟子の紹介。こんな事をするから引退するのではないかと囁かれる訳なのだが、そんな中、是非弟子の一曲をと言われ山崎は控室に予備の三味線を取りに行ったのだ。普段なら半人前だからと断る所なのだが、カグヤのなじみ客なので小唄を一曲山崎はカグヤの許可を貰って引き受けた。
 多少失敗しても笑って許して貰えるうちに披露したほうが無難だと判断したのだ。余程気に入られない限りカグヤについている分には以降リクエストもされないだろうという打算もあった。

「失礼します」

 部屋に入った山崎の姿に、呉服問屋の大旦那は愛想よく笑い手招きをする。年の頃は還暦近く、店自体は息子である若旦那が継いでいるので隠居生活を満喫しているのだ。

「大丈夫?」
「はい。失敗しても流して下さいね」

 カグヤの囁きに苦笑しながら山崎は返事をして座布団に座り直したのだが、ふと、部屋を見回して顔色を変えた。
 まさか、そう思った瞬間に一気に部屋に広がった甘い香り。
 呉服問屋の番頭である男が芸妓と話をしながら香炉に放り込んだそれに気が付き、山崎は口元を着物の袖で覆うと立ち上がり、とりあえずそばにあった飲み物を香炉にぶちまけた。

「お前!!何すんだ!!」

 その後座布団で香炉に無理やり蓋をした山崎を番頭が怒鳴りつけて手を振り上げた。この態勢で避けるのは流石に無理かと山崎は急所を守るために香炉に覆いかぶさるように体を丸めたのだが、来るはずの衝撃はいつまでも来ない。

「……うちの子に何しようとしてんのさ」

 頭上から落ちてきた声に山崎が顔を上げると、番頭はカグヤに腕を捻り上げられ床に這いつくばっていた。
 何事だとバタバタと店の者や近くの部屋に侍っていた芸妓が駆けつけるが、山崎は慌てたように声を上げる。

「愛染香です!!部屋に入らないでください!!」
「店主!!手ぬぐいに水つけて口元覆って!!君菊ちゃんは大丈夫なん!?部屋換気できる!?」
「はい!!」

 指示を出したのは妲己。恐らく愛染香の事もよく知っていたのだろう、彼女も咄嗟に口元を覆い店の者に指示を出す。
 異様な空気に包まれた座敷で、山崎は座布団ごと香炉を庭に運び念の為にまたそれに水をかけた。そしてまた座布団を乗せると、ひょこっとカグヤが後ろから覗き込んできたので、慌てたように山崎は声を上げる。

「先生!念の為に香炉から離れてください」
「良く分かったわねぇ」
「……一回試してるんです。けど困ったな。愛断香の在庫まだないんじゃないかなぁ」

 愛染香が本物かどうか判断できるように監察の面々は一度試しているのだ。その後効果を打ち消す愛断香も直ぐに嗅いでいたので山崎は匂いを覚えていた。
 しかしながら吉原の一件の後、大量の被害者に愛断香を使ってしまったので、余り在庫がないと聞いており、一応吉原の方で、今後のためにと調香師に愛断香を生産してもらっているようだがあいにく真選組の在庫は監察が使った分で終わりだった。

「迦具夜ちゃん!!」

 悲鳴の様に妲己の声が響く。それに驚いて山崎とカグヤが振り返ると、男が真後ろに迫っており、慌てて山崎はカグヤの身体を引き寄せた。

「はぁ!?」

 そして恐ろしいことに、それは一人ではない。ゆらゆらと不自然な動きをする男たちが二人……否、カグヤに迫ってきていた。
 うわ言の用に迦具夜姫の名を呼ぶその様子に山崎は顔色を変える。
 あの部屋で、愛染香を焚かれた時に注目を浴びたカグヤ。男たちの後ろから部屋にいた芸妓までも迫ってきたので山崎は大声を上げた。

「部屋にいた人を拘束してください!!」

 言うやいなや、妲己が勢いよく駆けてきて男を蹴り飛ばした。それに山崎が唖然とした表情を向けると、彼女は店主から渡された濡れ手ぬぐいで己の口を覆い、カグヤと山崎にもそれを渡した。

 まだ座敷にいた面々は店のものが拘束し、庭に降りてきた面々は山崎、カグヤ、妲己が拘束する。とりあえず料亭の離れに被害者を隔離するという話を決めた所で妲己が声を上げた。

「これご禁制のアレやんな。通報せなあかんよね。真選組?見廻組?」

 そんな事聞かれてもわからないが、できれば早急にどちらでも良いから駆けつけて欲しいと言うように店主が眉を下げると山崎は携帯を取り出す。

「屯所が近いから真選組にしましょう。私が電話しますね」

 その方が山崎にとって都合がいいので真選組を推してさっさと電話をかける。
 そして直ぐに人を向かわせると同時に、吉原に愛断香の在庫がないか確認させるとも言われて、山崎はホッとしたような表情をした。



「……そんで離れに軟禁したのか」
「はい。男たちの方は迦具夜姫に合わせろって暴れるんで拘束してますけど、芸妓の方は……えっと……大変申し上げにくいのですが……」

 もにょもにょと言いにくそうにする山崎に土方は不思議そうな顔をする。
 とりあえず通報後直ぐに駆けつけたのだが、上手く山崎が仕切っていたので、店主にしばらく離れの方は借り受けるという話をつけて土方は山崎の報告を受けていた。まだ君菊の格好のままであるので、山崎はあくまで巻き込まれた芸妓の一人であり、事情を聞いているという形である。
 そしてたどり着いたのは芸妓たちが押し込まれている離れの一室。男たちが押し込まれている部屋の前には念の為に店の者が見張りを立てていたのだがこちらにはいないようだと土方は眉を上げた。

「大人しくしてんのか」
「えぇ。まぁ……えっと……先生が上手いことやってくれてるといいますかぁ……」

 はっきりしない言い分にイライラとしていた土方であるが、とりあえず見ればわかるかと障子を開けた。
 そして視界に入るはきらびやかなハーレムのような光景。

「迦具夜ちゃーん。もう一杯どう?」
「ありがと」

 しなだれかかる妲己からの酌を受けるとカグヤは淡く笑ってそれを受け、飲み干せば酌をした妲己の髪にくちづけを落とす。
 他の芸妓も我先にとカグヤへ酌をし、やさしくくちづけられれば喜びの悲鳴を上げたり瞳を潤ませたりとしなだれかかる。

「……オイ……」
「なんか……こう……すみません」

 何を見せられているのか。言葉もない土方の姿に思わず山崎は顔を覆う。無理矢理カグヤを手籠めにしようという男たちと違い、芸妓たちはその職業の影響かカグヤに侍る事を望んだのだ。カグヤが相手さえすればそれ以上はトラブルにならなかったので、山崎はカグヤに妓女の相手を頼み込んだ。

「おかえりハニー。ちゃんと芸妓の相手しといたわよ。ほめてほめて。あとご褒美も忘れないでね」
「……ハニー?」

 隣から聞こえるのは呑気なカグヤの声色とは真逆の絶対零度の声色。顔を見るのが怖いと、顔を覆ったまま山崎は声を絞り出した。

「愛染香の影響を先生も受けてまして……えっと……本当すみません。先生悪くないんです。でもおれ……私も悪くないんで殺さないで下さい」

 恐怖の余り思わず素が出そうになってしまった山崎であるが、何とか声を絞り出す。
 直ぐに口元を覆った山崎であったが、カグヤはそれをしなかった為に愛染香を吸ったのだ。そして彼女は可愛い弟子をハニーと呼ぶ様になってしまった。

「おい三味線屋。ご褒美って何だ」
「えー。ハニーにお酌してもらってー、膝枕してもらってー、抱き枕になって貰う」

 土方の冷ややかな声に元気よくカグヤが返事をしてしまったので、山崎は指先が冷えるのを感じて震える。なんの罰ゲームなのだろうか。
 そんなカグヤに視線を送りながら土方は煙草に火をつけると、ツカツカと彼女に歩み寄り、将軍さながら脇息にもたれ掛かり女を侍らすカグヤの前に膝をつくと彼女の顔を覗き込んだ。
 そしてフーっと煙草の煙をカグヤの顔に吹きかける。

「うわっ!!何すんのいきなり!!」
「何すんのじゃねぇよコノヤロー!!こっちの台詞だ!!手前ェよくもまぁ堂々と浮気宣言しやがって。はったおすぞ!!」

 咳き込んだカグヤを怒鳴りつける土方の姿に隣に侍っていた妲己は瞳を丸くした後に非難の声を上げる。

「弟子相手に心狭ない!?」
「うっせー女狐。手前ェ話聞いた感じじゃぜってー愛染香吸ってねぇだろ。何ドサクサに紛れて三味線屋に侍ってんだ!!」
「私も迦具夜ちゃんに侍りたいんよぅ!!ずるいやん!!」
「手前ェもはったおすぞ!!」

 やいのやいの言い合いを始めた土方と妲己を眺めカグヤは小さく首を傾げると口を開いた。

「兄さん君菊ちゃん相手に妬いてるの?」

 カグヤの声に土方は妲己との言い合いをやめて僅かに眉を上げる。

「心配しなくても、抱きしめて、甘やかして、守って、これからもずっと一緒に歩いていければきっと幸せなのかも知れないって思うのは、兄さんだけよ」

 突然のカグヤの発言に土方は言葉に詰まったが、妲己は面白くなさそうに口を尖らせた。しかし、カグヤの言葉は更に続く。

「でもね。違うの」
「何がだよ」
「君菊ちゃんを愛でたいというこの気持ちは、言うなれば心のチ◯コが囁くのよ!!」
「何が心のチ◯コだ!!そんなモンもぎ取っちまえ!!」
「可憐で儚げな美少女侍らせたいって男は夢見るもんでしょ!!」
「三十超えた奴捕まえて美少女もクソもあるか!!儚げっつーより薄らぼんやりしてんだろ!!」
「え!?君菊ちゃん三十超えてんの!?年上なの!?やだ……逆にテンション上がる……何でそんな若々しいの?ご褒美は君菊ちゃん一日観察とかにしたいんだけど……」

 大真面目に言い出したカグヤに当の本人である山崎は唖然としていたのだが、土方は片手でカグヤの顔を鷲掴みにした。

「待って。まって。痛い痛い。マジで痛い。頭割れる」
「……手前ェとっくに正気に戻ってんだろ……あんま調子のってっとこのまま頭割んぞ」
「うっそマジで!?何で気付いたの!?早くない!?」
「ハニー呼び直ってんだろ」
「ごめんってば。正気に戻ったら兄さんおっかない顔してるし、少し空気和ませようと……」
「俺の神経逆撫でするツボ丁寧に押して行きやがったくせに何が和ませようだ」

 漸く土方がカグヤから手を離したので、山崎はホッとした表情を浮かべて二人の所へ寄ってゆく。

「先生。良かった」
「心配かけてごめんね君菊ちゃん」
「いえ。ほんと……良かった……副長さんに殺されるかと……」

 顔を青ざめさせる山崎に土方は舌打ちをすると立ち上がる。

「芸妓の面倒みんのは仕方ねぇ。見逃してやっけど、女狐と君菊は事情聴取すっから回収する。程々にしとけよ」
「えぇ!?そんなん君菊ちゃんだけでええやん。もっと迦具夜ちゃんとお酒飲みたいぃ」
「いやもう……妲己さんはいいんじゃないですか。先生と一緒に芸妓の監視してもらえば……」

 実際妲己は途中から手伝っただけで事情聴取など山崎がいれば事足りる。が、カグヤに侍っているのが土方は気に入らないのだろう。
 それを察した山崎がさっさと仕事に戻ろうと言うように言葉を放つと、土方は心底嫌そうな顔をして山崎を連れて部屋を出た。


 そして漸く届けられた愛断香。
 君菊の格好から着替えた山崎はそれを抱えて被害者が拘束されている離れへと向かった。するとそこには土方が立っており、山崎に気がついた彼は不機嫌そうに視線を送る。

「届いたのか」
「はい。吉原在庫分全部買い上げて来たみたいですよ。それでも数は少ないんですけど、まぁ、今日の被害者はそんなに長くかがされてないんで足りるんじゃないですかね」
「手前ェも一応吸っとけ」
「アレ身体怠くなるんで嫌なんですよねぇ」

 そうなのか、と言うように土方が視線を送ると山崎は苦笑する。愛染香とは逆の作用を起こすせいか、恐らく脳への命令系統の混乱もあり身体が上手く動かなくなるのだ。たっぷり愛染香を吸わされた人間などは、中和されるまで酷ければ数日動けなくなった者もいたらしい。

「事情聴取は伸びるか」
「まぁ、これぐらいなら明日の朝には元気になるんじゃないですかね」

 そう言いながら山崎は持っていた香炉の一つに火をいれるともう片方を土方に差し出した。

「こっちは芸妓の部屋で焚いて下さい」
「あぁ」

 香炉を受け取った土方がうなづくと、山崎は念を押すように口を開いた。

「あ、離れのそばで煙草吸わないで下さいよ。香りが効力発揮しますから、混じって効果落ちても困るんで」
「それもそうだな。覚えとく」

 素直にうなづいた土方に安心したのか、山崎はそれじゃ、と短くいい部屋に入っていった。恐らく彼も香を抜くためにここに籠もるのだろう。
 どちらにしろ真選組の今日の仕事は現場検証も終わったので終いである。明日正気に戻った被害者の事情聴取でバタバタするだろうが、とりあえず大した被害がなくて良かったと土方は小さくため息をついた後に、カグヤのいる部屋へ向かった。


「全員酔い潰したのか」
「ハーレムプレイ飽きちゃったからさ」

 咽喉で笑うカグヤは手酌で酒を飲んでいる。他の芸妓は店主が厚意でかき集めてくれた毛布を被って部屋に転がっている状態であった。死屍累々にも見える。

「愛断香が届いた」
「吉原に在庫あったのね」
「多くはなかったみてぇだけどな」

 そう言いながら土方は香炉をカグヤの前に置くとそれに火を入れた。
 ふわりと漂う香りがゆるゆると部屋に広がってゆく。

「手前ェもしっかり吸っとけよ」

 土方の言葉にカグヤが大きく深呼吸をしたので、彼は目を丸くする。

「何で深呼吸なんだよ。香りが効くんだから鼻呼吸じゃねぇの?」
「あ、そうか。そりゃそうよね。ってあれ?鼻呼吸??どう……普段してるみたいなのってどんな感じ?」

 いざ意識してしまえば急にやり方がわからなくなるのはよくある話で、慌てたように口をはくはくさせるカグヤを眺めて土方は呆れたような表情をする。

「あせんな。過呼吸起こすぞ」
「いやまって……意識したらなんか急にやり方どうだっけみたいな……普通に息してりゃいいわよね??」

 そんなカグヤを眺めていた土方は、手を伸ばすと彼女の身体を引き寄せて背を落ち着かせるように撫でる。
 それに安心したのか、カグヤの呼吸が少し大人しくなった。鼻呼吸など余計なことを言わなければ良かったと思いながら土方はそのままカグヤにくちづける。
 突然の事にカグヤは驚いたように身体を離そうとしたが、頭を押さえつけられ深くくちづけされれば結局ゆるゆるとそれに応じた。

「……あんま手間かけさせんな」
「うん!バッチリ!!鼻呼吸大丈夫!!私実はめっちゃ上手かったの思い出した!!」
「煩ェよ」

 口を塞げば嫌でも鼻呼吸になる。方法は他にもあるだろうが。けれどカグヤが嫌そうな顔をしなかったので僅かに土方は瞳を緩める。

「身体怠くなるらしいから無理すんな」
「はぁい。兄さんも明日から事情聴取でしょ?早く帰って寝なさいよ」
「そーする。明日も来っから大人しくしとけよ。ハーレムプレイも終いだ」
「そうね。兄さんだけで十分だわ」

 カグヤの言葉に土方は驚いたような表情をすると少しだけ顔を背けて、そうかよ、と小さくこぼした。


愛染香三部作
202403 ハスマキ

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