*次はとりあえず連絡入れろ*

  天気予報は大当たりをし、昨晩からチラチラと降っていた雪は江戸を一面銀世界に変えた。 交通機関の遅延や、雪のせいで起きた事故などの処理を専門外だと言うのに手伝う羽目になった真選組は、漸く昼前に落ち着きを取り戻し、土方は大きくため息をつく。
「休み潰れたな」
 とりわけ予定があった訳ではないが、何気なく呟いた言葉を近藤が拾い、驚いたように顔を上げる。
「トシ休みだっけ?」
「別に構わねぇよ。突発的な事だし」
 滅多に大雪などに見舞われない都市部でたとえ天気予報が雪を予告していても、人々は実際にそれを目の当たりにするまでのんきに構えていることも多い。実際土方も処理を手伝わされるまでは、明日には誰かに屯所前を雪かきさせようと呑気に考えていたのだ。
「折角だしこっちもういいよ?大体収まってるし……」
 申し訳無さそうな近藤の表情を見て、土方は僅かに瞳を細めると、カレンダーを眺めて小さくため息をついた。
「そんじゃ休むわ。別に行くとこねぇんだけどよ」
「すまなんだ」
 そんなやり取りをした後、土方はほてほてと己の部屋に戻ると私服に着替える。制服のまま屯所を歩いていると、仕事なのかと周りが気を使うことが多いのだ。住んでいるのだから仕方ないとはいえ、それも他の隊士に申し訳ない。そう考え、土方はちらりと時計を見る。時刻はまだ昼には届かない。

 寝ていようかとも思ったが、結局土方はブラブラと屯所を出ることにした。夜ならばともかく、昼間の屯所はなんやかんやで慌ただしく落ち着かないし、余計な口を挟んでしまいそうな気もしたのだ。だからといって土方は特別に行くあてもなかった訳で、そうなると、自然に三味線屋の家に足が向いた。雪かきを手伝ってやろうか。そんな事を思いついたのだ。
 しかしながら、いざ三味線屋に到着すると、家の前の雪かきは完了しており、土方は僅かに眉を寄せる。どちらかと言えば早起きの彼女が既にせっせと作業を終えてしまったんだろう。もしくは、万事屋に頼んだのか。面白くなさそうに表情を歪めると、土方はそのまま裏の勝手口の方へ回り込んだ。そして、いつもの様に勝手口の扉を開けようとすると、突然上から雪の塊が降ってきて、驚いて上に視線を向ける。
 幸い位置はずれており、頭から雪の塊をかぶるという事故は避けられたが、日が出てきて屋根の雪が溶けたのだろうかと、二、三歩下がって屋根を見上げると、そこにチラチラと人影が見えて、土方は思わず声を上げた。
「おまッ!何やってんだ!」
「おやまぁ。もしかして雪当たった?ごめんね」
「当たってねぇけど……つーか、降りろ!今直ぐ!」
「いや、あと少しなんだけど……」
 不服そうな声を上げたのは家主である三味線屋・カグヤ。よくよく足元を見ると、屋根の雪を下ろしたのか、勝手口の前以外は他より雪が積まれている。土方はそれでも再度声を大きくして彼女に、降りろ!と言葉を放った。
「はいはい。これでおしまい」
 どさっと土方より離れた場所に雪を一気に下ろしたカグヤは、その雪の上にぽいっと雪かき用の道具を放り投げると、立てかけてあったはしごをするすると降りてきた。元々屋根で雪見酒をするために彼女が常備しているハシゴなのだが、この時ばかりは土方もへし折っておけば良かったと一寸後悔する。
 降りてきたカグヤは、先に放り投げた雪かき道具を回収すると、土方に向かって声を放つ。
「どーしたのさ。今日お休み?」
「おう。つーか、何で屋根に登ってんだ。ニュースとかで落っこちたとか見たことあんだろ?」
 不服そうな土方の顔に、カグヤは困ったように笑うと、けどねぇ、と言葉を放つ。
「屋根の雪が落ちてきて怪我したーとか言われても困るじゃない」
「ぼんやり歩いてる方が悪いだろ」
「まぁ、その道理が通じない事もあるしね。中はいる?」
「入る」
 いい加減寒くなってきた土方は、不服そうな顔を崩すことなく彼女の後について家に入る。暖房器具などはついていなかったが、風がない分外よりは暖かいし、文明の利器コタツが部屋には設置されている。背中を丸めながら土方がコタツに入ると、彼女は笑って、汗を流してくる、と部屋を出て行った。表の雪かきも完了していたし、屋根の上までというと重労働だっただろう。風邪でもひかれたら敵わないと思い、土方は小さく頷く。
 暫くはぼんやりとコタツで体を暖めていた土方であったが、体が暖まって来ると台所に移動をしてコンロにヤカンをかけ、煙草に火をつける。
 何気なく眺めた台所のカレンダーには所々仕事の予定は入っているようだが、余り多くない。そんな中、見慣れない単語を見つけて、土方は僅かに瞳を細めた。
「吉原?」
 吉原桃源郷。治外法権のあの土地に何の用があるのだろうか。土方自体は余り吉原には私用でも出入りはしない。たまに屯所の人間や接待で連れて行かれることもあるが、あの街は余り好きではなくさっさと帰ってきてしまうことも多いのだ。
 ヤカンが沸騰を知らせる音を立てたので、慌てて火を止めると、土方は茶葉を出し、二人分のお茶を淹れる。
「あら、お茶淹れてくれたの?ありがと」
 髪を拭きながらカグヤがほてほてと歩いてきたので、土方はカレンダーの事を忘れて、おう、と短く呟き、一緒にコタツに戻っていった。
 湯呑みを持つ指先がじんわりと温まり、土方は満足そうにお茶をちびちびと飲む。酒もそうであるが、カグヤは茶葉も比較的良い物を選んで使っている。もっとも、淹れる土方が適当に淹れているのでこの茶葉本来の味では無いのかもしれない。
「……屋根の雪かきだけどよ」
「うん」
「万事屋辺りに頼めよ」
 その言葉にカグヤは笑うと、そうしたかったんだけどねー、と言葉を放った。
「うち以外にも一杯依頼来てたみたいでさ。朝から大忙しよ、銀さんの所」
 それなら他所でお金を稼がせたほうがいいだろうし、今後の仕事につながるだろうとカグヤは遠慮をしたのだ。無論その道理は理解できないでもないが、結局自分でやってしまうカグヤに若干腹を立て、土方は眉を寄せる。
「ピザ屋は?」
「今日は皆家から出ないから、配達業忙しいみたいよ」
 そして、当然山崎も朝から……と言うよりは、ほんの数時間前まで土方と一緒にあちこち飛び回っていた訳で、使えるはずがない。
「……屋根は危ないから一人で登んなって前に言った気がすっけど」
「非常時に細かいこと言わないの。でも、心配してくれてありがと。兄さん来るの解ってたら一人でやんなかったわ」
 その言い方はずるいと思いながら、土方はカグヤをちらりと眺める。二人なら落ちても、まぁ怪我はするかもしれないが、直ぐに助けも呼べる。けれど一人だと誰にも気づかれずにそのままと言う危険もあるのだ。現にそんな事故も起きていた。
「真選組がさ、朝からあっちこっちで走り回ってたし、忙しいかなって」
「まぁ、さっきまで忙しかったんだけどよ。……まぁ、なんだ。次はとりあえず連絡入れろ」
「はいはい」
 笑いながらそう返事をしたカグヤを眺め、土方はへの字に口元を歪めた。どこまで真剣に取っているのか彼女は非常に解りにくいのだ。けれど、これ以上終わったことを言っても仕方ないと、土方はお茶を飲み干し背中を丸める。
 何をする訳でもなく時間が流れ、土方は次第にうとうとしてくる。昨日の晩からさっきまで走り回っており、余り寝ていない上にコタツの魔力に絡め取られそうになったのだ。それに気がついたカグヤは、瞳を細めて笑うと、布団しこうか?と首を傾げて聞く。
「いや、自分でやるわ」
 のそのそとコタツから這い出し、土方はカグヤの私室に行くと、布団を出してそこに丸くなる。そしてぼんやりとしていると、隣の部屋から三味線の音が聞こえてきて、土方は瞳を閉じた。


 そう言えば結局昼食は食べなかった。そんな事を思い出し、土方はぬくぬくとした幸せな布団から体を起こし時計に視線を送る。気がつけばもう夕方で、一応携帯を確認するが着信もなかったようである。安心したのもつかの間、突然襖が開き、驚いて視線を送ると、そこには驚いたような顔をした万事屋が立っており、思わず土方は言葉を失う。
「カグヤちゃん!もう起きてるわ!」
「何で手前ェがここにいんだよ」
「それはこっちの台詞ですぅ。っていうか、何なの、ここ多串くんの家なの?カグヤちゃんの布団で夕方までぐっすりとか、どんだけ図々しいんですか、コノヤロー」
 むっとした土方は、手元にあった枕を銀時に投げつけるが、彼はニヤニヤと笑ってそれを受け止め、投げ返す。
「夕飯出来たってよ」
「うっせーよ」
 銀時の言葉に土方は不機嫌そうに返答をすると、布団から這い出した。
 和室に戻るとそこには既に鍋の準備がしてあり、土方は定位置に座ると煙草に火をつける。そして銀時に視線を送り言葉を放った。
「手前ェも一緒かよ」
「鍋の具材俺が買ってきたんですけど。お金はカグヤちゃんだけど。まぁ、あれ。雪かき断っちまったしな」
 最後の言葉は若干申し訳なさそうに銀時が言うので結局土方は黙る。
「外に出るのどうしようかな〜って思ってた所に電話来て助かったわ銀さん。おつかいありがと」
 ザルにたんまりと海鮮を乗せて戻ってきたカグヤを眺め、土方は、そうか、と短く呟く。鍋を選んだのは一人だと余り出来ないからだろう。銀時ではなく山崎がいる時も良くカグヤは鍋を選ぶ。
「雪かき断って悪かったな、カグヤちゃん」
「仕方ないわよ。稼ぎどきだし。具材投入ー!」
 機嫌良さそうにカグヤが具材を投入するのを眺めながら、土方は煙草の煙を吐き出した。ワクワクとしたように蓋を閉め、煮えるのを待つカグヤを眺め、土方は口を開く。
「つーか、入れすぎだろ」
「いいのいいの。一杯あったほうが嬉しいじゃない?まぁ、海鮮系って好きなんだけど、殻剥き多くて言うほどお腹膨れないじゃない」
 確かに、カニやらエビは食べるところが案外少なかったりする。そう考えれば、何やかんやでアレぐらい三人で平らげるのも問題ないだろう。そう思い直し土方は、カグヤの持ってきた酒に口をつける。
「結局一日なんもしなかった気がする」
「嫌味ですかコノヤロー!銀さん働き詰めだったんですけど!公務員は羨ましいなー」
「普段手前ェは働いてねぇだろ。今日は休みだ」
 そんなやり取りを見て、カグヤは笑うと、私もなんにもしなかったわー、と酒を煽った。
「……っていうか、多串君はここに来て昼寝してただけ?なんで?」
「何でって……いっつもそんなもんだよ。飯食うとか、昼寝するとか」
 何故銀時がそんな事を言い出したのか理解出来ないと言うような顔をして土方が返答をすると、銀時は可哀想な子供を見るような目を土方に向ける。
「言いたかないけど、多串君。あんま健全じゃないんじゃね?そこまでストイックだと逆に不健全だよ?」
「はぁ!?何でそうなんだよ!意味分かんねーよ!」
「いやいや、だって。何なの。その熟年夫婦みたいな関係。こう、もっとラブラブすりゃぁいいじゃねぇの。もったいない」
 そう言われ、土方は思わず顔を赤くするが、直ぐに、不機嫌そうに眉を寄せ、もったいないってなんだよ、と言葉を放つ。
「若いのって一瞬だしさ。いざ張り切ろうと思ったら、もう暴れん坊将軍が御隠居様になってる恐れもだな……」
「アホか!つーか、なんつー話を飯時にすんだよ!」
「いや、ほら、ジミーも心配してたし、誰か言ってやんなきゃと思ってさ」
 大真面目に言う銀時に、目の前の鍋を頭からぶっかけたいと思いながら、土方は煙草をもみ消す。
「……で、山崎が何だって?」
 ぎろりと睨まれ、銀時は、しまった、と言うように視線を逸らし小声で言葉を呟く。
「ほら。年がら年中グダグダしてるって……ジミーが言ってたというか、なんというか」
「まぁ、本当の事だしねー」
 咽喉で笑いながらカグヤが相槌を打ったので、土方はむっとしたように顔を顰めてまた煙草に火をつけた。

「大体、何で手前ェにあれこれ指図されなきゃなんねぇんだよ!手前ェは三味線屋のオカンか!」
「いやいやいやいやー。っていうか、カグヤちゃん、助けて」
「知らない」
 スタートがいけなかったのか、いつもより速いペースで飲んでいた土方が、突然銀時に絡みだしたので、銀時は心底嫌そうな顔をして助けを求める。一方カグヤはエビの殻を剥くのに忙しいのか、あっさりと銀時を見捨てた。
「カグヤちゃーん」
「余計なこと言うからじゃないのさ」
「……いや、ちょっとからかっただけだし。悪気なかったし」
「聞いてんのか!!!」
「はい!聞いてます!聞いてるから落ち着いてね、多串君!」
 いきなり怒られ、慌てて銀時が返事をすると、土方は満足そうに、笑って口を開く。
「つーか、オカンなのか?実際」
「何で俺がカグヤちゃんのオカンなの!オトン誰よ!もう、酔っぱらいウザい!ツッコミ疲れた!新八君呼んでぇぇぇ!」
 恐らく自分でも何を言ってるのか分かってないだろう、土方と、悲鳴を上げる銀時を眺め、カグヤは笑い出す。
「兄さん。そん位にしときなさいよ」
「つーかさ」
 漸く自分からカグヤに土方の矛先が向いたので、ホッとしたような顔を銀時がするが、カグヤは、なぁに?とエビを剥きながら返事をする。
「何で手間ェ、俺の事【兄さん】って呼ぶんだ?おかしくね?俺お前の兄貴じゃねぇし」
「いや、別にお兄ちゃんだから兄さんって呼んでんじゃなくて、ちょいとそこのシャチョウさん、とかノリ何じゃね?」
 思わず冷静に突っ込んでしまった銀時は、直ぐにしまった、と言うような顔をしたが、土方はカグヤを眺めたまま、返事を待っている。
「初めは名前知らなかったしねぇ」
「今は知ってんだろ?」
 飲み屋で会って、暫くするまではお互いの名前も知らなかったので、別に【兄さん】と呼ばれるのも気にならなかったのだ。だが、付き合いが長くなると、自分以外は殆どあだ名のようなモノを付けられて呼んでいることに気がついて、少し気にはなっていた。銀時なら、銀さん。全蔵なら、全さん。山崎は、ザキさん。今考えればそんな中、高杉だけは晋兄と呼んでいたので、彼女は彼女で高杉のことは兄として別枠だったのだろう。
「知ってるわよ。けどねぇ。兄さんの名前って、どこ切ってもゴロが悪くてさ」
「ゴロ?」
 土方も驚いたような顔をしたが、銀時も不思議そうな顔をする。
「ヒジカタトウシロウ。ヅラっち並に難しいと思わない?」
 基本どこか二文字をとってアダ名をつけるという彼女のルールに則るなら確かにどこで切っても微妙といえば微妙である。
「辛うじてシロさんかしらねー。犬みたいだけど。で、悩んでるうちに、ま、いいかって」
「良くねぇよ!つーか、トシでいいだろ!」
 そう言い放った土方を眺め、カグヤは心底驚いたような顔を向ける。逆に土方が、何でそこで驚くんだよ、とびっくりしたように聞き返す。
「え?いや、だって。【トシ】って呼んで良いの局長さんだけじゃないの?」
「はぁ?いや、とっつあんとかも呼んでっけど。つーか、そんなデマ誰に聞いたんだよ」
「銀さん」
「手間ェかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「いやいやいや!!!!!言ってたじゃん!お通ちゃんの一日署長の時に!」
 銀時の胸ぐらを掴んだ土方であったが、彼の言葉に、はたっと動きを止める。
「言ったっけか?」
「俺が【トシ】って呼んだら、馴れ馴れしく呼ぶな!そう呼んでいいのは近藤さんだけだ!って」
 言ったような、言わないような。そんな事を考えながら、土方は余り回らない頭で記憶を掘り起こす。結果。思い出せず、不機嫌そうに銀時の胸ぐらを離した。
「忘れた」
「ちょ!!!俺が悪者じゃん!!!!思い出してよ多串君!!!!!!!」
 恐らく、銀時が馴れ馴れしく呼んだのが気に入らなくて、売り言葉に買い言葉だったのだろうと言うのは安易に想像がついたが、あっさり忘れた、と言い切ったのが可笑しくて、カグヤは瞳を細めた笑った。
「呼んで良いの?」
「好きにしろよ。そんな大層なもんじゃねぇし」
 ストンと座った土方がまた酒を舐めたので、カグヤは笑いながら苦労して剥いたエビを土方に差し出して言葉を放った。
「トシさん、はい、あーん」
 余りにも予想外なカグヤの行動に、土方は固まる。
「要らない?もうちょっと上手に剥ければ良かったんだけど」
 酒のせいだけでは無いだろう、みるみる顔を赤くする土方を眺めながらカグヤが言うと、銀時は辛抱たまらず吹き出した。
「手前ェ!何爆笑してんだ!」
「いや、だって。アダ名無いの拗ねてたくせに、呼ばれたら呼ばれたで恥ずかしかったとか……ちょ……プッ……無理!腹痛ェ!!!」
 ゲラゲラ笑い出した銀時を眺め、カグヤは呆れたような顔をすると、差し出したエビを自分の口に放りこみ、次の具材を選びながら言葉を零す。
「兄さんだって私の名前呼ばないじゃないのさ。おあいこって事にしときましょうか」
「……おう。カニでいいか?」
「そうね、ありがとう」
 鍋からカニを取り出し、土方が剥いてやると、カグヤは満足そうにそれを口に放り込む。漸く笑いが収まった銀時は、呼吸を整えながら体を起こし酒を舐める。
「そう言えば確かに三味線屋ーって呼んでるな。もうアレ、カグヤちゃんって呼べば?」
「うっせぇよ。何でちゃん付けなんだよ」
「じゃぁ、姫さんだっけ?アレにしとく?」
「アレこそ意味わかんねぇよ」
 全蔵だけが呼ぶ呼び名を出され、土方は不機嫌そうに眉を寄せた。元はといえば迦具夜姫という座敷での名前から取ったのだと言うが、あの呼び名は土方も横で聞いていて慣れない。山崎の先生呼びは、師弟であることを考えれば別に気にもならないが、姫さん呼びだけは、今後も慣れることはないだろう。
「姫ってガラじゃねぇだろ」
「言ったんだけどねー。まぁ、呼びたきゃ好きに呼べばいいし。兄さんも好きな様にしていいのよ」
 結局兄さん呼びに戻った。そんな事を考えながら、土方はカニの殻を黙々と剥きだした。


 三味線の音が鼓膜を揺すって、土方はうっすらと瞳を開ける。壁にもたれかかって三味線を弾くカグヤの姿を視界に捉えて、億劫そうに体を起こした。
「万事屋は?」
「さっき帰ったわよ」
「そうか」
「酔は醒めた?」
 そう言われ、土方は少し黙り込んだ後に、枕にしていた座布団に顔を埋めた。その様子を見て、カグヤは咽喉で笑うと、三味線の弦を指で弾く。短い小唄が終わり、カグヤは三味線を置くと、土方の枕元に移動して彼の髪を撫でる。
「……悪ぃ。なんつーか、色々莫迦な事言った気がする」
「トシさん」
 そう呼ばれ、土方は顔を上げたが、結局直ぐに視線を逸らして突っ伏した。
「からかってんだろ」
「どうかしらね」
 瞳を細めて笑ったカグヤ。それを気配で感じて、土方は心の中で、数時間前の自分を絞め殺したいと心底思った。ずっと呼び名の事は気にはなっていたが、元を正せばつまらないヤキモチだ。そもそも、自分だって彼女の名を呼んだことはない。なのに一方的に駄々をこねたのだ。
「ちゃんと名前で呼んだことねぇのは俺も一緒だしな。悪かった」
「呼ばれたことあるわよ」
「は?」
 驚いて土方が顔をあげると、カグヤは、一回だけだけどね、と笑った。
「そうだっけ?」
「そうよ。カグヤって呼んでた」
 それはいつだったのか。思い出せなくて土方は、また申し訳なさそうに言葉を零す。
「悪ぃ」
「いや。別に呼び名とかそんな拘るほうじゃないからいいわよ。でも、兄さんがトシさんって呼ばれたほうが嬉しいんだったら、そうするけど。どうする?」
 カグヤの言葉に土方は暫く考え込んだ後、恐る恐ると言うように口を開いた。
「なんつーか。慣れねぇから……徐々に慣らす方向で」
「はいはい」
 たかが呼び方位で何でこんなに焦んなきゃなんねーんだよ!と心のなかで己に突っ込みながら、土方は仰向けに転がってカグヤの顔を眺める。とりわけ嫌そうな顔をしていないのに若干ホッとしたのに気がついて、思わず苦笑した。
「どうしたの?」
「いや。なんつーか、我ながら莫迦だと思って」
 そんな土方を見下ろして、カグヤはまた彼の髪を優しく撫でた。


全編通して一回だけとか……
20130301 ハスマキ

 

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