*厭だって言えよ*

 三味線の稽古が終わって、暇つぶしにと外に出たカグヤは街の様子が少し違うのに気が付き辺りを見回した。いつもは殺風景な商店街へ伸びる道に、色とりどりの飾りが施されていたのだ。ベースの色は橙色と黒色。それに気がついたカグヤは、納得したように小さく頷くと瞳を細めた。
 ハロウィンという異国のイベントが行われいているのを理解したのだ。ここ数年爆発的に流行しているこのイベント自体はカグヤも知っている。菓子か悪戯かと聞かれたことも過去にある。ただ、カグヤ自体が積極的に参加したことはなく、綺麗な飾りや仮装を眺めるだけに留まっていたのだ。
 今回は商店街が去年に引き続きイベントを行っているのだろうと思ったカグヤは、折角だと思い商店街の方へ足を運んだ。
 週末限定イベントの告知ポスターの前で足を止めたカグヤは、それをしげしげと眺めると、小さな店へ入り飴玉をいくつか購入した。仮装して買い物をすると値引きになるとか、写真を撮影等のイベントが盛りだくさんで、よく見れば、子供などがマントを付けて走り回っている姿も確認出来た。誰かに悪戯をされては困ると菓子を購入したカグヤの判断は決して間違ってはいない。露店のような店には、子供の好む菓子などが並んでいるのを考えると、そのような交流が現在商店街の中では推奨されているのだろう。
 子供の知人は少ないが、子供のような知人が多いカグヤは、飴玉を巾着に詰めると、商店街の中をブラブラと歩くことにした。

 そんな中、一人の男がカグヤの目の前で盛大に転び、彼女は驚いてその男に視線を送った。その男を素通りする通行人も多く、誰も注意を払わないのに彼女はため息をついて男のもとへ歩み寄った。
「大丈夫?」
 男は驚いたように顔を上げると、笑ったとも怒ったとも判断しがたい微妙な表情で彼女を見上げ、小さく頷いた。
「……鼻緒、直そうか?」
 そう彼女が言ったのは、男が履いている草履の鼻緒が切れていたからだ。恐らくこのせいで彼は転んだのだろう。お節介かとも思ったが、鼻緒が切れたことに気がついた男が途方に暮れたような顔をしたので、カグヤはさらに言葉を続けた。
「自分で直せる?」
「……いや、頼んでも構わないか?」
 遠慮がちにそう言った男は、立ち上がると辺りを見回す。座るところでも探しているのだろうかと思ったカグヤは、少しだけ肩を竦めると、少しだけそれで我慢して歩ける?と確認した。運悪く週末で人が多く、座ってゆっくり鼻緒を直すような場所は見当たらなかったのだ。すると、男が酷く生真面目そうに頷いたので、彼女はゆっくりでいいからね、と言い歩き出した。幸い己の家は視界に入る程度の距離であるし、この程度なら大丈夫だろうと判断したのだ。
「はい、お疲れ様」
 家の前に立ったカグヤはそう言うと、正面玄関をガラガラと開けて男を招き入れた。
「そこに座って」
 玄関に男を座らせると、カグヤは奥に引込み、水の入った桶と、手ぬぐいを持ってきた。それに男が怪訝そうな顔をしたのでカグヤは苦笑すると、それを男の隣に置く。
「鼻緒直してる間に、体の泥落としておきなさい。すりむいてるなら手当してあげるから」
 そう云われ、男は初めて己の腕や足に泥が付いているのに気が付き、慌てて立ち上がると手で着物についた泥を払い、その後にそっと己の膝や肘を確認した。膝には泥はついていないが、少し血が滲んでいる。むしろ、転んだ時に手を付いたせいで、手の方があちこちすりむいていたようで、男は手ぬぐいを水で濡らすと丁寧に肌についた血や泥を落とした。
 暫くはそれをカグヤは眺めていたが、鼻緒の修理に取り掛かった。手ぬぐいの端を咥えるとそれを裂き鼻緒の代わりにする。草履を鼻歌を歌いながら直すカグヤの姿に、男は興味をそそられたのか、手を止めてそれを眺めた。
「鼻緒直すの珍しい?」
「初めて見た」
 そう正直に答えた男に、カグヤは、淡く微笑むと口を開く。
「イイトコの子なのね。鼻緒切れたら買い換えちゃうの?」
 頷いた男は泥のついた手ぬぐいをぎこちない手つきで洗うと、絞って桶の横へ置いた。それを確認したカグヤは、傍にあった救急箱を手元に寄せると、手当先にしようか、と言う。恐らく男がじっくり鼻緒を直すのを見たいだろうと思ってのことである。
「派手に転んだ割には大した事なくて良かったわね」
 手当をしながらカグヤが言うと、男は小さく頷き、素直にカグヤの手当を受ける。手当と言っても消毒をして、着物に血がつかないように保護するだけであるが、緊張した様子でカグヤを見る男の姿に、彼女は口元を緩める。
「家に帰ったらちゃんと手当して貰いなさい。二、三日で治ると思うけど」
「わかった」
 言葉少なく頷く姿にカグヤは満足したのか、手当を終えて鼻緒の修理に戻った。修理と言っても、切れた鼻緒の代わりに手ぬぐいの切れ端でとめるだけである。無事な方の草履を眺めながら、カグヤは鼻緒の止め方を調整する。
「まぁ、家に帰るまではもつと思うけど。色が違うから、不恰好だし新しいの買うといいわよ」
 カグヤが差し出した草履を一度男は履いてみて、狭い玄関の中を歩きまわる。どうやら不都合はなさそうだと判断したカグヤは、瞳を細めると、桶を持って立ち上がった。
「助かった。……名前を聞いてもいいか?改めて礼をしたい」
「別に礼なんかいらないけどさ。人に名前を聞くときは自分から先に名乗るもんよ」
 そう言ったカグヤの顔を眺めた男は、視線を少し彷徨わせた後に、口を開いた。
「将ちゃんと呼ばれている」
「そう。私はタチバナカグヤ。仕事は【迦具夜姫】って名前でしてるけど。お茶入れてあげるから待っててね、将ちゃん」
 奇怪な名乗り方をしたのを気にした様子もなくカグヤが桶を持って奥に引っ込んだので男は安心したように小さくため息をついた。彼女が【迦具夜姫】であるのは、家の軒下の小さな看板をみて確信はしていた。江戸一番の三味線弾きと言われている彼女と偶然会ったのには驚いたが、こうやって世話になると思わなかった。以前に会った時は、ほんとうに三味線を聞いただけであったのだ。会話らしい会話もなく、三味線の感想を述べた時に、少しだけ彼女は瞳を細めて笑っただけだった。無口なのかと思っていたが、こうやって再会した彼女はよく喋った。
 カグヤが茶を持って戻って来るとほぼ同時に、男の座っている正面玄関から真逆の勝手口が開き、彼女は呆れたような顔をして入ってきた男に言葉を零した。
「どーしたのさ兄さん。制服って事は仕事中?」
「あぁ、悪ィ三味線屋。ちょっと聞きてぇ事があって……」
 そこまで言葉を放った土方であったが、正面玄関に座る男の姿を見て言葉を失う。
「真選組の土方か」
「あら、将ちゃん知り合い?」
 男の言葉にカグヤが首を傾げると、彼は立ち上がり頷く。
「申し訳ないが少し場所を貸して貰えないだろうか」
「そりゃ構わないけどさ。そんじゃ座敷使いなさいよ」
 促されるまま男は座敷に上がると、立ちすくんだままの土方に視線を送った。
「そんじゃ、このお茶飲んでいいわよ。私は向こういるから終わったらよんで」
 自分の分と、男の分で合ったであろう茶を卓の上に置くと、カグヤは座敷に置いてあった三味線を一つ抱えて部屋を出て行った。それを見送った男は、土方に座るように促す。
「……上様」
「手間をかけさせたな」
 男……将軍は土方の言葉に頷き言葉を放った。
 そもそも事の発端は毎度のことながら松平であった。ハロゥインイベントで賑やかな城下を見せようと、将軍を連れだしたまではよかったが、どこぞではぐれてしまったのだ。飽きればいつものキャバクラに将軍が顔を出すだろうと言いながらも、松平は念のために真選組に将軍を探すように命じたのだ。
 勝手な命令に腹を立てながらも、将軍をほうっておくわけにも行かず、内密に将軍を探していた土方は、将軍らしき人間をカグヤが連れて歩いていたいたという話を聞いて念のために顔を出したのだ。
 まさかとは思った。元攘夷志士であるカグヤが将軍に対して好意を持っていないのも承知していたし、無理やり三味線を弾かせたこともあったのだ。
「彼女とは知己なのか?」
「えぇ、まぁ」
 将軍の言葉に曖昧に土方が返答をすると、将軍はカグヤの家に来た経緯を話し始めた。それを聞いた土方は、彼女らしいと思いながらも、彼女が将軍だと気がつかなかった事に疑問をもつ。
「……上様。三味線屋に将軍だと名乗られていないのですか?」
「将ちゃんと名乗った。萎縮されても困る。座敷で会ったと言っても短い時間だ。覚えていなくても仕方あるまい」
「松平様の所にお戻りください」
 短く土方がそう言ったので、将軍はわずかに眉を寄せた。真選組の副長である土方はどちらかと言えば堅物だということは承知していたが、余りにも早急な提案を不思議に思ったのだ。
「もう少し三味線屋と街を歩いてみたい」
 その言葉に土方は、僅かに俯き考え込む。本来将軍へ対する意見は許されていない。それに、松平は、将軍を探せと言ったが、連れて来いとは言わなかったのだ。それは、将軍がこのイベントを楽しめるようにという配慮からだと判断していた。要するに、将軍が飽きたら松平の元へ連れて行くということだ。
「……上様。街を歩くのならば自分がお供します。三味線屋はご勘弁下さい」
「駄目か」
 駄目だと明確に言える根拠がない土方は、散々迷った挙句に、口を開いた。
「三味線屋が厭だと言った場合は、無理強いなさらないでください」
 己の感情と、任務とのぎりぎりの妥協線である。土方はそう言うと、頭を下げた。
「一度、上様の前で三味線を披露させるために、彼女には無理を重ねさせました。これ以上はどうか……」
「……わかった。駄目だと三味線屋が言ったならば無理強いはしない。顔を上げろ土方」
 その言葉に、ほっとしたような顔を土方がしたので、将軍は口元を歪める。それに気がついた土方は、小さく言葉を零した。
「あの、何か?」
「近藤の事を思い出した。あの男も真っ青な顔をしながら、余に頭を下げて監察の娘をそばに置くのをたしなめた」
 将軍が気に入った監察の娘。山崎の相棒であり、近藤の恋人である女。当時は近藤と恋人同士ではなかったが、己の部下を守るために、近藤は将軍に意見したことがあった。そのことを言っているのだろうと思った土方は、思わず顔を赤くする。
「あ、いえ、別に自分と三味線屋は……」
 そこまで言葉を放って、土方は続けるべき言葉を探すことが出来ず黙り込んだ。それを見て将軍は珍しい物を見るような表情を作る。おおらかで、喜怒哀楽の激しい近藤とは逆に、土方に対して、常に冷静であるという印象を持っていたからである。
 結局そのまま黙り込んだ土方に助け舟を出すように、将軍は、己が松平と知り合いで、江戸見物に来たと言う設定でカグヤに案内を頼むように命令を出した。身分を隠すためによく使う手段ではあるのだが、それをカグヤが納得するのかと、些か土方は不安であった。しかしながら、身分を明かす訳にも行かず、土方は立ち上がると、カグヤのいる私室へ足を運んだ。
 部屋の中から聞こえる三味線の音に、思わず土方は立ち竦んだ。
「どーしたのさ。話、終わったの?」
 中からかけられた声に、土方は静かに室内に入った。三味線を弾く手を止めたカグヤが土方を見上げると、ほんの少しだけ表情を緩めた。無意識に煙草を探した土方を見て、カグヤは傍にある灰皿を差し出すと、彼はその前に座り、煙草に火をつける。
 数回吐出された煙を眺めながら、カグヤは三味線を抱いたまま土方の言葉を待っていた。
「……頼みがある」
 そう切り出した土方は、カグヤの拾った男が松平の知己であること、江戸見物に来たが松平と逸れたので真選組が探していたことを伝える。すると彼女は、大きく表情を変えることなくそれを聞いていた。
「手前ェが迷惑じゃなかったら、少し観光に付き合って欲しい」
「……えぇ?なにそれ。将ちゃんを松平様ん所連れていかなくていいの?」
「とっつあんはキャバクラ行っちまったんだよ」
「まぁ、別に暇だから良いけど、観光ってどこ行くのさ。それ次第」
「この近所ぐるぐる回りゃいい。幸い珍しいイベント中だしな。夕方にはどうせとっつあんの所に戻さなきゃなんねぇんだ。遠出は無理だ」
 我ながら苦しいいいわけだと思いながら、土方はそう言葉にした。それに対してカグヤは、ふぅんと気のない返事をした後に、土方に視線を送る。それに対し土方は一瞬の視線を逸らしてしまいたい衝動に駆られたが、それを押し込めて、煙草の煙を吐き出した。
「たけきの吟醸一本」
「交渉しておく」
 またこうやって嘘と無理を重ねるのかと心の中で土方は思わず舌打ちをした。断れ、と言えればどんなに楽であろうか。三味線を置いて立ち上がったカグヤは、そんじゃ、行きましょうかと軽い口調で部屋を出て行く。土方も煙草を揉み消すと、その後に続いた。
 座敷には将軍が座っており、カグヤは彼の顔を見ると笑顔を浮かべ口を開いた。
「それじゃ、行きましょうか将ちゃん」
 それに無言で頷いた将軍は立ち上がり、いそいそと正面玄関へ向かった。するとカグヤは、懐から鍵を取り出し、土方に投げてよこす。
「!?」
「兄さんの靴は勝手口でしょ?鍵閉めといてね」
「あぁ」
 そういい、土方は慌てて勝手口の方へ向かった。普段はカグヤも出入には勝手口を使用するのだが、今回は将軍と一緒に正面から入ってきたので、彼女は将軍と一緒に家を出ると、施錠をして土方が来るのを待つ。
「どこか行きたいところはある?」
「城下を歩きたい」
「……いいわよ」
 瞳を細めて笑ったカグヤを見て、将軍は小さく頷いた。

 二人からは少し離れて土方は歩くことにした。二人の後ろ姿を眺めながら、土方は小さく溜息をつく。一応松平や、将軍を探している他の隊士には連絡を入れたのだが、山崎だけはいざという時のために呼び寄せた。前回の出雲の一件がまた片付いていない山崎は若干渋ったが、カグヤの名前を出すとすぐに行くと言い切った。仕事に支障がない程度に抑えているとはいえ、あの愛弟子の師匠への忠誠心は見上げたものであると土方は思う。出雲の件でも高杉とギリギリのところで渡り合って、結果出雲を捕縛するに至ったのだ。その上、別れ際に高杉から押し付けられたという録音機械にには、他の幕臣と攘夷浪士の密会の様子が録音されており、出雲だけでなく他の幕臣も失脚に至った。
 今回の将軍のお忍びはこれのせいもある。昔から仕えている幕臣も数名失脚したのを、将軍は随分気に病んでいたのだ。その気晴らしにと松平が連れだしたのも、松平の性格からして分からないでもない。親代わりだと豪語している松平は、幕府の中でも利害関係なく将軍に対して心を砕いているのだ。天人に幕府をほぼ乗っ取られ、孤立し、お飾りだと言われている将軍に取って、松平は数少ない心を開く事のできる人間なのだろう。
 頭ではそう分かっているが、毎度毎度松平に引っ張る回されるのは、真選組の副長としても非常に難儀なのも事実で、自重しろと正直なところ土方は思っている。けれども、松平に拾われ、真選組として幕府に飼われている身としては文句をいうこともかなわず、今、こうやってまた、目の前の女に無理をさせている。
「……」
 将軍とカグヤは他愛のない話をしながら街を歩いている。それを視界に捉えながら、土方は、ふと、カグヤと一緒に街を歩いたことがないことに気がついた。会うのはもっぱら飲み屋か彼女の家で、精々飲み屋から彼女の家等の短い距離を移動のために歩くだけ。昼間に時折彼女の姿を見ることもあるが、お互いに挨拶もせずに素通りする事も多い。それは彼女が仕事中の自分に対して、邪魔をしないようにという配慮なのだろうと思っていたので今迄気にしたこともなかったのだが、知り合って随分経つというのに不思議なものだと土方はぼんやりと考えた。
「副長」
 突然後ろから声をかけられ、思わず土方は足を止めて振り返る。そこには山崎が立っており、怪訝そうな顔を土方に向けた。
「どうかしましたか?」
「いや」
 仕事中だというのに全く別のことを考えていた土方は、バツが悪かったのか、そっけなく返事をすると、再度将軍とカグヤの方へ視線を移した。
「……うわぁ。本当に上様と歩いてるんですねぇ」
 思わずそう声を上げた山崎を、土方は軽く睨みつけると、つまらなさそうに言葉を零した。
「将ちゃんって名乗ったんだとよ」
「……副長は本気で先生が、上様だって気がついてないと思ってるんですか?」
 山崎の言葉に土方は返答に迷った挙句、結局言葉を発することはなかった。山崎は非難するような視線を土方に向け、返答を待つが、土方が答えるつもりがないのを悟ると小さくため息をついた。
「先生が良いなら俺があれこれ言う事はないんですけどね」
「嘘つけ。おもいっきり今俺を責めてただろーが」
「莫迦だと思っただけですよ」
「上司に言う台詞かそれ」
 ぎょっとしたような顔を土方がしたので、山崎は不機嫌そうに顔を顰めると、将軍とカグヤに注意しながら、土方と並んで歩き出した。
「そうですね。今の発言は撤回します」
 すました顔をしてそう言った山崎に、土方は呆れたような顔を向ける。土方はその場にいなかったが、以前出雲の一件の時に、山崎が出雲に『先生に感謝してくださいよ。俺も高杉も先生が一番だから、アンタを殺さなかっただけです』と言い放ち、他の隊士が凍りつかせたという話を思い出し、軽く土方は首を振った。仕事の時は山崎は自分を選ぶだろうが、それ以外ではカグヤを選ぶ。それは山崎自身も言っていた事であるが、そう言い切るのは容易ではないだろうと土方は思う。少なくとも自分自身は言うことが出来ない。
「副長」
 山崎の声に土方は思考を引き戻されて、顔を上げた。すると、カグヤと将軍が喫茶店に入るところであり、慌てて後を追う。
 入った店は現在ハロウィンキャンペーンと銘打って、かぼちゃを使った菓子をメニューに入れているようで、どうやらカグヤ達はそれを目当てに店に入ったようだ。彼女たちの傍に座った土方と山崎は、とりあえず珈琲を注文した後に、将軍へ注意を向けた。もともと感情の起伏に乏しい将軍ではあるが、心なしか楽しそうにしており、松平の計画した気晴らしにはなったであろう。そんな事を考えながら、土方は、ウエイトレスの運んできた珈琲にマヨネーズをぶち込むと撹拌する。
「しっかし、いくらハロウィンイベントしてるからって、街歩くだけで楽しいか?」
 不服そうな土方に、山崎は少しだけ驚いたような顔をすると、珈琲を飲みながら返答をする。
「そうですか?俺は先生と一緒に歩けるなら楽しいですけど」
「歩いたことあるのかよ」
「……君菊としてですけどね。そういう副長はどうなんですか?」
「俺はアイツと昼間に歩いたことねぇよ。飲んでる時ぐれぇだ」
 土方の言葉に山崎は意外そうな顔をするが、余り深くは突っ込んでは来なかった。それに内心安心すると、土方は、つまらなさそうに将軍とカグヤに視線を向ける。二人のもとに運ばれてきたかぼちゃのパイを取り分けている姿を眺めて、土方は思わず瞳を細めた。
「アイツそう言えば、酒飲みのくせに甘いもんも好きだよな」
「アンコが好きだって言ってましたね。流石に銀時丼は無理だって言ってましたけど」
 米の上にアンコを乗せる、万事屋・坂田銀時特製丼は、カグヤでも無理らしい。そりゃそうだと思った土方は、思わず口元を緩めると、煙草に火をつけた。細く登る煙を眺めながら、椅子にもたれかかる。
「何で厭だって言わねぇんだろうな」
「厭じゃないからでしょ」
 ボソリと零れた土方の言葉に、山崎が呆れたように返答すると、彼は驚いたように山崎の顔を見た。
「厭じゃねぇって事はねぇだろ。幕府嫌いなんだし」
「……まぁ、嫌いなのは嫌いでしょうけど、だからと言って関わるの全部厭だって言わないでしょう。大体真選組だって幕府直轄ですし、先生の雇ってるピザ屋の旦那だって御庭番衆だったんですから」
 そう言われて、土方は少し考えこむような顔をする。それを呆れたような顔で山崎は眺めると、珈琲を一気に飲み干した。

 その後、街の中を歩きまわったり、子供に菓子をねだられ、カグヤが将軍に飴入りの巾着を渡す等あったが、日も暮れてきた所で、彼女たちは公園の中にある神社へ足を運んだ。ハロウィンに関係ない場所だと土方は思ったが、黙ってそれについていく。
 階段を上り、鳥居の見えたところで、カグヤは将軍に言葉を放つ。
「もう日も暮れてきたし、ここでおしまいね」
 それに神妙な顔をして将軍は頷いたが、カグヤが何故ここに自分を連れてきたのか理解できなかったようで、遠慮がちに口を開いた。
「ここには何が?」
 するとカグヤは見晴らしのいい場所へ移動して微笑んだ。
「少しこの神社高いところにあるでしょ?景色が綺麗なの」
 見下ろす城下は、先程まで歩いていたであろう商店街に明かりが灯され、光の川となっていた。元々店に灯される明かりと、それとは別にハロウィン用にと飾られたイルミネーション。将軍はそれを見下ろして瞳を細めた。
「あぁ、綺麗だ」
 満足そうにカグヤは笑うと、すっと別方向を彼女が指したので、将軍は釣られてそちらに視線をおくった。
 江戸城とそれにかかる月。
「将ちゃんがいつもいる場所からは見えないだろうから。本当はうちの屋根の上が一番よく見えるんだけど、登ったら兄さんが怒るからここで我慢してね」
 その言葉に将軍は驚いたような顔をしてカグヤの方を見る。
「気がついていたのか」
「何のことかしら」
 江戸城に住まう将軍は確かにこの光景を見ることは出来ない。カグヤは己が将軍だと承知で、知らない顔をしていたのだと気がついた彼は、困ったように笑うと、再度江戸城へ視線を向けた。
「……また余の座敷に上がってくれと頼めば承知してくれるか?」
「厭よ。私の三味線縁起が悪いもの」
 カグヤの言葉に落胆しながらも、縁起が悪いという意味がわからなかった将軍は首をかしげた。
「元々死んだ攘夷志士の魂を彼岸に送る為に三味線弾いてたの。だから、本当はあんまり人前で弾くの好きじゃないのよ」
「……そうか」
「でも、そうね。将ちゃんが自分の足で三味線屋に来て、自分の口で知人の三味線屋に弾いてくれって頼むんだったら……考えてもいいかな。知り合いの頼みは無下に出来ないし」
 そう言って咽喉で笑ったカグヤを眺めて、将軍は少し嬉しそうに瞳を細めて笑った。そして、思い出したように将軍はずっと握っていた巾着袋をカグヤに差し出した。子供に菓子をねだられた時に、カグヤが渡してくれたものだ。中に入っていた飴玉は随分減ってしまったが、それを配るのは本当に楽しかった。名残惜しいような感覚を抱きながら、将軍が差し出したのを察したのか、カグヤは笑って首を振る。
「あげる。飴玉はあんまり残ってないだろうけど」
「そうか」
 有難くカグヤの言葉を受け取った将軍は、大事そうに巾着を握りしめて、礼を述べた。
「そろそろ戻る。松平も心配してる」
「そうね。気をつけて。将ちゃん」
 将軍が一人で引き返してきたのを見て、土方と山崎は傍に駆け寄ると声を掛ける。
「もうよろしいのですか」
「あぁ。手間をかけさせた。三味線屋は、土方。お前が送ってやってくれ」
「しかし……」
「副長、車は俺が呼びますから、先生よろしくお願いします」
 山崎の言葉に渋々頷くと、土方はカグヤの所へ向かった。
 携帯電話で車の手配を終えた山崎は、緊張した面持ちで将軍の傍に控える。
「先生……と言っていたな」
 突然将軍から声をかけられた山崎は驚いたように将軍の方を見ると、小さく頷いた。
「はい。三味線を習ってますので」
「そうか。ならば彼女の三味線を聞く機会も多いのだろうな」
「人よりは……」
 曖昧にそう返答すると、将軍は一度、彼女のまだいるであろう神社に視線を送って、言葉を零した。
「羨ましいものだ」
 カグヤから貰ったのであろう小さな巾着を大事そうに抱えている将軍を見て、山崎は思わず瞳を細めた。本来は国の頂点に立っていたであろう将軍は、決して幸せではない。それを知っていて、カグヤはささやかな願いを叶えてくれたのではないだろうかとぼんやりと考えた。土方は厭だと何故言わないと言っていたが、厭だと、嫌いだと言うよりももっと優先してもいいと思ったものが、カグヤの中にあったのではないかと山崎はあの時思ったのだ。だからこそ自分は先生が好きで、先生に幸せになって欲しいと思っている。己で幸せにしようと思わない辺りは、非常に情けないとも思わないでもないが、今はそれで十分だと思った山崎は、思わず苦笑すると、漸く到着した迎えの車に、将軍と一緒に乗り込んだ。

 

 階段を登り切ると、カグヤはまだ江戸城を眺めており、土方はその後ろに立った。
「将ちゃん送らなくていいの?」
「俺は手前ェを送るように仰せつかった」
「大丈夫よ。家近いし」
 カグヤの言葉に土方は僅かに顔を顰めると、一歩、足を進めた。
「どーしたの。最近寒いし、人肌恋しい季節?」
 前にもそんな台詞を聞いたことがある、そうぼんやり考え、土方は手を伸ばし、後ろからカグヤを抱いた。それにカグヤは大きな反応を見せることなく、腰に回された手に自分の手を重ねると、軽くポンポンと叩く。
「……知ってたんだろ。あの男が誰か」
「さぁ」
 搾り出すような土方の声に、カグヤはそう短く返答すると、咽喉で笑う。
「どこの誰だって事は別に興味ないし。鼻緒が切れて、自分で直せないどん臭い男拾っただけ」
「厭だって言えよ。何で手前ぇはいつも大事なところで厭だって言わねぇんだ」
 将軍の座敷に上がるときも、今日も、カグヤは結局それを引き受けた。断る事もできたというのに。土方の言葉にカグヤは呆れたような顔をすると、重ねていた土方の手を少し緩ませて、体の方向を変えると、彼と向かい合った。
「……」
 カグヤの表情を見て、思わず土方が顔をそらそうとすると、彼女はそれを許さず、両手で土方の頬を挟むと、不機嫌そうな顔をして声を上げた。
「ほら、こっちちゃんと見る」
 そう云われ、土方は少々面食らったような顔をしたが、渋々といった感じで頷いた。
「厭だ厭だって思ってるの、私じゃなくて兄さんなんじゃないの?」
「え?」
「別に厭じゃないから引き受けたのに、何で怒られなきゃなんないのさ。意味が分からない」
 そう云われ、土方は、また視線を逸らそうとしたがそれは叶わず、カグヤにじっと見据えられる。逃げ出したい。思わず土方がそう思ったのを察したのかカグヤは、頬に触れる手に力を入れて、ぐっと、自分の方に土方の顔を引き寄せた。
 突然のことでバランスを崩しかけた土方は、反射的に彼女を抱く腕に力を入れた。それと同時に、己の唇に触れた柔らかい感覚に、数秒、思考を停止させる。
 自分の頬に触れていた、カグヤの手が離れ、彼女の顔もゆっくりと離れる。少しだけ低い位置にある彼女の顔を、思わず土方が見下ろすと、カグヤはにんまりと笑って言葉を発する。
「厭だって言いなさいよ」
「あ、いや、別に厭じゃねぇ……っていうか、手前ぇだったら……ありかもしんねぇって言うか……」
 しどろもどろになって言葉を発した土方を見て、カグヤは可笑しそうに口元を緩めると、土方の頬を軽く抓った。それに驚いた土方が、彼女の顔を凝視すると、彼女はまた、意地の悪い笑顔を浮かべて口を開く。
「厭じゃないのを、厭って兄さんも言わないじゃないのさ。それと一緒。相手を困らせる為に、厭だってのは別だけどね」
「……」
 どう反応していいのか解らない土方は、視線を散々彷徨わせた後、また渋々と言った感じで頷いた。
「まぁ、兄さんは仕事とか立場的に我慢しなきゃなんないこと多いだろうけど、私自身にそーゆー縛りはないから、兄さんが気にする必要ないの。こっちは勝手にするし。まぁ、でも、兄さんが厭だと思うんだったら、私に厭だって言わせるんじゃなくて、兄さんが厭だって言いなさいよ」
 カグヤの言葉に土方は思わずギクリとする。先程も言われたが、結局厭だ厭だと思っているのは自分だったのではないかと今更ながら思ったのだ。聞き分けよくカグヤが誰かに従うのがどうしても気に入らない。それが幕府なら尚更で、真選組という、幕臣という立場でありながら、そう思っている自分への言い訳をカグヤに押し付けていたのではないかと。山崎が言っていた通り、莫迦は自分だ、そう思って土方は情けない顔をして笑った。
「いつまで経っても進歩ねぇな俺」
「まぁ、良いんじゃないの?素敵な王子様でも待ってなさい。私は自分で探しに行くほうが好みだけどさ」
 そう言うと、カグヤはするりと土方の腕の中からすり抜けて階段の方へ歩いてゆく。
 暫くそれをぼんやりと眺めていた土方であったが、慌ててカグヤの後を走ってゆき、彼女の腕を掴む。すると、彼女は怪訝そうな顔をして振り返った。
「何?」
「あ、いや……その、だな。手前ェは厭じゃ……なかったのか?」
「まだ混ぜっ返すの?別に将ちゃんが誰かなんて興味ないって」
「そっちじゃねぇよ!……そっちじゃなくて……だな」
 顔を真っ赤にして言葉を探す土方を見たカグヤは、あぁ、と納得したような顔をすると、口を開いた。
「晋兄にはちゅーしたの内緒よ。煩いから。昔、銀さんにデコちゅーした時は、一日中銀さん追い掛け回されて大変だったし」
 それは酷い。思わずそう思った土方を見て、カグヤは瞳を細めて笑った。
「キス一つで命狙われるなんて割に合わないでしょ?面倒臭い女よねぇ、我ながら」
 そう言うと、カグヤは、バイバイ、と手を振ってさっさと家へ向かって歩いて行ってしまった。結局引き止める言葉も浮かばず、土方はそれを見送ると、煙草を取り出し火をつける。ふと、煙草のフィルターに視線を落とすと、そこにうっすらと紅が付いていて、それに気がついた土方は思わず赤面する。
「……意味わかんねぇよ……」
 高杉の話にすりかえられて、結局明確は答えをカグヤは置いて行かなかった。キスの一つや二つと彼女は思っているのかもしれないが、それが解らない以上、また無駄に無限反復な思考に入りそうになって土方は首を振る。待つ事ばかり考えて、動けないまま、気がついたらまた手遅れになるのではないか。そうぼんやり考えた土方は、不機嫌そうに顔を顰めて、煙草をもみ消した。
「割には合わねぇけど、そんでも……」
 高杉に取られるのは厭で、彼女が檻の中にいるのも気に入らない、そう思って、土方は江戸城にかかる月に視線を向けて瞳を細めた。


結局三味線屋を家まで送る任務未達成

20101001 ハスマキ

【MAINTOP】