*大事な約束よ*

 隣の部屋から聞こえる三味線の音に、土方十四郎はゆっくりと瞳を開ける。
 少し肌寒いと感じたのは部屋の窓が開いていたからだろう。窓を閉めようと布団から這い出た土方は、そこで漸く今自分がいる場所が屯所の自室ではない事に気がついた。

「……今何時だ?」

 部屋を見回すと小さな卓に乗せられた時計は既に12時近くを差しており、思わず舌打ちをする。
 昨日の晩に飲みに行って、そのままカグヤの家へ雪崩れ込んだのだ。そしてそのまままた飲み、気がつけばこの時間。隣から三味線の音がすると言う事は既に彼女は起きているのだろう。
 借りた布団を畳み、土方は顔を洗う為に部屋を出る事にした。

「クソ。飲みすぎた」

 いつもの事であるが、鏡に映った酷い顔を見て土方は眉間に皺を寄せると猛省する。底なしのカグヤと飲むといつも先に潰されて気がつけば朝である事が多い。仕事がある時はともかく、翌日が休みの時はつい飲みすぎる傾向にある。
 タオルを首にかけたままペタペタと台所の方へ向かうと、そこにいた人物は驚いたように土方を凝視して動きを止めた。

「山崎か」
「ふ……副長!?」

 声を上げた山崎を横目に、土方は水道の栓を捻り水を出すと、コップにそれを満たし一気に飲み干す。ちらりと山崎の手元に視線を送ると、茶筒を握っており茶を入れる所であると判断した土方は、俺の分も入れろと短く言う。

「はい」

 居心地悪そうに山崎は頷くと、茶葉を急須に入れコンロにかけてあったヤカンの湯を注いだ。

「今日は三味線の稽古か」
「はい。あの、副長は?」

 カグヤに三味線の稽古をつけて貰っている山崎は先程稽古が終わり、茶を入れる準備をしていたのだが、そこに突然土方が現れたので思わずそう聞く。見るからに寝起きであるし、格好も私服である。すると土方は面倒臭そうに瞳を細めると、煙草に火をつけた。

「昨日三味線屋と飲んでたんだよ」
「お泊り……という事ですかね……」
「まぁな」

 さらっと返答され山崎はひゃぁっと悲鳴を上げそうなのをぐっと堪える。元々土方と自分の先生であるカグヤが飲み友達である事は承知しているが、流石にこのタイミングは気まずいと途方に暮れた。そもそも稽古の時カグヤは土方がいるなどと一言も言っていなかったのだ。

「あの莫迦が意地張りやがるから……」

 余り詳しく話さないで欲しい、と思いながら山崎は急須から茶を注ぐと三つの湯呑を盆に乗せる。

「どっちがよ。ったく、酷い目に合ったわ」

 三味線教室に使っている和室から顔を出したカグヤがしかめっ面で声をかけて来たので、土方は煙草の煙を吐きながら不服そうな顔をする。その様子に山崎は更に居心地が悪くなり、曖昧に笑うと、お茶入りましたと盆を差し出す。
 するとカグヤは鮮やかに微笑んで礼を述べ、山崎を和室に招き入れた。

「兄さん、冷蔵庫に水羊羹入ってるからソレ持ってきて」
「おう」

 土方の返事を背に聞きながら、山崎は盆を和室に置いてある卓に乗せるとカグヤの様子を伺った。先程まで使っていた三味線は置かれており、彼女も今日は山崎の稽古以外予定もないのでのんびりとした雰囲気である。

「副長がいるなら教えて下さいよ!」

 小声で山崎が耳打ちすると、カグヤは自分の湯呑を手に取って不思議そうな顔をする。

「なんで?」
「いえ、その、気まずいじゃないですか」
「だって兄さん、ザキさんが三味線の稽古してるの知ってるんでしょ?」
「そっちじゃなくてですね……」

 ワザとですか、ワザとですよねと山崎は思わず言いたくなるがそれを堪える。普段は察しが良く頭の切り替えの早いカグヤが自分の言いたい事に気がつかない筈はないと思ったのだ。それでも口に出せない山崎の困り果てた姿を暫く眺めていたカグヤはぷっと吹き出すと、ごめんねと笑う。

「寝不足なのは寝不足なんだけどさ、それ言ったらザキさんが気を使って稽古しないで帰っちゃうと思ってさ。悪いじゃない、稽古は前々から決まってたのに」
「そんな所で気を使わないで下さいよ!そもそも俺月謝払ってませんし!」
「でも銀さんへの仲介料は払ってるでしょ?」
「それは……払ってますけど」

 普通生徒はカグヤへの月謝と万事屋への仲介料をまとめて払っているのだが、山崎は他の生徒と彼女に三味線を習いに来た経緯が少し異なっていた。元々潜入捜査をカグヤに頼む為にここを訪れた山崎であるが、自分も三味線が弾けるに越した事がないと彼女に指南を頼んだのだ。一緒に座敷に上がるのに、弟子を名乗っていたからで、座敷で三味線を山崎が弾かされる事はないが、いざという時の為、そして、ゆくゆくは一人で座敷への潜入捜査が出来るようにとの事だった。普段彼女に座敷に山崎を連れて行ってもらう時真選組から金を払っている事もあり、彼女は山崎から一切月謝を取っていなかった。唯一払っているのは万事屋への仲介料だけである。それも大きな額ではない。
 元々座敷では【迦具夜姫】等と呼ばれ、三味線の抜群に巧い名妓としてカグヤは名を広めているが、彼女自体は座敷に上がるのが好きではないし、元攘夷志士と言う事もあり、潜入捜査に付き合うのが面倒なのだ。早く山崎が一人で座敷に上がれる様になれば自分は仕事を引き受けなくても良いと言う事で、サービスで山崎に三味線を教えている。
 言葉に詰まった山崎の後ろの戸が開き、そこには丁寧に切り分けられた水羊羹を皿に乗せた土方が立っていた。

「こんな寒い時期に水羊羹ってどーよ。夏の食いもんだろーが」
「いいじゃないのさ。好物なんだから」

 卓に皿を載せると、土方は座蒲団に座りまた煙草に火をつける。

「どーした山崎」
「いえ……その、俺そろそろ帰ろうかなぁと」
「え?水羊羹嫌い?」

 驚いたように言うカグヤを見て山崎は首を振り、好きです!と声を上げる。するとカグヤが安心したように笑ったので、結局観念し山崎は土方の隣へちょこんと座った。

「あ、帰りにDVD返してきといてよ」
「全部見たのかよ」
「見たわよ。兄さんが寝た後も」

 何気なく始まった土方とカグヤの会話に山崎は思わず首を傾げる。

「DVDですか?」
「そーよ。昨日さ、飲み屋で兄さんと映画の話になってね」

 カグヤは小さくため息をつくと、昨日の出来事を話しだした。どうやら、土方が好きな映画のシリーズをカグヤは余り見ていなかったらしい。たまたま彼女が見た話が余り面白くなかったので、それ以降そのシリーズは見ていないと土方に話をした所、一番評判の悪い話を見てシリーズ全部語るなと喧嘩になったのだと言う。

「そんで、そのままレンタル屋に行ってさ、兄さんがお勧めの話全部借りてきて上映会」
「大体何で偶然見たのがよりにもよって、ファンの中でも闇歴史みてーなのなんだよ!」

 カグヤの言葉に土方は不服そうに言うと水羊羹を口に放り込む。彼にしてみれば、贔屓にしてるシリーズの名誉挽回したい一心だったのだろう。

「……全部って。何本見たんですか?」
「兄さんは2本半ば位でダウンしたんだっけ?私は借りてきた3本全部見たけど」
「酒も入ってたんだから仕方ねーだろ」

 途中で寝てしまったと言わればつの悪そうな顔をした土方が言葉を足す。そもそも飲み屋で喧嘩になった時点で相当酒は入っていたのだろう。でなければレンタル屋になだれ込んで上映会になると言う事はそうそうない。

「3本って。先生いつ寝たんですか!?」

 普通映画は一時間半から二時間あると考えれば、彼女が寝たのはどう考えても明け方であろうと思った山崎は思わず声を上げる。

「あんま覚えてないわ。外は明るくなってたけど」
「言ってくれれば稽古の日変えても良かったのに!」

 山崎が声を上げるとカグヤは苦笑する。

「流石にいい歳して映画見てて寝る暇なかったから仕事延期してとか言えないじゃないのさ。それに私寝なくても結構大丈夫な方だし。昔ほどじゃないけど」

 確かに殆ど寝ていない割には元気そうではあるが、それでも申し訳ないと思った山崎は思わず頭を抱えたくなる。そもそも自分の所の副長が売ってしまった喧嘩だ。

「で、どーだったよ」
「私が見たやつがつまんなかっただけだったわ。兄さんお勧めは結構面白かった」
「だろ?」

 満足そうに笑う土方を見て、山崎は思わずため息をついた。

「何と言うか、男子学生のノリですね……」

 思わずそう零した山崎に土方は少し驚いたような顔をする。

「そーか?」
「そうですよ」

 思わずうらみがましい声を山崎が出したのは、一人で気を使って居心地が悪くなっていたのが馬鹿らしくなったからだ。いい歳の男女が酒の勢いで家になだれ込んで、DVDの上映会等健全過ぎて予想も出来なかったのだ。酔っ払ってという時点で健全ではないかもしれないが、ノリとしては羽目を外した男子学生に近い。

「今度また新作あるらしい」
「あ、そうなの?」

 映画の話で盛り上がる二人を眺めて山崎は安心したような、それでいて納得できない様な複雑そうな顔をした。二人の付き合いに関しては余り詳しくは知らないが、土方が朝帰りの時はいつもこんな感じなのかもしれないと思ったのだ。
 山崎が茶のお代わりを入れようと立ち上がった時に、玄関の呼び鈴が鳴らされた。しかしカグヤが一向に動こうとしないので、土方は首を傾げる。

「出なくていいのかよ」
「コレ正面玄関の呼び鈴なのよ。今日はザキさんの稽古で仕事終わりだから出ないの」

 ふぅん、と土方は納得したような顔をする。そう言えば彼女は正面玄関のチャイムは殆ど無視する。彼女と親しい人間や、荷運び等は基本的に勝手口を使うのだ。正面からわざわざ来るのは、稽古に来る生徒と、面倒な勧誘等だけなのだと言う。稽古の日時は決まっているのでそれ以外の呼び鈴は無視すると言うのも道理に合っている。
 山崎が茶を持って帰ってくると、土方は顔を顰めてその茶を受け取った。

「しつけーな」
「そうですね」

 間を置いて何度も押される呼び鈴に山崎も困惑顔である。カグヤは慣れている為か気にした素振りも見せずに水羊羹を口に運ぶ。

「ちょっと出て良いか?勧誘だったら追っ払ってやるから」

 我慢できなくなった土方が立ち上がると、カグヤは苦笑して頷いた。土方が睨めば大概の勧誘は逃げ出すだろうし、食い下がるようならば真選組だと名乗るのだろう。
 施錠を外し土方が扉を開ける。

「新聞なら間に合ってる。つーか、しつけーよ」

 不機嫌さを滲みださせた声で土方が言うと、呼び鈴を押し続けていたのであろう人物は、目を大きく見開き短い悲鳴を上げた。
 女である事に気がついた土方は怪訝そうな顔をしたが、直ぐに扉を閉めようとする。

「あ!待って。迦具夜姫さんおらんの?」
「……知り合いか?」

 一応確認すると、女は小さく頷く。それを信用していいものか土方が悩んでいると、部屋の中から能天気なカグヤの声が玄関まで響く。

「留守よー」
「莫迦か手前ェは。留守が返事するか!」

 中に向かって怒鳴る土方を見て女は少しだけ緊張した表情を和らげると、中にいるカグヤに声をかける。

「そないな冷たい事言わんといてよ、迦具夜ちゃん」
「いーなーいーのー」

 子供の様に返事をするカグヤに土方は思わず頭を抱えたくなる。

「三味線屋、追い返して良いのか?」
「そんなぁ。ほんまちょっと話しに来ただけなんやから。ね。直ぐに帰るし」

 食い下がる女に土方が不機嫌そうな顔をすると、座敷からカグヤが顔を出す。

「私は話ないんだけど」
「うちはあるんよ。ほんま、聞くだけ聞いてな迦具夜ちゃん」

 拝むように頭を下げる女にカグヤはため息をつくと上がって、と短く言う。それに土方は何も言わなかったが、二人の様子を見ると知り合いと言う事はウソではないらしい。【迦具夜姫】と言うカグヤが座敷で使う名前を女が呼んだと言う事は芸妓仲間なのかもしれないと思いながら土方も座敷に引き返す。するとそこには座蒲団と新しい茶を準備した山崎がおり、どうぞ、温和に笑うと女に座る様に促す。

「先生、あの。お邪魔でしょうから帰ります」

 山崎が小声で言うと、女は驚いたような顔をする。

「ええんよ。直ぐに終わるし。二人ともお弟子さん?」
「こっちはね」

 山崎を見てカグヤが言うと、女は残った土方に視線を送り少し困ったような顔をする。

「もしかして……こっちは迦具夜ちゃんの旦那様?」

 女の発言に土方は暫くぽかんとした様な顔をしたが、直ぐに顔を真っ赤にして怒りだす。

「何でそーなるんだ!?意味が解らねぇよ!」
「副……土方さん落ち着いて下さい!」

 驚いた山崎は思わず副長と呼びそうになるが、土方はともかく自分が真選組である事を云うのは今後の潜入業務上拙いと慌てて言い直しヒートアップする土方を止める。突然怒鳴られた女は目を丸くするが、クスクスと笑う。

「ええんよ。迦具夜ちゃん器量もええし、旦那様の一人や二人今までおらんかったのが不思議な位やし」
「はぁ?」

 一人や二人の意味が解らない土方が間抜けな声を上げると、山崎が耳打ちする。

「芸妓の旦那様の事ですよ。パトロンとかスポンサーとかそんな感じで」
「どっちにしろ違う!大体この女が男に貢がれて喜ぶタマかよ」

 不機嫌そうな顔をした土方は煙草に火をつけると煙を吐き出し全面否定する。すると女は腑に落ちない様な顔をし土方の顔を凝視し、首を傾げた。

「真選組の副長やってはる人?」
「そーだよ」

 制服を着ていないが土方は比較的メディアへの露出が多いので有名と言えば有名である。余り良い意味ではないが。逆に山崎等は顔が知られると任務に支障をきたすので殆ど露出はなく、私服で出歩いている場合は真選組だと知られる事はまずなかった。

「別に芸妓囲うのも男の甲斐性やねんから、隠さんでもええんよ。そない怒らんと」

 有名人であるから隠しているのだろうと思った女の言葉に、土方は勢いよく煙を吐き出すと、カグヤに向かって言葉を放つ。

「なぁ。殴っていいかこの女。話聞かねぇし」
「外でやってよ。武装警察が一般人殴って良いなら」

 呆れたように言ったカグヤに土方は言葉に詰まる。流石に女を殴るのは拙いと思ったのだろう。その反応に山崎はほっとすると、別の話題を振る事にする。このまま旦那様の話をされて土方の機嫌を損ねるのも精神衛生上良くない。

「先生の友達なんですか?」

 やんわりと人懐っこい笑顔を向けた山崎に女は微笑みかける。

「友達って言うんはちゃうかなぁ。うち協会の人間やから。座敷には何度か一緒に上がらしてもらっとるけど」
「協会?」

 聞きなれない言葉に土方が声を上げたが、山崎は納得したように頷く。

「芸妓の協会とか、組合とかあるんですよ。普通の芸妓はそこに所属して、仕事貰うんです」

 江戸にもいつくか存在する芸妓のグループの一つに彼女は所属しているのであろう。
 そもそも芸妓は基本的に協会や組合に所属して仕事を安定して斡旋してもらう。指名がつくほどの腕ならばともかく、半人前や新人は普通にやっていては食ってはいけないのだ。グループに所属すればある程度の安定した給金は約束されるし、人材を育てる事にも熱心なので指導や必要な物の斡旋等も格安で行ってくれているのだ。
 山崎に一通り説明を受けると、土方はふぅんと素直に納得したような顔をする。

「詳しいんやね。流石迦具夜ちゃんのお弟子さん」

 山崎も座敷への潜入任務の為に調べて知っていただけで、それまではまったく知らなかったので曖昧に笑うと、ちょっとだけですけどねと付け足す。

「手前ェの所属してるグループか?」
「え?私どこにも入ってないし。うちの仲介は銀さんの所だって知ってるでしょーが」

 土方の言葉にカグヤが呆れ顔で返答すると、彼は納得したような顔をする。確かにカグヤへの仕事の依頼は一括で万事屋が引き受けている。本来は協会や組合が引き受ける仕事であろう。

「そこなんよ。なぁ、いい加減うちの協会入ってくれん?うんと給金弾むし、迦具夜ちゃんの腕やったらもっと稼げると思うんよ」
「えー、いやぁー」

 勧誘と言えば勧誘だなと思いながら土方は女とカグヤのやり取りを眺める。カグヤは全くその気はなく、人を莫迦にしたような返事をしているが。

「何で協会入ってねぇんだ?」
「仕事安定して引き受けられないのよ。そもそも私は三味線弾く以外座敷ではしたくないし。芸妓として一人前じゃないのよ。それなのに所属したら他に迷惑掛るでしょうが」
「何言うとるんよ。礼儀作法も踊りも一通り出来るやないの。それに迦具夜姫が三味線弾く以外何もせんのは有名やし、問題ないって」

 出来るのにしないのかと土方は呆れた様な顔をする。それは出来ないより性質が悪い。煙草の煙を吐きながら土方は必死に食い下がる女を眺める。

「大体私が余所に所属したら銀さんが干上がるじゃない」
「そりゃ万事屋さんには悪いとは思うねんけど、うちも最近人気の芸妓が辞めてもうて困っとるんよ」

 女の言葉に土方派怪訝そうな顔をすると、山崎に耳打ちする。

「新しいの雇えばいいんじゃねぇの?三味線屋より若くて愛想良い奴ごろごろいそうなもんだがな」
「芸妓って直ぐになれるもんじゃないんですよ。新人育てるより、即戦力の先生が良いんじゃないですか?殆ど仕事蹴ってますけど指名も多いですしね」

 礼儀作法から踊り、三味線。全てを徹底的に仕込まれて漸く座敷に上がれる。それでも下積み期間は他の仕事に比べて圧倒的に長いのだと言う。グループの評判にも関わるので、下手な人間を座敷に派遣できないのだ。カグヤの様に三味線だけ弾くと言うのは寧ろ異端なのだと。

「それに最近迦具夜ちゃんお弟子さんも座敷に連れてきてるみたいやん。その子も一緒にうちに入れてな、うんと奮発するし」

 その言葉に思わず山崎はぎょっとする。その弟子が目の前にいると女も思ってもいないのだろう。山崎も監察の仕事として座敷に上がりはするが、プロとして食べていく気は当然ないし、グループへの所属を勧誘されても困る。

「無理。って言うかあの子は万事屋経由になるし。大事な銀さんの収入源だし」
「迦具夜ちゃーん」

 情けない声を出して名を呼ぶ女にカグヤは困った様に笑いかけると、ごめんねと詫びる。

「本当にお仕事安定して受けれないの。銀さんにも現状迷惑かけてるし」

 諦めきれない女は食い下がろうとするが、結局暫く悩んだ後に小さくため息をつく。

「あかん?」
「無理」
「……気が変わったらいつでも言うてね」

 項垂れそう言う女にカグヤは困った様に笑いかけた。

***

 カグヤに頼まれたDVDを返却した土方は屯所に戻ると風呂に入り、廊下を歩く。カグヤを勧誘に来た女が帰った後に山崎と昼食を取って戻ったのだ。折角の休みは潰れてしまったが、そもそも予定などなかったので問題はない。
 ふと、鼓膜を揺らす三味線の音に土方は足を止めて辺りを見回す。山崎が三味線を弾くのは監察室が多い。しかしそれは本人が休みであっても、他の隊士の業務が終わってからの夕方からが多く、平隊士である山崎は部屋も相部屋なので自室で弾く事も殆どない。
 草履を履いて庭に出ると、土方は微かに聞こえる三味線の音をたどり、敷地の隅にある道場へたどり着いた。そこの縁側で山崎が三味線を弾いていたのだ。今日の稽古のおさらいなのだろうか、同じ曲を熱心に繰り返し弾いている。
 邪魔をするのも悪いと思ったが、これと言ってする事もなかった土方は山崎の傍によると、座蒲団を持ちだし縁側に敷きそこに座る。

「副長」
「かまわねぇ。続けろ。暇潰しに聞きに来ただけだ」

 手を止めようとした山崎にそういうと、土方は煙草に火をつけて、庭を眺めながらそう零した。山崎は困った様に笑ったが、おさらいを続行する事にしたのか、また三味線を弾きだした。
 暫くは黙って聞いていた土方だが、苦笑しながら小声で呟いた。

「同じ所で音外すなよ」
「すみません」

 情けない顔で笑った山崎は手を止めて、休憩するんでお茶入れますと三味線を置き、道場の中へ入っていく。
 それを見送った土方は、三味線を暫く眺めていたが、手にとって弦を指で弾いてみる。カグヤとも山崎とも違う酷く不細工な音が響き思わず顔を顰めた。

「弾いてみます?」
「いや、俺には無理っぽい」

 山崎から茶を受け取ると、土方はそっと三味線を置き笑う。何故弾く人間によってこんなにも音が違うのだろうといつも不思議に思っていたが、まさか、自分が出す音があんなにも不細工だとは思わなかった土方は瞳を細めた。

「三味線屋の音は独特だな。あんま他の三味線聞いた事ねぇけどよ」
「中毒性ありますよね。先生の音聞いた後に他の三味線聞いても物足りなく感じると言うか。だから先生の指名多いんでしょうけど」

 その言葉に土方はそんなもんかと思いながら、思い出したように口を開いた。

「真面目に仕事すりゃ随分稼げるのにアイツの仕事嫌いも大概だな」

 指名料やなんだかんだで一回の座敷でカグヤは結構な額を稼ぐが、本人がその仕事が好きではないと殆ど断ってしまうのは万事屋も本人も言っていた。ただ、カグヤ自身が金に対しては淡白であるのは付き合いで土方も知っていたので余り言う気にもなれない。飲み屋での金払いは良いが、それ以外は生活も割と質素である。金に困っていると話も聞かないので、困らない程度の仕事しか引き受けていないのだろう。

「万事屋は干上がるかもしれねぇけど、フリーよりは良いんじゃねぇの?」

 その言葉に山崎は僅かに眉間に皺を寄せると言葉を放った。

「安定して仕事受けれないからでしょうね」
「なんでだ?アイツ夜は飲み歩いてんだろーが。昼間は三味線教室あるだろーけど」

 不思議そうな顔をした土方に山崎は少し視線を彷徨わせると、ぼそりと呟く。

「先生は何も言わないんですけどね。多分高杉の所為じゃないかと」

 思わぬ名前が出てきて土方は返答に詰まる。カグヤの幼馴染で全国指名手配の男。

「……旦那様が出来たら高杉の野郎が怒る……って訳じゃねぇよな」

 そもそもカグヤが性格的に男に囲われる生活を選ぶ事はなさそうであるし、高杉に遠慮する性格でもない。そんな性格ならばとっくの昔にあの男の元に戻っているだろう。

「そうじゃなくて、先生の都合にお構いなしで攫いに来るじゃないですか。俺の稽古も基本的曜日が決まってるとかじゃなくて、万事屋の旦那経由でお互いに都合のいい日を選んで稽古してるんですよ。他の生徒さんも。で、もしも先生の都合が合わなくなったら、万事屋の旦那が前日に連絡くれるんですけどね」

 その時は此方の都合だからとカグヤは山崎も含めて他の生徒も振り替えた稽古分の月謝は取らないと言う。
 暫く黙って聞いていた土方は、不機嫌そうに眉間に皺を寄せ煙草に火を付けた。

「この前も万事屋の旦那から日付変えてくれって連絡あったんで、ちょっと調べてみたんですけど。先生が教室休むのは鬼兵隊が江戸にいる時がやっぱり多いみたいで」

 監察である山崎は攘夷志士の動きには敏感である。その中で過激派筆頭・鬼兵隊は常に張り付かせている監察がいる位要注意グループなのだ。

「アイツ……拉致られたら連絡入れろって言ってんのに、全然言う事聞きやがらねぇな」
「連絡出来ない状況なのかもしれないですし」

 宥める様に山崎が言うが、土方は煙草の煙を細く吐きながら愚痴っぽく零す。飲む時以外は殆ど連絡を取らないし、プライベートな事だと言われればそれまでなのだが、高杉に関しては面倒臭がって協力的でないのに腹が立つのだ。良くも悪くも公平で、鬼兵隊にも真選組にも肩入れはしない。

「……まぁ、先生の場合は元々芸妓になりたくてなった訳じゃないらしいんですけどね」
「そーなのか?」

 驚いたように土方が言うので山崎は頷く。そもそも、知り合いに頼まれて三味線を座敷で弾いたのが切欠で、その時某有名音楽プロデューサーに気にいられ【迦具夜姫】と言う名を貰ったのだと言う。それが評判になり、いつの間にか本人のやる気とは裏腹に有名芸妓の仲間入りをしたらしい。

「前から気になってたんだが、その音楽プロデューサーって誰?」
「お通ちゃんの曲作ってるつんぽって言う人らしいですよ。つんぽと組んだらヒット確実って言われてる人で、気にいられたら将来確実!みたいな感じらしいです。先生はスカウト断った事もあって逆に有名になったって他の芸妓の人が言ってました」

 カグヤはそんな話を山崎にしないので、座敷に上がった際に他の芸妓から聞いた話を土方にすると、彼は煙草の煙を吐き出しながら瞳を細めた。

「三味線屋がアイドルとか笑っちまうな」
「お通ちゃん路線以外も色々手がけてますからね。先生はつんぽが有名だって知らなかったらしいですよ」

 酒の銘柄は覚えていても、有名人等興味がないのだろう。随分長い間、彼女が自分が真選組の副長だと言うのを全く信じていなかったのを思い出し土方は苦笑する。意外と古風で、流行に余り興味を示さない。知識としては知っているが、興味がないので突っ込んで知ろうとしない傾向もある。その癖に興味がある事は貪欲に吸収する。

「……高杉の檻か……」

 逃げ続ける彼女にちらつくのはいつも高杉晋助。
 土方がぼそりと呟いた言葉に山崎も思わず反応する。カグヤ自身は聞かなければ何も言わないが、高杉の所為で不自由がある事は確かだと山崎も薄々感じてはいたのだ。檻から逃げ出した筈なのにまだどこかで逃げ切れていない。

「先生が余り人付合いしないのも、仕事を引き受けないのも高杉の所為なんですかね」

 山崎が聞いた所、カグヤの家は三味線の稽古や仕事関係の人間以外は殆ど出入りがないのだ。彼女の元攘夷志士であると土方から聞いて、再度身辺調査はしてみたが、親しい人間は万事屋位で、それこそ他は高杉と思われる人間程度である。カグヤ自身が社交的ではないとは山崎は思った事はない。話をするのも聞くのも上手いし、口は悪いと土方は言うが、それは万事屋や土方など特に仲が良い人間に対して目立つだけで、それ以外は多少物言いは明確でキツイイメージではあるが悪いと言う程でもない。
 もしも座敷に上がって贔屓の客が出来れば高杉はそれを許すとは思えないし、プライベートに関してもカグヤへの執着の強いあの男が黙っているとも思えない。以前座敷で見た高杉が、明らかに土方に対して敵意を持った発言をしていたのもその延長であろうと山崎は思っていた。

「……万事屋の旦那や副長は高杉にちょっかい出されても大丈夫だからなんですかね」
「さぁな」

 短く土方は返答した。万事屋と同列に並べられるのは不本意であるが、山崎が言う事も見当外れではないだろうと土方もぼんやりと考える。ただし本人は何も言わない。

「高杉、早く捕まえられると良いですね」
「良いですねじゃなくて、捕まえるんだよ。三味線屋云々置いておいてもアイツは俺たちの敵だ」

 山崎の言葉をぴしゃりと訂正すると、土方は不機嫌そうに立ち上がり、邪魔したなと言い屯所へ戻って行った。

***

 翌日。土方はDVDを持って市内巡回中にカグヤの元を訪れた。先日一緒に見た映画シリーズで、土方が気にいっていたがレンタル中だった物を選んで持ってきたのだ。
 勝手口の扉に手をかけると鍵がかかっていなかったので土方はそのまま上がる事にした。在宅の時は鍵をかけていないのだ。

「上がるぞ」

 声をかけるが返事はなく、三味線の音が聞こえないので生徒が来ているというわけでもなさそうだと、土方は首を傾げた。
 座敷を覗き込むと、そこには畳みに寝転がるカグヤの姿が見え、思わずぎょっとするが、昼寝をしているのだと直ぐに気がつく。そっと足音を忍ばせて傍による。起こすのも悪いと、卓にDVDを置いて帰ろうかと思った時、彼女ががばっと起き上がったので驚いて土方はDVDを床に落とす。

「オイオイ。寝ぼけてるのか三味線屋」
「……兄さん?」

 それはほんの一瞬の出来事だった。起き上ったカグヤが枕元にあったバチを握りしめそれを土方の咽喉元に突き付けたのだ。間一髪の所で土方は彼女の腕をつかみ、事なきを得るが、己に向けられた殺気に思わず厭な汗を書く。

「そろそろ手、放しても大丈夫か?」
「そうね」

 何事もなかったかのようにカグヤはバチを引っ込めると、元あった様に三味線の横に置き伸びをする。

「昼寝なんかするもんじゃないわねやっぱり」

 そう言いながら彼女が台所の方へ消えたので、土方は先程まで彼女の腕をつかんでいた己の手に視線を落とす。

「……元攘夷志士か……」

 刀を置いてもいまだに安眠する事はないのだろうかとぼんやりと考える。良く良く考えてみれば彼女の寝ている姿を見るのも初めてであるし、寝るのが苦手だと聞いた事もあった。その時は意味が解らなかったのだが、今その理由がなんとなく理解できた。
 悪夢にうなされるのか、傷が痛むのか。
 どんなに酒を飲んでもカグヤは土方の前で寝る事はなかったし、朝も彼より早く起きる。余り寝なくても大丈夫だと山崎に言っていたが、それは嘗ての名残なのかもしれない。

「悪かったわね。どーしたの今日は」

 茶を持って戻って来たカグヤの声に土方は我に返ると、床に落としたDVDを拾い上げ彼女に渡す。

「この前借りられなかった分だ。暇な時にでも見ろ」
「あ、ほんと?ありがとう」

 受け取りタイトルを確認するカグヤを眺めて土方は瞳を細めた。

「一つ。聞きてぇ事があるんだが」
「なぁに?」
「本気で逃げようと思ってんのか?」

 高杉の事を差しているのはカグヤにも直ぐに理解できた。土方は本気で逃げたいのならば何故協力しないと言いたいのだろう。

「……大昔にね。先生と約束した事が一つあるの」

 突然カグヤが何の前触れもなく昔話を始めたので土方は戸惑ったが、話を聞く事にする。宇宙に行った男の話は何度か聞いたが、彼女の先生とやらの話は余り聞いた事がなかったのだ。

「晋兄は誰よりも繊細で、優しくて、傷つきやすいから見捨てないでやってくれって」

 彼女の言葉に土方は僅かに瞳を細めた。

「でも先生が死んでから晋兄は病んでいったし、私が甘やかしたままだとお互いに駄目だと思った。だから、檻を出たのよ。先生の約束を守ったまま」
「矛盾してる」
「……私は晋兄の敵には絶対にならない。先生との約束だから。けど、仲間にも絶対にならない。私自身の為にね」

 カグヤの言葉を聞いた土方は返答に迷う。すり切れそうな約束と、己自身を守る為に彼女が選んだのは一見矛盾しているがまっすぐな道なのだと思う。けれどそれではどちらかが死ぬまで現状は変わらない。
 土方の複雑そうな顔を見て、カグヤは困った様に笑うと口を開いた。

「もしも……晋兄が先生との約束を思い出したら……きっと今よりはましになるんだろうけどね」
「約束?」
「そう」

 そう言うとカグヤは細い指を土方に差しだした。

「ゆびきりしたのを忘れた晋兄は救いようがないんだけどね」

 苦笑したカグヤを見て土方は小さくため息をつく。元々気になった事を聞きたかっただけで、協力を仰ぐ為に来た訳ではないが、彼女が今のスタンスを変えないと再度確認するとため息しか出ない。彼女が貫くと決めた事に口出しをする気もないし、その権利もない。ただ、土方自身が今まで通り高杉を敵とみなし追うだけである。

「……仕方ねぇな」

 面倒臭そうに零した土方を見てカグヤは鮮やかに微笑んだ。

「お茶、お代わりは?」
「いや、いい。仕事の途中だ」

 立ちあがった土方は首を振ると勝手口に向かう。それを見送る為にカグヤは土方の後について行った。

「……昼寝の邪魔して悪かったな」
「一人で昼寝なんかするもんじゃないわね。ろくな夢見やしない」

 靴を履きながら土方はカグヤの言葉を聞き、不機嫌そうに顔を顰めた。

「悪い夢か?」
「忘れちゃったわ」

 それは嘘だと思ったが、土方は何も言わずに瞳を細める。カグヤが忘れたと切り捨てたと言う事は、恐らく突っ込まれて聞かれたくないか、思い出したくないのだろう。人の気配に飛び起きた彼女の様子を見ればそれは察する事が出来る。周りのテンションに乗せられて、勢いで攘夷戦争に参加したと酒の席では言っていたが、そんな軽いものではないのだろう。蝕む傷は確実に彼女の中に存在し、彼女はそれを晒そうとしない。だからあえて土方は触れない事にした。いずれ気が向けば自分に話す気がしたのだ。

「寝れねぇんだったらそのDVD見とけ」
「そーね。ありがとう兄さん」

 そのまま出て行こうとした土方はふと思い出したように口を開く。

「高杉の忘れた約束ってなんだ?」
「大事な約束よ。ゆびきりした約束って絶対に忘れちゃいけないの。兄さんも覚えておいてね」

 話をはぐらかされたと思い土方は一瞬眉間に皺を寄せるが、思わず自分の手を見る。ゆびきりなどした事がないと思ったのだ。

「針千本は怖ぇな」

 土方がそう呟くとカグヤは瞳を細めて笑った。

 仕事に戻った土方は市内を見回りながら、己の手を何となく眺める。彼女の小指にあるのは擦り切れた約束。それはきっと尊い約束なのだろうが、死んだ人間と繋がる鎖の様に土方には思えた。
 攘夷戦争は終わり、世界は外へ向かっているのに、いまだに内へと縛られるカグヤと高杉。檻から抜け出しても切れないその鎖はいつまで彼女を縛るのだろうか。そう考えると不快になった土方は、眉間にしわを寄せると眺めていた手を握りしめた。


駄目な大人コンビの土方・迦具夜姫
200911 ハスマキ

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